後方に支う
笑って誤魔化したかったけれど、杉山君があんまり静かに尋ねて来るから。
でもだからって、実はねってすぐに言い出せるなら一人でこんなにこじれてなんかいない訳で。あれだけわんわん泣いたり、酷い状態の部屋を見られたり、毎日ごはん作ってもらってて言うのもおかしなことかもしれないけどさ。それにここ、電車の中だし。
「うん、色々あるんですよ」
だから、こんな風に答えるしか無い。
答えるまでの短い間にあれこれと思い出して涙ぐみそうになったけど、何とか堪えられた。泣いたって仕方が無い。
「色々ね」
「妙齢のご婦人ですからして」
それに杉山君がどんな気持ちなのかなんて、考えたって分かる訳が無いんだし。
相手の顔色を窺いながら、答える答えないを決めなくていいっていうのは杉山君を見て学んだことだ。空気を読むのと顔色を窺うのは別のことだなんて知らなかった。多分。
杉山君しかサンプルが無いから多分としか言えないんだけど、友人だった人や今まで少し関わって来た人たちのことを思い出すとそんな風に思うようになってきた。今まで断片的な、パズルみたいだったことがどんどん嵌まっていくみたいな感じ。アハ体験っていうの? そっかー! って。今更だけど。
幸いなことに、杉山君はそれ以上突っ込んでこなかった。
「じゃあ妙齢のご婦人、目の下の隈がすごいから少し目を瞑った方がいいですよ」
代わりにやっぱりちょっと笑って余計なことだけ言って(余計過ぎるわ)、杉山君はそのまま乗り換えの少し前まで黙って目を瞑っていたようだった。
だから私は起きていようと思っていたのにいつの間にか寝てしまっていて、小田原の手前で杉山君に起こされて、口の端からちょっと漏れていた涎を指摘されて死にたくなったりした。いびきかいてなかっただろうな……。
*
箱根湯本駅からバスに乗り、合宿の会場である宿に二人が着いたのは昼少し前のことだった。十一月の連休が終わり、十二月の連休まで暫くあるというのに駅もバスもそれなりに人がいて、箱根全体がそこそこの賑わいを見せていた。金曜日ということもあるのだろう、社会人らしきカップルの姿もちらほら見える。カジュアルな服装の根本はともかくとして、如何にも会社員といったスーツ姿の杉山の姿はバスの中で浮いていた。
旅館のロビーでは待ちかねた様子の手塚がそわそわと落ち着かない風情で佇んでおり、伏し拝むように根本からCDを受け取ると、時間が惜しいのか「助かったよありがとうこれ昼飯代二人でデートでもしてって! じゃあ!」と一息で語り、樋口一葉の肖像が描かれた札を渡して奥へと消えて行った。これから着替えてリハーサルをするという。
その間に手塚の近くでソファに座っていた和田が何かを杉山に耳打ちしていたが、
「根本さん、遠くまでごめんね。本当に助かったよー、ありがとう。おれからはデザート代ね。あと交通費」
と手塚が差し出したのと同じ札を渡してきた。
「いや、私はCDしか持って来てないんで」
「杉山のお守りしながら来てくれたんでしょ? いいんじゃない」
「んばぶー」
「って杉山も言ってるし」
「えええええ」
「おれには何もねえのかよ和田さん」
「んばぶー」
「んばぶー、じゃねえよ」
「えええええ」
「んじゃねー」
含み笑いをしながらパネルとボストンバッグを抱え、手塚が消えて行った奥へ和田も消えて行った。昼食時の為か人影もまばらなロビーに、ぽつんと残される。
「亀山次長が、定時上がりでタイムシート書いていいから今日はもう帰ってもいいってさ」
「え」
「和田さんが伝言もらったって」
「でも私、今日やりたいことたんまりあるんすけど」
「そんな溜まってんの?」
「今日どころか、三日ぐらい電話も取らず雑用も頼まれない環境でやりたいことありますよと。定時上がり扱いでもいいから、帰りたいんすけど」
「何でそんなに溜まる……」
「そんなの私が聞きたいわ。何でこんな考え無しにぽんぽん仕事ほん投げて来んのよ、皆。私の時給、時間外になると一・五倍なのに」
「根本的に間違ってるよな、うちの派遣の使い方」
「まあねー、派遣なのにこんな忙しい会社さんは初めてですわねー」
しかも、まさかCD一枚届ける為に箱根まで行くなんて思わなかったですよ。
電車内での転寝のせいか、凝りが酷くなった肩をぐるぐると回すと外に出る。冷たい風がひゅっと音を立てて吹き付けて来て、緩んでいたマフラーの隙間へと入り込んできた。慌てて巻き直す。
「でもほら、帰ったらごはん用意してくれる人がいてくれて随分楽でしたよ。今までありがとうございました」
深々と一礼する。
「でももう、甘えるのもそろそろ限界かな」
ずっと言おうと思っていた。
「杉山君も忙しかったのに、本当にありがとう。とっても嬉しかったし、楽しかった」
好きな人に素直に甘えよう。
そう決めたものの、甘えきることが出来ない自分を思い知った日々だった。何も返すものの無い自分が嫌になってしまう日々だった。だって、好きだから。
にっこり笑って見上げると、見慣れてきた眉間の皺が目に入った。
「んじゃ、ちょっと一緒に寄って欲しいとこがあるんだけど」
眉間に皺が入ったまま、にやっと笑われると怖い。
彼女は初めて知った。
*
うまい飯と風呂が好きだ。
うまいしバランスが取れた食事を摂ると健康にもいい。
風呂は血流を良くして凝りをほぐしてくれるし、タイミングさえ間違えなければ副交感神経が作用してきちんと体を休ませて眠ることが出来る。そんなに金がかからないのに、いいことばかりだ。素晴らしい。
「仕事……」
ここまで来ておきながら、根本さんが呆然と呟いている。往生際悪い女だな。
「帰っていいって言われたんだから、素直に休みゃいいんだよ」
多分、根本さんの仕事が山積みなのは亀山次長もよく分かっていると思う。派遣に何日も始発終電の生活をさせているんだし。
その上で帰っていいって言付けているんだから素直に喜べっつうの。
素直な女だったら根本さんじゃなくなる気がするけどな。
旅館の一室、目の前に広げられた膳は実に旅館らしいものだった。刺身に天麩羅、固形燃料で温める紙鍋。ありきたりな内容だが、最近の宿の食事はどこもうまい。まず水がうまいから、炊かれているぴかぴかの米からしてうまい。
最近の温泉郷というのは、どこも客寄せの為に日帰りプランを実施している旅館が多くて実にいい。しかも昼飯付きプランでアメニティ一式、丹前と浴衣まで貸し出してくれると充実の内容だ。
合宿が終わってひと段落するとはいえ、クソ忙しかった皺寄せが(根本さんほどじゃないが)溜まっているというのにわざわざ箱根くんだりまで来たんだ、入らずして何とする。
和田さんも余計なこと言ってくれたしな。
『根本さんと温泉入って帰れば?』
言われなくても考えてたわ、おっさん。根本さんが寝ている間に予約したわ。
おれが何を考えているのかも知らず、食事を始めた根本さんは舌に合ったらしくにこにこと米を頬張っている。さっきまで呆けていたくせに、現金にも「おいしいねえー!」と喜んでいる。暢気な女だなおい。
いつも笑っている印象の根本さんだけど、飯食ってる時しか素直に笑っているのを見たことが無い気がする。いつもは阿るか誤魔化すか、場を繋ぐ為だけに笑っているからか。分かりやすいんだよ、あんた。
あの日。
初めて根本さんを屋上で見た日は素直に、機嫌良さそうに笑っていた。