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エウーレカ

 そもそも契約延長の確認が異常に早かったのである。


 通常は月末より少し前に派遣元から契約延長の意思を確認され、それを派遣先企業へ通達、派遣先企業側の契約延長の有無の返答を聞くというのが一般的な契約延長が決定するまでの流れだ。それを更新と呼んでいる。

 根本が既に次も契約延長したいと派遣元の営業に漏らしていた上、派遣先の企業側も繁忙期に突入するからという事情もあってか、十一月初旬には派遣元の営業へ契約延長の旨を打診してきたという一見喜ばしいマッチングにより、十二月を目の前にするより早く根本の契約延長は決まった。

 その期間、三ヶ月。派遣社員の契約更新としてはごく一般的な期間である。

 次の契約は延長しないという意思を派遣元に伝えた根本であったが、来年の二月までは今の会社に勤めるということでもある。


『少しだけ? おいおいおーい、三ヶ月っていう期間は日本人にとって少しなのかい?』

『ビル! んもう、嫌な人ねえ! 恋する女にとって去り行く為の三ヶ月なんて、あっという間に決まってるじゃない』

『おおっと、お邪魔虫はここで失礼するぜお二人さん!』

『ハハッ、スティーブ! 何も遠慮をするこたないぜ? 戻って来いよ』

『ヘヘッ、こんちこれまたご機嫌よろしゅう!』


 黙れアメリカ人!(偏見)


 暴走する心の中のアメリカ人たち(偏見)に閉口しながら、ずいぶん厚かましい願いを抱いたものだと根本は内心頭を抱えていた。

 大体、心の中のアメリカ人(偏見)とて根本が作り出している分身なのである。そもそもそんなものを擬態として利用することがおかしいのであるからして、会話が吹き替え版あることなぞこの際些末なことなのである。

 そりゃーさー、多分長いだろう人生の中で三ヶ月なんてあっという間だけどさー。

 無駄にバチバチと音を立てながらテンキーを操る指を唸らせていても、ここ数日のことが思い出されてならない。

 あれからというもの昼は杉山謹製の弁当、そして夜は杉山謹製の夕食が待っているのだ。ほぼ毎日。何だそりゃ。


 *


「始発出勤終電帰宅の病み上がりと、少し早い出社終電前には帰宅の健康体」


 そんなに気を遣ってくれなくても大丈夫だとやんわり断りの文句を述べている最中、杉山が「お前は馬鹿か」と顔にでかでかと書きながら遮った。

 月曜日の屋上でのことだ。

 あの後、既に夕食の準備は出来ているから夜にそっちへ行くと当然のように杉山に言われて、根本は杉山の頭がおかしいんじゃないかと思った。そこまでしなくていい。

 好意は嬉しい。そしてそれに甘えたい・甘えようと心に決めた根本ではあったが、そこですぐにうんと首肯出来るほど厚かましい女にはなれなかった。それは杉山の彼女とは別に、異次元の生き物である。


「しかも女と男」


 ふん。当たり前のことを偉そうに言われても、根本も困る。それと、好きな男だろうが腹が立つものは腹が立つ。

 こいつ、鼻で笑いよった……! 女と男だ? そうね女と男、男と女。先刻承知だわ、この唐変木! ……朴念仁?


 腹を立てるポイントもかなり曲がりくねった先にあるようだが気にするまい。そして根本の頭の中では異国の男女が気怠げにシャバダバ歌い始める。


「どっちが体力あるかは自明の理だと思うんですよね、おれ」

「体力有る無しの問題じゃなくて」

「あーあ、戻されてぷりぷりになりつつある干し椎茸はどうなっちゃうんだろうなあー」

「また遮った!」

「張り切っていつもの倍戻されて、土鍋いっぱいに戻された干し椎茸の出汁を一人で食べろって言うんだなー根本さんは」

「いやそれ保存でき」

「白菜もう切っちゃってるし、鍋って一人で食べるのつまんねーよなー」

「また遮っ」

「くったくたに煮た白菜、扁炉じゃなくてもうまいんだけどなー」

「そりゃ」

「根本さんが食ってくれたらいいんだけどなー」


 *


 それでそのまま、杉山の母性あふるるとしか言いようのない好意を受け取り続けている。どこで何をどう刷り込まれたのか、彼は根本を子供のように扱っているとしか思えない。

 ……玄関先で馬鹿みたいに泣いちゃったからかな。

 怖くてパニックを起こしていたとか、好きな男から年齢まで持ち出されて嫌味言われて悲しかったからとかきちんと理由があるが、それでも考えなしに手放しで泣いてしまったことを今更ながらに後悔する。

 友達がいないとか家族もいないとか、ぶっちゃけなくてもいいこと思いっきり話しちゃったしな……。

 あの無茶苦茶な(干し椎茸が大量にぷりぷりとか)理由付けも、強烈に口説かれているような錯覚も覚えそうになったくらいだ。

 あの時はひたすら彼女彼女彼女彼女と、念仏のように唱えて耐えた。酉の市の時の、恋じゃないですかねという根本の寝言を彼が鼻で笑ったことをリフレインで絶叫させた。

 けれど好きな男が生活するスペースに毎日いて、自分の世話をするという現象はあまりにも辛い。幸せと辛いの文字を読み違えそうになる。

 ズラタタタタタタ!

 スピードだけはやたら早い根本の指の下で、テンキーがますます音を立てる。

 女でよかった私! 男だったら襲ってるよねきっと! そうかホモか! でもこんな状態、いつまで続くのお母さん! まさか三ヶ月もこの状態なのお母さん!

 好意を受け取る為の器が既にあふれ、その上何度も間欠泉を起こしている状態である。このまま三ヶ月も過ごしたら。自分がどんな精神状態でいるのか、考えるだけで恐ろしい。

 得意の筈の現実逃避も上手くいかず、さりとて現実に戻りきることも出来ず。ただひたすら数字を打ち込む根本の手元の資料と画面の行は、誰に止められることも無くどんどんとずれていった。


 *


 思考と距離は比例する。

 同じように、風呂もまた思考と比例する。


 ユニットバスでも湯に浸かっていると、体がほぐれて気持ちがいい。一日の疲れが溶けていくのが分かる。風呂が狭いから、足が伸ばせないのが難点だ。でかい風呂に入りに行きたいが、まだ少し我慢だな。いっそ合宿が終わったら、おっさんどもが去ってすがすがしくなった箱根でも行くか。

 湯に浸かりながらネットやテレビを見るのは好きじゃないから、自然とぼんやりすることになる。電車に乗っている時と同じだな。仕事のことはあんまり考えたことが無い。大抵はただぼんやりしているだけだが、偶に普段は考えもしないようなことをいつの間にかつらつらと考えていたりして面白い。

 純金で作られた王冠と、金に銀を混ぜて作られた王冠の違いを目で見て分かる為にはどうしたらいいかという問いに対する答えを、アルキメデスは風呂の中で思い付いたという。断片化されている思考を組み立てるには、机に向かうだけが有効手段では無いという一例だと思う。あー、デフラグだな。多分。

 だから突然降って湧いたように思えて驚いたとしても、それはおれの中にあるものなのだ。と、驚きはしつつも消えずにいる冷静な自分がそんなことを考えている。考えたくない。


 エウーレカ。

 我、発見せり。

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