低く灰色の
「誰がりっちゃんですか、かすりもしてませんが」
「ありがたくも畏れ多いですが、利子という昭和な名前を親からもらっておりますので! それと声は美人ですが本体は豚ですよ野尻課長。本社来て期待外れだからって、即死しないでくださいね」
「あと、お話長過ぎて仕事差支えてきてるんで切りますねー」
声は美人って、自分で言っちゃったよと隣席の和田が笑うのを聞きながら、根本は受話器を置いた。
「だって私、本当に声だけは期待されるんですよー。野尻さん、無駄に期待だけ膨らませてて申し訳ないですよ」
「確かに奇麗な声出すもんな。勝手に期待してるんなら、勝手に失望させたらいいんじゃないの?」
「いやー、リトルハートにはそれが結構堪えるんで」
「リトル……いや何でも無い。そんで、何でりっちゃん?」
「利子の『り』を取ってりっちゃんだそうです。私、利子と書いてとしこなんですよ。野尻課長、名前までチェックしてるのコワイヨー」
キエーと小さく奇声をあげながら彼女が小さなバッグを取り出すのを見て、さり気無く杉山は席を離れた。
東京本社の殆どは、徒歩十五分ほどの高層ビルの中にある。今の社長が就任した時に鼻息荒く借りたはいいものの、一フロアしか借りられなかった上に思った以上に面積が少なく、それで杉山たちは東京支社の上に勤めることを余儀なくされている。
ハイテク機器溢るるこの世の中、幾ら通信網が発達したといえど物質のやり取りまで二進法に任せて送ることは出来ない。それじゃ本社に行って来きますね、とサンプル品を携えて根本は会社を出た。
ここのところ空はずっと低く灰色で、外に居るとすぐに耳が冷たくなる。ぐるぐると首に巻き付けたマフラーの存在が暖かく嬉しい。
歩き始めたものの、隣に誰かが歩き始める気配を感じてすぐに足が止まった。
「あれ、杉山君も本社?」
「そんなとこです」
「何か持ってくの? よかったら一緒に持って行きますけど」
「いえ、大丈夫です」
「寒いから、遠慮しなくていいよ?」
「寒いのは根本さんもでしょ」
「でも私、寒いの大好きだから」
「おれも」
「そっかー、寒いのっていいよねー」
何とはなしに取り付く島の無い杉山の雰囲気を感じ、その後何も言葉が出ない。でも気のせいかもしれない。
それとも私、また何かやっちゃったかな。
考えてみるものの、杉山との仕事の接点があまり無いことをすぐに思い出して打ち消す。今朝は普通に挨拶をした。
昨日は……、朝にやっぱり挨拶したな。一昨日も。今週は月曜から屋上行ってないから分かんないわ。先週、何かやっちゃった?
幾ら考えても分からないし、思い当たる節が無い。その上杉山はだんまりと来た。
「寒いと温かいものが余計おいしく感じるよね!」
昼の沈黙とは明らかに異なる雰囲気に、胃の腑が縮こまりそうな思いだった。けれど杉山と共通の話題なんて、会社と食べ物のことしか無い。これで駄目なら、もう黙って歩こうと覚悟を決めて発した無駄に明るい声に、少しハスキーな低めの声がソウデスネとうわの空で答えた。ほっとする。
「鍋とか楽だし温かいしいいですよね。一人暮らしだと、白菜かキャベツが一玉あるだけで食費助かるし」
「……まさかとは思いますけど、一度に全部食べたりしてないですよね」
「キャベツならいけるけど、白菜一玉は無理!」
「食い過ぎでしょ」
少しずつ会話が転がり始めたかと思うと、そうやってぶっつりと繋がりを断たれる。二人の間に、今の空と同じように灰色で冷たい空気がしんと積もる。何か言おうと思ってもう何も言葉が出ない。
「あのさ、」
本社が見えてきたところで、ふいに杉山が話しかけてきた。棘の無い声に、何の心構えも無く見上げてしまう。
「根本さん、ちゃんと仕事しなよ」
「え」
「いっつも手一杯で、自分のことろくに出来てないでしょ」
「……部内サポートが仕事なんですけど?」
ちゃんと、仕事を。
瞬間、言われた意味が分からなくて根本はぽかんとした。ついで、怒りがすぐにこみ上げて来る。
淡々と話す杉山の口調から悪意は感じられない。それでも言い返さずにはいられなかった。かなりきつい口調で返したのに、杉山は全く意に介さない。
「助けを借りなよ。黙って全部やってりゃ、仕事した内に入ると思ってんでしょ」
あとさあ。
「前から思ってたんですけど、毛玉ぐらい取った方がいいですよ。カーディガン。そんなので出歩いてないでさ」
*
延長してもらっちゃったけど、何とかして辞めたい。
あの後、じゃあおれ、システムなんでと杉山は先にビルの中へ入ってしまった。
そんな状態で放り出されたまま昼食をともに取るなんてことは出来なかったしもう無理だ。元々、最近距離を置くようにしていたし別に約束している訳でも無い。
あのさ、なんて話し掛けられてほっとしてしまった。
「あんな風に言わなくったっていいじゃん! 何考えてんのあの男!」
腹立ち紛れに、渾身の力を込めて小麦粉のかたまりをまな板の上で捏ねつける。嫌い、大っ嫌い。馬鹿みたい。私、馬鹿みたい。
「馬鹿みたいじゃなくて、馬鹿なんだよね……」
きっと何かやっちゃったんだ。だから。
毛玉のことなんて、気にしたことも無かった。
「もう会社行きたくないよおおおおお母さーん……。やだよー、もうやだよー。恥ずかしいよー」
情けない声をあげながら、刻んだ長葱と作り置きの肉そぼろをうすく延ばした生地に散らし、胡麻油を振りかける。生地をくるくると巻き取る。それを渦巻き状にまとめて上からぎゅうぎゅうと押し潰し、油をよく馴染ませ熱した鉄のフライパンで焼く。
こんな時にもお腹が空くし、それを我慢出来ないし、怒りを転換して小麦粉練ってる自分の頑丈さが恨めしい。あーおいしい。どんな時も食べ物がおいしいよお母さん。
かりかりに焼けた焼餅に酢と豆板醤を混ぜたものを付けながら食べている間、バッグの底でスマートフォンが震え続けていたのに彼女はまだ気付いていない。