茜色と埃
期待してた。
根本が屋上で弁当を食べるようになったのは、昼休みまで仕事をしない為だった。
勿論ただ働きはしない。昼休みに仕事をしてしまった場合は、きちんとタイムシートにその時間分記入する。しかしどうしようも無い時でなければ昼のチャイムとほぼ同時に、彼女は小走りに出て行く。
「腹が減るのは我慢が出来ません! 昼ごはんは私の心のオアシスでございます!」
便利屋の如く様々な仕事にちょろちょろと駆り出されているものの、全てにイエスと言ってはいられない。でないといつか他の派遣が来た時に、その人が休み時間も働かなくてはならないかもしれない。ただ働きをさせられるかもしれない。「根本さんはやってくれたよ」と言われながら。そんなのは御免なのである。
こんな時、食いしん坊キャラはとても便利だ。誰も傷付けず不快にさせず仕事を断るのはなかなか難しい。無駄なプライドはどうでもいい、自分と誰かの為に、そして誰にも気を遣わずゆっくりとおいしく弁当をいただく為に。それだけでは無いのだけれど、まあ、そんなところだ概ね。
*
屋上が開いているのに誰も来なくて、しかも割と好みの顔の男性と毎日二人きりで弁当のおかずを交換している。
この字面。このシチュエーション。漫画か小説じゃなかろうか。屋上! 男前!(自分比)おかず交換!
一生分まとめて幸運期が来てるとしか思えんな……。
隣で呑気におかずを頬張る男をつくづくと眺めやり、これやっぱり夢じゃね? と現実感を持つことを根本は半ば諦めていた。
杉山が毎日来るようになった来た時は、とても驚いた。
今時の男性は自分で弁当を作って持って来ることに恥ずかしさを覚えないのは知っていたし、冷凍食品が一切入っていないのに数種類のおかずが彩りよく詰められているのを見ても、世の料理人は男性が大半であることを思えば不思議でも何でも無い。
けど、自分の隣で男が寛いで笑ったり親切にしてくるこの状況は今まで経験したことが無いんですうううううううう!
きっかけなんて無いも同然だ。杉山は、夏以外は毎日屋上で弁当を食べていただけだ。根本がこの会社へ派遣されたのが今年の夏だったから、暫くの間誰も来ない屋上と勝手に思い込んでいただけだ。だからそもそもは根本が彼のテリトリーに邪魔をしているといってもいいだろう。理由が分かれば大したことじゃない。
「うわ、この海苔巻の具、何ですか? 食べたことが無いな。見当付かない……胡麻? か、ピーナッツ?」
「沢庵にチャンクタイプのピーナッツバター和えたやつ。あとこっちは水菜を花椒の粉で炒めた箸休め」
「ピーナッツバター! やっぱり根本さんの発想は面白いな、おれにはちょっと思い付けないですよ」
うまいけど、とフォローを入れながら頬張る姿に胸を高鳴らせているなんて、だから絶対に知られてはならない。これは夢と同じようなもので、現実じゃない。
おかずを毎日交換していたって、プライベートな話をすることは殆ど無い。どうして毎日屋上にいるのかとか、誰かと食べたりしないのかとか、普段は何をしているのかとか。
そういうことを聞かれないのは楽だった。仕事ではしゃっきりしている風を装っているけれど、本当はだらしがなく、人として極めて最低限の状態で生きているのに、それを取り繕って嘘を言わないでいるのがとてもうれしかった。仕事ならいざ知らず、プライベートまできちんとした人を装うのは疲れる。
大抵はお互いのおかずをつまみ、レシピを教え合ったり感想を言い合ったり。食べ終わったら無駄話も殆どせずに杉山はさっさと洗い物をしに下へ消えるし、洗い物が面倒な根本は居残って昼寝をする。
自分に無いレシピや彩り豊かな杉山のおかずの配置方法は参考になったし、何より、仕事以外で男性と何かを共有することなど全くなかった根本にとって杉山は正にいい夢であった。
仕事中やその合間の無駄話で知れる彼の几帳面さだとか、その割に誰に対しても無駄に期待を持たないところだとか。
根本がふと漏らしてしまった、私は女だけどあんまり女じゃないんですよという言葉をいじるでもなく、ただ笑って受け流してくれたこと。
そんな日々が続けば、夢だ現実じゃないと思っていたって好意を持ってしまうのは仕方の無いことだろう。末席を汚す程度とはいえ、彼女だって女だ。
だから色々捨ててますよねと初めて口に出されたことにショックを受けて、それで自分が彼へ勝手な期待を寄せていたことに気付いた時、根本は消えたくてたまらなくなった。
期待って、あれですよ。ちょっとは私のこといいななんて思ってないかなとか。
「希望持ってた、なんてもんじゃないじゃん……」
ギャーと内心叫びながら勢いよく米を研いでいたら三日ぶりに底が見えた流しに米粒が飛び散って、それにまた内心雄叫びを上げた。
「うう、みっともない……米が勿体無い……」
土鍋に米と水を入れ、醤油と酒も足す。焼いた秋刀魚とごぼう、叩いて潰した生姜のかけらを幾つか乗せて蓋をする。火をかけたところで力尽きてしまい、彼女はへたりこんだ。
土曜日の午後、洗濯物が室内にかかったままの部屋。脱いだ服が溜まって出来た塚もそのままになって、そこに夕焼けの茜色が差し込んでいる。そんな場所で消えたいと思いながら、生きる為にごはんを作っている自分がつくづくおかしい。
三十路を過ぎて持った恋心を恥じるより、このものぐさこそを恥じろってのよね。色々捨ててますよねって言われてショックだった割に、ダメージ受けてる場所が違うじゃないね。大体、消えたいって。居なくなる為の労力さえ惜しんでる私にショック受けられても、杉山君も困っちゃうよね。
服塚に差し込む茜色に埃がキラキラ輝く。
早くご飯炊けないかな。
考えることさえも放棄して、根本は目を閉じた。部屋には米の炊ける、甘いにおいが漂っている。明日はどうやって過ごしたらいいんだろう。