防衛機制:反動形成
大体、何でいつも自分を大事にしないのかと。
鉄扉の前でスマホを耳に当てながら、おれは少しずつ苛々してきた。出やしねえー。
食事をバランスよく食べるって、自分のコンディションを保つ為の最低限のことだとおれは言った筈だ。
だのに何だ、みかんゼリーとチョコレートばっかり食ってるって。木・金と観察してたが、その他にも菓子をちょろちょろ食っていやがった。食欲無い訳じゃないみたいだが菓子ばっかりってガキかあいつは。耳あんのか。
風邪引いて体力落ちてんのに、相変わらずコピー用紙や備品たんまり抱えて息切らせてたり。
合宿(おっさんになっても合宿っていうのが滑稽だ)準備と通常業務と、牧田さんの仕込みと牧田さん大好き長岡さんの嫌味や仕事の押し付けを笑いながら全部やって。
馬鹿だろうあの女と思ったらますます苛々してきたので、実力行使に出ることにした。おれはインターフォンも無い部屋の鉄扉を拳で叩いた。さっき中から咳が聞こえてきたから、居るのは分かっている。
「押しちゃった!」
幾度か叩いている内に慌てふためいた声が、スマホと扉の向こうからと同時に聞こえてきた。
「押しちゃったじゃなくて。電話出ろよ」
苛ついたあまり、敬語がすっ飛んでるが止まらん。
「あと、荷物重たいからさっさとドア開けて」
別に重たくは無いんだがな。
「はっ!? 外に居るの杉山君なの!?」
「おれですが?」
「いやいやいやいやすごい状態だから駄目だって! 前にも言ったでしょ!? 誰も来ないから油断して毎日過ごしてんのに何考えてんの一応独身女性なんですけど!」
「威張られても。ここで押し問答してていいの? 大家さん隣なんでしょ?」
入口近くの根本さんの部屋は、造りから察するにどうも大家さんが隣に住んでいるらしい。一番手前の部屋だけ、一軒家風で金のかかり方が違う。
「杉山君が帰れば無問題だから!」
「懐かしっすねそれ。でもおれ帰らないんで」
おれにこれを食えと?
スマホ越しに紙袋の中身が聞こえるように音を立てると、根本さんの声が聞こえなくなった。鉄扉の向こうで慌てふためいた気配が暫くしたかと思うと突然通話が途切れ、代わりにそいつがいきなり開いた。ガン、という音とともに限界まで引っ張られたチェーンが気の毒ではある。
「…………」
「…………」
室内に居た筈なのにニットキャップを被った根本さんがチェーンが保つ隙間から顔を覗かせたが、黙ったままおれとおれが持っている荷物とを交互に見るだけだ。
負けるかとおれも黙ったまま根本さんを観察すること数分。
「…………それ何? 何持って来てんの……?」
勝った。
「あのさあ、具合悪いのに毎日ゼリーとチョコばっか食ってたら治るもんも治らないんじゃねえの? 根本さん、大人だろ。何やってんの? いい歳してんだろ」
これ食えよと紙袋を持ち上げながら言いかけて、予想もしない反応がおれを驚かせた。
根本さんが、泣いている。
「これで、も! が、がんばってるのに……っ。たり、足りなっ、い、かも、し、し、しれ、な、い、けど! がんば、って、る、のに……! がんばって、るの、に……!」
ひっ、ひっ。
およそ大人の女の泣き方じゃない。
短い間にいっそ感心するほどものすごい量の涙を流して子供みたいにしゃくりあげながら、鼻の穴から鼻水まで光らせ始めながら、くちゃくちゃの顔になって。あ、深呼吸した。
「だい、大体っ、一人暮らしの女なん、だから! いきなり誰か来て、こわ、怖くない訳無い、無いでしょ! 私、だって、怖い!」
そこまで言うと、扉が大きな音を立てて閉められる。と思うと、風圧とともに開いた。あぶねー、鼻先かすったわ。
「いいわ、入れや。そこまで言うなら」
完全に据わった目をして、根本さんが顎で部屋の中を指し示した。
*
控えめに言う。
野郎の部屋に来たのかと思った。
根本さんはおれを部屋に招き入れた後も、ずっと泣いていた。
「何考えてんのほんと。女が皆朝早くから起きてると思ってんの? そんで朝から眉毛描いたり化粧してると思ってんの? 外も歩かないのにブラしてるとでも?」
そんでずっと詳しく怒っていた。
しかし根本さん、眉毛しか描いてないこと多いだろ。言いたいことは分かるけど。それで部屋の中でも帽子被ってんのか。そうか。
「髪の毛だってすぐ梳かしたりしないし、ずっと忙しくて風邪も引いて、やる気ぜんぜん無いし。私、普段はものぐさですよって言ってるじゃない!」
おれは黙って、体の後ろに洗濯物の山を隠しながら目や鼻を真っ赤にしている彼女のことを見ていた。この人、顔色変わらないけど流石に充血すると分かるなとか思いながら。
「…………!」
言い立てて気が済んだのか、根本さんが黙ったところで腹の虫の音が聞こえた。
ごみの他は布団とカラーボックスが何個かと冷蔵庫、キッチンワゴンの他は小さくて低いテーブルがひとつきりという、味も素っ気も無い部屋だ。ものすごくはっきり聞こえた。
それで本来の目的を思い出した。
*
怖かったのに、パニック起こすくらい怖かったのに、しかも一番だらしない状態を一番見られたくない人に見られそうになって、しかも何やってんのとか言われてそりゃ泣くわ。いい歳してとか。
もうやけっぱちになって部屋に入れたけど、そりゃ昼間よりはぜんぜんましだけど、でも洗濯ものとか雑誌まとめたやつとか床に放置したままで化粧してないしっていうか眉毛も描いてないから慌てて帽子被ったけど、ブラしてないからしわくちゃのエプロン着けてさあ! エプロンがしわしわなのは私が悪いんだけどさあ!
悲しみや怒りや、そういった感情が嵐みたいに吹き荒れた後で少し落ち着いたかと思ったら盛大にお腹が鳴って、絶望した。髪の毛バッハにされた時より酷い絶望感でしたのよ奥様。
そしたら杉山君、ちょっと笑って(笑うんじゃない!)持ってきた大きな紙袋から次々に色んなもの出して来るから目が点になった。
かてて加えて、ちゃちゃっとスープなんて作ってくれたので更に訳分からなくなった。おーまーえーはーなーにーがーしーたーいー。
私は君に、早く帰って欲しいよ……。
「牧田さんが」
何で電話番号知ってんの? 何でマンションどころか部屋まで知ってるの?
そこは本当に怖かった。幾ら好きな男でも。
派遣元には登録の時に記入してる、でも派遣元が派遣先に、派遣社員の個人情報を漏らすことは絶対に無い。よっぽどのことでも無い限りあり得ない。なら何で?
恐る恐る聞いてみると、杉山君はあっさりと教えてくれた。
「牧田さんに教えたでしょ、番号」
「……入ったばかりの頃」
まだ定時で帰れていたあの頃、牧田さんの代わりに備品整理を始めた頃。定時後に場所がまったく分からないと牧田さんが慌てては、棚の中をめちゃくちゃにするのに参ってた。
「でも、誰にも言わないようにって教えてて」
「あの人のデスクマット、見たことは?」
「……ノー」
「根本さん携帯番号って、ご丁寧に但し書き付けてメモ張り付けてあるから」
牧田さんのこと、嫌いだって初めて思った。
※無問題:広東語で「大丈夫・問題ない」の意(実際は冇問題表記)。また、1999年公開の香港映画。