酒気帯びパラダイムシフト
子供の頃、おれは干し椎茸が大嫌いだった。
あのぶにゃぶにゃした感触、噛み締めると口の中にじゅわっと広がるプリン体が多い食品特有の、口の中が生温かくなるようなあの味がどうしても嫌だった。好き嫌いを口に出したくなかったので黙って食べながら、何の拷問かと子供心に苦行だと感じたものだ。
だのに今では、扁炉を作る時には絶対に欠かせない食材になっている。無いと確実に物足りない。家に帰って、ボウルの中でぷりぷりに戻った椎茸の姿を見るのも面白い。
大人になり、子供時代に比べ味蕾が退化してきたことで食べられるものが増えた。秋刀魚のワタやレバーペーストなんて(こいつらもプリン体高い食べ物だなそういえば)、子供の頃は悪夢以外の何物でも無かった。それだけでも、年を経る甲斐があるというものだ。
そういやシラスの目玉が取れて飯粒の上に付いているのを見ただけで食べられなくなったりしたな。何だったんだ、あの無駄な繊細さ。
そんなことをつらつら思い出しながらも手は動く。
白菜をざくざく刻み、鶏もも肉・豚バラスライスと一緒に煮立った干し椎茸の汁へ投下。どうせ火を通すのだからと、緑豆春雨も戻さず適当に押し込んで蓋をする。火が通ったところで胡麻油を回しかけ、奮発したいい藻塩を付けながら食べる。柚子胡椒もいいんだが、生憎暫く切らせているのを少し残念に思う。また買って来よう。
油でコーティングされた為、なかなか冷めない肉や白菜を少しずつ口に押し込みながら紫芋の焼酎をロックでちびちびやっていると、日本に生まれてよかったとしみじみ思う。あー、うまい。イノシン酸万歳、グルタミン酸万歳。
典型的な寂しい独身男の食事風景であるのだろうが、会社の外でまで顔を合わせたくない面子と飲む酒ほど嫌なものは無い。
大体あいつら、安さ重視で冷食まみれの安居酒屋ばかり行くから堪らない。それなら、好きな酒と好きな食い物を、好きなペースで飲んで食べる方がいい。そういうのはたまにでいい。
気立てが良く働き者だからといって、仕事がとても出来るという訳じゃない。意外なことに。
気難しく、言葉の少ない亀山次長と働くのは少し気が重い。偶に接点があるが、あの人本当に言葉が足りない。最低限の指示しか無いくせ、聞き返すと「何で分からないんだ」って顔隠さないし。下調べや経験が少ないことを咎めたいんだろうが、お前もちっとは言葉尽くせよと思う。別チームでよかった。
けれど根本さんは亀山次長と同じチームだ。社員で数年来やり取りをしている人たちでも訳分からんことが、数か月しかいない彼女にすぐに理解出来たらそれはそれで怖い。
しかしそれにしても要領はあまり良くない。
部内の雑用(備品の補充や会議の資料作成や来客応対、電話取りなんかな)は、あっと言う間にやってのけるし段取りもいい。言わなくても細かいところまで気付いてあれこれ工夫してくれる。
なのに、普通の書類仕事にケアレスミスが多い。らしい。それから、昼休みはあれだけ早く外へ飛び出すくせに、それ以外では何人かに仕事を頼まれると全てに否と断れない。らしい。
らしいというのは、亀山次長が根本さんを呼びつけている声が聞こえてくるのを時たま耳が拾うからだ。君はうちのチームなんだから、そんなに引き受けても仕方無いだろう。
おれの席は亀山チームから結構離れているというのに、亀山次長の声はよく聞こえてくる。根本さんが半ば自業自得、半ば亀山次長の言葉足りなさの被害を被りながら延々怒られているのを聞くのは少し忍びない。
「根本さん今日も怒られて……可哀想」
部内唯一の女性社員であるところの牧田さんが、まったく他人事の体で哀れんでいる。
お前も原因の一つだ馬鹿、役立たずのくせに根本さんを哀れんでいる場合か。とは面と向かって言えない。あと数年で三十年物になるお局の割に暢気で頭が足りない牧田さんだが、不思議なことに、特定の年配男性社員に非常にもてるのだ。事務と、壊滅的に気遣いという物が出来ない牧田さんの補助にと入った筈の根本さんが、牧田さんを差し置いてあれこれやっていると勘違いしているおっさんも居る。その代表が、おれの隣で嬉しそうにしている上司でな。
結局、今日も根本さんは残業をしている筈だ。あらゆることを押し付けられたまま。
『働くのは好きだし、ミスは自分のせいだし、残業代出てもいいから仕事しろって言われるのはありがたいですよ。いつも残業ばかりなんて、すごく恥ずかしいんですけどね』
あと、めっちゃ腹が減るのでおやつ食べちゃいますよねー。やばいですよー。
これあげるからいい子に気を付けて帰るんですよとくれたチョコレート菓子は、いつか見た、甘いものだらけのコンビニの袋の中身だったのかもしれないと気付いた時には既に電車の中だった。そういえば近くに住んでいるんだっけなとか。今ごろ、彼女はこれを齧っているのか。何で社員より働いているんだよ。
満腹で少し酔っぱらった状態だと、何を考えてもすぐにアルコール臭い息とともに消えていく。
ただ、もう少し誰かが優しくしてやってもいいんじゃないかと、それだけは妙に強く思っていた。それから、焼酎とチョコレートウエハースが意外に合うので今度自分も買い置きしようと決めたとか。
細かい毛玉がカーディガンにいっぱい付いてるの、たまには取った方がいいですよと次こそ言おうとか。