血と似たような
「ご、めん」
絞り出すように小さく呟いて、声を出さずに根本さんは泣いていた。さっきみたいな、子供みたいに泣きじゃくるんじゃなくて。静かに。
おれはただ、根本さんを見ていた。
慰めようとか、宥めようとかいう気持ちは少しも湧かなかった。よく泣く女だな、と呆れる気持ちの方が強かった。静かに泣いてるが、驚くほど涙出てるしそのせいで鼻水すげえ。
「ごめん、ちょっと、疲れてて」
「風邪も引いたし、気が弱くなってたみたい」
「親切にしてくれて、泣かれても困るよねー!」
偶に泣き止もうとしてか深呼吸をして、そんな風に言い訳らしきことを何度か口にする。そして少し笑って、壊れた蛇口みたいに大量の涙を流して俯く。その合間に咳をする。オカマ声、変化無し。
風邪、なかなか治らねえな。
「誰かが作ってくれたごはん、ひ、さしぶりで」
あ、ごはん。冷めちゃう。
泣きながら、でもおれに遠慮すること無く(しろよ)洟をかみながらそんな心配するところが、根本さんも女なんだなと思った。
女って、感情に流されている時でも現実的というか、妙に冷静なところがあると思う。
過去の彼女たちとの喧嘩をふと思い出して、女は器用だなと感心してしまった。如何にも感情に振り回されているようで、おれが何か不用意なことを言うとそれは聞き漏らさず瞬時に攻撃の手段に加えてくるところとかな。過去だから感心だけで済んでいるっていうのは分かっている。
「お腹空いてるよね、ごめん。食べよう?」
「うん」
頷いて食事を再開したところで、根本さんがまた泣き出した。治部煮の鶏肉を口に銜えたまま。
食え。もしくは皿に置け。
昼飯の時、ものを食いながらしゃべるなとあれほど言ったろうが。と思ったところで根本さんが何か小さく呟いた。聞き取ろうとしたら、鶏肉を食べながらもう一度。
「おかあさん」
*
涙は血から出来ているらしい。それでしょっぱいんだとか。
ということは、滝のように涙を流していた彼女は大量出血をしたみたいなもんか。半リットルくらいは涙(や、鼻水)を流していたことを考えると、怪我なら結構な重傷だな。
大量出血している割には食欲は旺盛らしく、泣きながらそれでも飯は食べ切るところが根本さんだと思った。いちいち洟をかんでいたのは多分、鼻が詰まると味が分からなくなるからだろう。
「はあ、久しぶりにこんなに泣いた」
おれが入れた食後のほうじ茶(勝手に探させてもらった)を啜りながら大きくため息を吐いた根本さんは、腫れぼったく不細工な顔をしつつも、すっきりとした表情を見せた。
「色々ありがとう、ごめんなさい」
そしておれに深々と頭を下げた。
「誰かが私の為に作ってくれたものを食べるの、すっごく久しぶ、り、で。嬉しかったの。それで母親が恋しくなっちゃって」
言いながら、また涙声。
「杉山君のお母さんが作ってくれたって聞いて、弱ってる時に杉山君に気にかけてもらって、そういうのとかうちのお母さんが死ぬ前のこととか思い出したらもう何か止まんなくて」
でも、今度は泣かなかった。笑った。
泣き腫らしてぶっさいくな顔で、仕方なさそうに。
「家族、もういないみたいなもんだから。恥ずかしいんだけど、友達もいないし。だから、こういう幸せみたいなのをまさか味わえると思ってなくて。ごめんね」
もう大丈夫と、また笑う。
「意味分からん」
「は?」
本音が、考えるより先に口から零れた。
「本人から聞いた訳でも無いのに電話番号や住所突き止められてて突然尋ねられて、勝手に色々押し付けられて。誰から何言われても本当には怒りもしないで、自分を笑いものにして誤魔化してうんうん頷きやがって。自分のこと馬鹿にして笑って、誰かの為にってそればっかりで。大体、おれの弁当は勘定に入ってないてなどういう訳だ。何が久しぶり、だ」
面倒臭え。
*
今になっても、こんなに詳しく怒られていても、杉山が本当は何に対して怒っているのかよく分からなかった。
分からなかったが、杉山が酷く怒っていることだけは根本にも分かった。
それから、酷く優しいようなことを言われていることも。
狂おしいほどの人恋しさ。
認めてしまうと寂しさに飲み込まれてしまうのが怖くて、考えないように過ごしてきた。時折、ふいに寂しさを思い出しても歯を食いしばってやり過ごしてきた。それを、仄かな恋心を抱いていた男が容赦なく目の前に晒す。
友人もいない。家族だって、いないも同然で。
誰にも寄り添われたりしない自分なら、せめて誰かを傷付けることだけはしたくなかった。
自分を大事に出来ない。思えない。思われない。
それなら、そんな自分を笑って、それで誰かが笑ってくれるなら、少しでも自分を認めてくれるのならそれでよかった。それがよかった。誰にも見られないでいるよりずっといい。一人だと、誰もいないのだと寂しさを手元で繰り返し確かめるよりずっといい。
それを見抜かれ誤魔化しと断じられながら食べるプリンは、冷たくて甘くておいしかった。
「根本さん……聞いてねえだろ」
「聞いてる! 聞いてます!」
スプーンを握り締めたまま慌てて姿勢を正す彼女を、杉山が疑わそうに睨め付ける。
「……自分で言うのもおかしいけど、こんだけ言われたら普通もっとへこむとか泣くとかするんじゃね?」
オレンジキュラソーを少しきかせたカラメル(わざわざ別に付けられていた)の苦みが、柔らかな甘さのプリンによく似合う。
驚いたり泣いたり、そもそも半日掃除に明け暮れて疲れた体に、優しい甘みがとても嬉しかった。
「うん」
眉間に縦じわがくっきりと刻まれている杉山の顔は、今までにも見たことがあった。
「すごく落ち込むよ。聞きたくないことばっかり言うし、開き直って来られてもう呆れるばっかりだし。普通あれだけ女怖がらせて、それで開き直るなんて信じらんない。ストーカーみたい」
「変態扱い止めれ」
ものすごく嫌そうに言うのがおかしくて、ちょっと笑ってしまう。
「でも誰かに心配されて怒られるの、本当に久しぶりで」
だから、ふいにそれに気付いた時、このまま死ねたらいいのにと思った。幸せで。
「うち、母が死んだの十年以上前でね。それから父が後妻さんを迎えて、元々私と父と折り合いが悪かったのに後妻さんとも折り合いが悪くって。よくある話なんだけど。それで家を出て、もうそのままずっと音沙汰無いんだわ。別にお互い、着信拒否とかしてる訳じゃなくてね」
「女の一生……」
「モーパッサン? 山本有三? 知識人だね杉山君。でもその前に私死んでないんだけど。そもそも結婚も出来てないし」
「それもそうか」
「あっさり認められると辛いなおい!」
「事実だから」
内容は辛辣だし相変わらず眉間に皺も寄っているが、穏やかな眼差しが自分に向けられている。
時を忘れたらしい烏が遠くで、夜の中をカアと鳴いた。