閑話休題
『じゃあ借りるから』って、その『じゃあ』はどこから来たのよ。私何も言ってないんですけど。そして何でそんな当たり前みたいに他人の部屋でくつろいでおられますか。
それに牧田さん。何が大丈夫よ! だ。質問して来ないくせに後から何でも引っ掻き回してめちゃくちゃにして、ごめんねえってそれだけ!
どうしても分からなかったらって渡した電話番号は公共物じゃねえよ。他の人には教えないでくださいねってあれだけ念を押したのに何机の上に張り付けてんの馬鹿じゃないのってそうか馬鹿だからこんなことに。
杉山が電話番号を知った経緯を聞いた根本は、呆れ返り心中で罵りながら、いささかの現実逃避を図ってもいた。
「根本さんのマンションは、こないだ」
「……こないだ?」
いつかの時みたいに、自分の声が遠くに聞こえる。
「おれが銭湯の帰りに。あの時、根本さんの後ろ歩いてたんだよね」
たまたまっていうか、根本さんとおれの歩幅違うから追い付いた。と胡坐をかきながら杉山が言うのに、根本はただもう「はあ」としか返せないでいた。
好きな人が夜(夜!)自分の部屋に訪ねて来て、なのにこんなに嬉しくないことってあるんだわね……予想外だったわ。流石現実。そう、現実。多分。
さんざん泣いたせいで鼻水が止まらなくなった彼女は、他にも何か話している杉山のことなどお構いなしに、足元に転がっているティッシュボックスを掴んだ。
無意識の内に何枚もティッシュを取り出し、無意識の内に、そして盛大に音を立てて洟をかむ。杉山が嫌そうな顔をしているが、もうまるで気にならない。
泣かせたのはお前だお前。
「泣いたら鼻水が出るのよ、普通」
「何も言ってないんだけど」
「嫌そうな顔してたじゃん」
不満そうな表情を取り繕うこともせず、ひとつにまとめて丸めたティッシュをごみ箱に投げ込む。当てずっぽうだった為にそれはごみ箱ではなくカラーボックスの角に当たり、そこでばらばらとほどけて転がった。
「人が話してるのに、他人事みたいに知らん顔してるからだろーが」
「だって」
だって、現実味薄いんだもん。
言いかけてたところで、杉山に遮られた。
「……いや、こんな話しに来たんじゃなくて」
あのさ、ちゃんと話聞いてくれる?
*
朝に見た予想天気図は発達した低気圧の為に等圧線が狭まっており、日本海側で猛烈な時化や吹雪をもたらすことを示していた。
影響は関東地方にも及んだ。だから今、上空でびょうびょうと強い風が吹いているのは当然のことと言える。彼女の部屋のサッシも、風圧により音を立てて震えている。
そして根本さんはまた泣いている。
相変わらずオカマ声のまま、偶に咳をしながら。
「おかあさん……」
つるっとした食感なら、しっかりしたものでも食べるかもよ。喉痛いんでしょと母親に持たされた治部煮を噛み締めながら、文字通り滝のように涙を流している。
あれから色々なことを話した。といっても、大したことじゃない。
風邪を引いて億劫だろうが、面倒でも栄養はきちんとバランスよく取らなくてはいけないこと。一人暮らしなら余計に気を遣えとか。
最近は牧田さんに仕事を任せる為にがんばっているようだけど、男の社員も顎で使うくらいの気持ちで扱って構わないとか。
自分のことは後回しにして、それはそれで楽だろうが、それを見る外野の気持ちも少しは慮れとか。思ってもみなかったことなら、今すぐ少しは考えてみろとか。
面倒になると菓子類を買い込むようだが、それを主食にしていたら治るものも治らねえよとか。
「おれ、風邪を引いても食欲出るだけだから風邪にいいものとか分からなくて。だからうちの母親に尋ねたら、要らんものどっさり作ってよこしたんで」
事実をまるっと言うつもりは無い。無いが、殆ど嘘じゃないのでそういうことにした。
「さっきも腹鳴らしてたし、おれも腹減ったし。飯食おう?」
そんなに喧嘩腰にならず、伝えられた筈だ。
最後になるべく優しく言うと、目と鼻だけ真っ赤になったまま黙っておれを見ていた根本さんは、やっぱり暫く黙ったままだった。
そして数分後、小さく「うん」と言った。
勝った。
一応病み上がりの彼女を立ち働かせるのもどうかと思ったし、まだ咳も続いている。おれもいい加減腹が減ったんで、母親が持たせてくれた治部煮や玉子豆腐の他に、米を炊いて味噌汁を作ることにした。
根本さんの部屋は野郎の部屋のように全体的に素っ気なく荒れて――どんだけカン・ビン溜めてんだ、ごみはすぐに出せ。――いるが、台所用品と食器、食材の数々は流石のものでおれは内心舌を巻いた。すげえ。
作家ものらしい陶器の数々、醤油やみりんや味噌、酢なんか何本も種類がある。包丁も手入れの行き届いたものが何本も。刺身包丁はともかく、牛刀つうの? 鉈みたいな、何かあったら一発で殺れそうなやつまでぴかぴかに光っていてこええ。普段何作ってんだ。
それから、そいつを使えば一発で撲殺出来そうな、小さいながらも石で出来たすりこ木? と、すり鉢。多分、こいつは香辛料を砕くんだろうな。
他にも片手鍋みたいな形をした荒っぽい生地の土鍋みたいなのとか、でかい壺があるので首を傾げていたら、後ろから「それは香港で買って来たの。炊き込みご飯とかスープ作るの」と含み笑いする声が聞こえて納得した。腐乳というのも、香港で買ったって言ってたな。
久しぶりにおれを前にして笑っている彼女は、せっせと洗濯物を畳んではカラーボックスにそれをしまっている。
見られたくないものが色々あるようで(そりゃそうだよな)、絶対に後ろを向くなと厳命されているので見てはいないが多分笑っている。筈だ。
祖母・母・姉にもみくちゃにされて育っているから、女のあれこれは色々見て来ている。おれは見てたって無問題ですよと言ってやったんだが、馬鹿じゃないのと怒気の籠った声がした。そりゃそうですよねと珍しく同意。
実家から失敬してきたキャベツの残りと油揚げで味噌汁を作り、炊飯器が無いというので、根本さんが普段飯炊き用に浸かっているという土鍋(これは日本製)で飯を炊き、治部煮を温め直して(電子レンジはあった)玉子豆腐を出す。
器狂いになる奴の気持ちが少し分かるわ。大した内容じゃない飯でも、何か雰囲気出るもんなんだな。
それに、いつの間にか洗濯物を畳み終えたか何かした根本さんが隣に立って、器を水に浸けたり、味噌汁用にと冷凍庫から薬味を出してくれたりしたので、地味なおかずたちも彩りが少しよくなった。器を使う前に水に浸けるなんて知らなかった。
「あ」
食べ始めてから、冷凍庫のりんごのことを思い出した。
平らにしたまま、半分凍ってる内に包丁の背で上から押さえて、小さい四角に分ける。
「それ、どうするの?」
「夜中とか熱があったり喉が痛い時でも、これ舐めてるとちょっと楽になったりほっとするやつ。りんごすりおろして蜂蜜とレモン混ぜて凍らせただけなんだけど、ちっちぇえ頃から母親が作ってくれるんだよね」
そのままそっと冷凍庫に入れ直して振り向いたら、また根本さんが泣いていた。