遠くじゃなくても思うもの
東京の悪口を聞く度、どこか別の国の話を聞いている様な気持ちになる。水が悪いだの人が多いだの冷たいだの物価が高すぎるだの。
おっさんども、自分が住んでいるところじゃなきゃ何を言ってもいいと思ってるだろ。おれは生まれも育ちも東京なんだがな、と思っても顔には出さない。大人だからな。
関西本社から出向いている爺どもが大声で東京の悪口を言い立て、そうだろう杉山君と問うてくるのを笑って流しながら頭では別のことを考えている。今日はおっさんどもが飲みに流れるから、早くずらかろうかなとか冷蔵庫にあと何が入っていたかとか。慣れているしな。あー胸くそわりい。
東京じゃないところから住み付いたやつらからしてみたらアウェイだろうが、おれらにはホームなんだよおっさん。
そもそも東京なんて余所者ばかり、江戸の昔から外から来たやつらばかりなんだよ。そいつらが江戸、そして東京を大きくしてきたんだし、だからたかが三代続いただけで江戸っ子って言われんだよ。お前らが馬鹿にしている東京は、今だって東京を故郷としない誰かの集まりで作られているし、お前らだってその歯車のひとつなんだって分からねーかなー。
故郷じゃなきゃ、水も空気も人も違うのだって当たり前なんだよ。そんなのは世界中どこいったって同じだわ。そんで、慣れてたって故郷を悪く言われたらムッとするのは東京もんだって同じなんだよバーカ。大体一括りに東京もんと言ったってな、本当に東京出身かなんて分からないだろ。お前らが東京もんと思うやつに出身地聞いてみろ、地方出身者の可能性高いわ。東京の人口集中率舐めんなよと。
「昨日、昼に蕎麦屋行ったらやっぱり汁が黒くてなー。分かってても嫌やな。蕎麦はうまくても汁がなー」
「うまい言うたって、あんなの人間の飲むもんちゃうわ」
「醤油辛いの、かなわんわ」
バ―――――――カ。
*
根本さんが屋上にあまり来なくなって暫くになる。
避けられているのかもしれないが、毎日じゃないから気のせいかもしれない。理由も明白だ。あれほど断っていた昼休みにかかる仕事を断り切れなくなっていたり、下の階の支社の女性陣と共に弁当を共にすることが増えてきたせいだ。大体、避けられる理由が無い。
「梅とごぼうっておいしいねー!」
「固いのもいいけど、柔らかく煮えたごぼうっていうのもうまいですよね。これは、おれが作ったんじゃないんですけど」
根本さんのもそうですけど、人に作ってもらったおかずっていいですよね。
言いながら、もらった蓮根入りつくねの中身を探りながら返事が無いのに気付いて横を見ると、ついさっきまで実にうまそうに咀嚼していた筈の根本さんの表情が凍りついて固まっていた。
「杉山君」
軋んだ音が聞えそうなくらいぎこちなく強張った顔が、ゆっくりとおれに向く。こえーよ根本さん。むちむちした二の腕が、ださい制服(このご時世にも拘らず!)のシャツ越しでもよく分かりますよ。ちょっとパツパツしていてね。いやあ、今日も健康そうですね。
「彼女が作ってくれたものを、他の女にあげたら駄目ですよ! マナー違反じゃないっすか! 何考えてんの!?」
ギャー食べちゃった! おいしく食べちゃったよごめんなさいいいいいい!
ごぼうの梅煮に向かって手を合わせ始めた根本さんが鬱陶しくも面白いのでこのまま観察していようかと思ったが、鬱陶しい方が勝ちそうだったのですぐに遮ることにした。何だその短絡思考。
「おれの好物だと勘違いしたままの母親が、大量に置いてっただけなんで。あとリアクションでか過ぎると引きます落ち着いて」
「おう、失礼いたしました……ビッグミステイクしたかと思って魂消えました」
「つまり魂消たと」
「そりゃたまげるでしょ。若い一人暮らしの独身男性が、どう考えても手作りのおかずを『自分が作ったんじゃないですけど』って差し出したら彼女が作ったと思うでしょ。そんなものをほいほい他人にあげる人がいると思わないじゃないですか」
早とちりもいいとこだった訳ですけどもね。取り乱して大変失礼いたしました。頭はたくとこでしたよ危ねー。
「早とちりされた挙句、暴力振るわれるところだったと! 根本さんの腕力で!」
「そう、この剛腕で!」
笑いながらグルグルと回される腕(パツパツ気味)は、そんなに力強くは見えない。が。
A4のコピー用紙が詰まった段ボールを片手で持ち歩く根本さんに叩かれたらたまったもんじゃない。野郎に殴られるより大したことは無いだろうが、握力四十二と豪語するその腕を文字通り振るわれるのは勘弁願いたい。
自分が女の人にこういうことを言うなんて、最初はかなり驚いた。そういうのは好きじゃない。社のおっさんどもは面白いらしいが、見ていて愉快なもんじゃない。祖母・母・姉にもみくちゃにされて育てられたせいもあるんだろうが。なのに。どうも彼女は、おれの中のSっ気を引き出すらしい。
内心これはよくないなと詫びを口にしようとした途端、じゃあ、これは杉山君は作らないんですか? と、気にした風も無い根本さんがけろっと尋ねてきたのにタイミングを削がれる。
何故だかそれに若干の苛つきを覚えながら、おれも作りますよと答えた。梅干しを種と実に分け、ごぼうと梅の実だけで気が済む固さまで煮てりゃいいです。柔らかくするなら、圧力鍋使った方が早いですよ。水と少しの酒を忘れずに。酒はまあ、あっても無くても。
ついでに、さっきのこと怒ったっていいですと言いかけて止めた。そしていつも通り、ただ黙って弁当を食べた。
「根本さんは東京の蕎麦好きですか?」
「大好き大好き! おいしいものなら皆好きですよ」
そう言うと思った。
「汁、真っ黒ですけど」
「関東は関西より硬水なんですってよ、だから醤油が合うんだそうです。関西のかつお出汁たっぷりのも大好きですけど、それなら蕎麦よりうどんの方がおいしいですよやっぱり。関東で蕎麦食べるならあのお汁がいいと思いますよ。それに醤油の産地が近くて、おいしくて新しい醤油がすぐに手に入るんだから味わったらいいんですよ。適材適所って言うじゃないですか」
「東京の蕎麦が好きか聞いただけなのに、真面目に解説してくれてありがとう」
「うわー、やな返し方ー! 何そのニヤニヤ笑顔ー!」
「いや、根本さんは本当に食べることが好きなんだなと思って」
「おいしかったら何でもいいんですよ! 細かいこと気にすると禿げるよ!」
「さっき細かく説明してくれたの根本さんですけどね」
「親切にし過ぎて後悔するわ」
「じゃ、そろそろ戻らないと」
「無視された…! ごちそうさまでした」
「おれこそ、ごちそうさまでした」
ふと気になって尋ねてみたら根本さんらしい答えが返ってきて、それに納得したらおっさんどもへの苛々が少し消えたような気がした。疲れてんのかな、おれ。
礼を言うのもおかしいし、けれど何か言いたくて振り返ったら、じゃあねとひらひら振る根本さんの手が日に当たって白く光っていた。それが眩しくて、彼女の顔はよく見えなかった。