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防衛機制:打消し、或いは。

 080から始まる、馴染みは薄いが知らない訳でも無い番号から着信があるのを彼女は眉間に皺を寄せながら見つめていた。


 話は少し巻き戻る。


 渋々掃除を始めたものの、短くは無い期間放置していた部屋が短時間でそう簡単に片付く筈も無い。

 長らく畳んだことの無い布団をまず畳む。洗濯機を動かしている間にシンクに溜まりきった皿や鍋を洗い、排水溝を片付け床のごみを拾い、洗濯したまま放置してある服塚や縛った雑誌類、カン・ビンごみはともかくとして(するしかない)、それ以外は何も無くなった床を雑巾で磨いたところで根本の気力体力は尽きた。畳んだ布団の上にうつ伏せで倒れ込みながら、「はー!」とため息とともに大きな声を上げてしまう。

 お風呂は奇麗にしててよかった……。

 かける労力を少しは省けたことに安堵する。

 バストイレの場所が単一なことをこれ幸いと、風呂上りにすべてをシャワーで洗い流すという乱暴な方法でも、根本にとっては掃除は掃除なのであった。

 トイレットペーパーだけは濡らさないように()けられるあたり、無駄に小器用である。

 ごはん、どうしようかなあ……。

 暮れゆく外の気配を感じながら、咳を続けてする。掃除のきっかけとなった肝心の熊手は、折り畳みテーブルの上だ。もう、これを飾る根性は残っていない。ごめんなさい和田さんの奥さん。

 青く沈みゆく部屋に、空っぽの胃が上げる抗議の音が大きく響く。思い付きで始めた掃除が止めらなくなるとは思わなかった。食い意地は人一倍の根本だが、それにも勝るものぐさの為まだ何も食べていない。

 キャベツ巻き、まだあったっけ? それよりコンビニ行こうかな……サッと行くか。

 目にしたくない男の顔を一瞬思い浮かべ、けれどすぐに打ち消しながら寝間着の下をジーンズに着替える。

 着替えながら立て続けにまた咳をして、苦しさに涙目になっていると突然どこからか振動音が響き始め、驚きのあまり根本はジーンズを履きかけたまま飛び上がった。


 それは。

 馴染みは薄いが、何度か目にしたことのある。

 アドレス帳に登録することも出来ず、着信履歴をすべて消し去った。

 自分の番号を何故知っているのか、尋ねることが出来ないでいる男の。


 出れる訳無いじゃん!

 振動音の発生源は、カラーボックスの上に放置していたスマートフォンだった。

 滅多に鳴らないそれを恐る恐る手に取るとそこには080から始まる杉山の番号が表示されていて、見た途端彼女は固まった。眉間に皺を寄せながら見つめる。

 声、聞きたい。

 珍しく素直にそう思った。けれど通話ボタンは押せない。何もしていない筈だが、どんな内容にせよ聞くのが怖い。第一、あの奇麗な人と思い出すだけで駄目だった。期待したくない。勝手に期待して、勝手に裏切られた気持ちになりたくない。出られる訳が無かった。

 伝言メモをセットし忘れた為暫く振動し続けていた電話は、固まっている間に静かになった。

 それに勝手な寂しさを覚えながら緊張を緩めた途端、手の中のスマートフォンがまた同じ番号からの着信を示して震え始めた。今度は何分経とうがお構い無しに震え続ける。

 怖い! 出られない! でも出ないでいても月曜日が怖い! うおお怖い!

 手にしたまま固まっていると、今度は玄関から、人の訪いを知らせる拳が立てる音が鉄扉越しに聞こえてきた。ごん、ごん、ごん。

 安いばかりの根本の部屋に、インターフォンは付いていない。そして今日、ネットスーパーや宅配業者が来る予定は全く無い。

 どっちも怖い!

 パニック状態に陥り何も考えられなくなった根本の指先が、画面の通話ボタンにかかったのはその時だった。


 *


 杉山が作ったのは、ごぼうをすりおろしたものに醤油と鰹節を加えて湯を入れたものだった。


「根本さん腹減ってんでしょ、先ずそれ飲んで体暖めて」


 有無を言わせない雰囲気の中恐る恐る口を付けたそれは、簡単なものながら意外なほど美味だった。えぐみは無く、根菜の香ばしさを感じる。


「おいしい……」

「見た目グロいけど、暖まるしうまいでしょ?」


 満足げに頷きながら、そうだ、と呟き平たい謎の物体を指差す。ラップに包まれた白っぽいそれ。


「これ、りんごのすりおろし。冷凍庫借りるわ、凍り始めたら小さく分けるから。あとこっちはチキンスープ。レンジで解凍すりゃいいよ。あと、プリンとゼリーは適当にスプーンで食って。かりんはお湯割り、蜂蜜大根は食ってもいいし飲んでもいいってさ」


 そう言いながら勝手に冷蔵庫を開け閉めする杉山の姿をただ茫然と見ているだけだった根本だが、胃にものが入ったからか処理出来ない事態に落ちていた思考力が少し戻ってきたようだ。ええと、と小さく声を出す。


「お世話かけまして……」


 いやそうじゃない、お礼も言いたいけどそうじゃなくて!


「いーえ。プリンの方が先に傷むから、先にプリンから食べな」

「あ、うん……じゃなくて」

「何」

「杉山君、何でうち知ってんの……? そもそも何で私の携帯知ってんの? 教えたこと無いよね」


 あと、りんご凍るまでうちに居るの……?

 とまで聞きたいが、それは怖くて尋ねることが出来ない根本だった。自分の後ろにある服塚が気になって仕方が無い。


 *


 根本さんのマンションの住民は大らかなのか、このご時世にも拘らず皆ポストに名前がでかでかと書いてあってびびった。

 携帯を何度鳴らしても出ないのに業を煮やしてマンションの玄関を覗いてみたら、部屋番号の下にでかでかと根本さんの名前が表示されて些か心配になった。根本さんだけでなく、入居者全員が同じように名前を掲げている。オートロックでも無いしインターフォンも無いし、ここの防犯事情どうなってんだ。

 おれは変態じゃない。ストーカーである筈もない。

 あの夜、速度を落としても延々根本さんの後を付けることになってしまって(コンパスの差だ)、結果的に彼女のマンションを知ってしまった。かなり古いが、おれのとこより便利な場所で少し羨ましかった。


 長いこと続くオカマ声にうんざりしていた。そして彼女がみかんゼリーばかり食べているのを知って呆れ返ったのは、木曜日のことだった。


「根本さんさー、みかんゼリーとチョコばっか食ってるんだよね」


 東京本社からの帰り、珍しく和田さんと早い昼飯を食ってたら、和田さんがいきなりそんなことを言い出した。


「おれ隣じゃん。根本さん、熱は無いみたいだけど全然よくならないじゃん。んで奥さんにその話したら、その子ちゃんとごはん食べてる? って聞かれてさ」

「根本さん、弁当持って来てませんでしたっけ」

「おれもそう思ってたんだけどさ、見てたらそんなんばっかり食っててさ」


 はー、奥さんの弁当食べてーなー。

 ぼやきながら、和田さんは蕎麦汁の中で半分衣がはがれた海老の天麩羅を口の中に押し込んだ。


「それじゃなかなか治らないって奥さん心配しててさ。派遣なら、社員にもまして気を付けないといけないのにって」


 風邪を引いても食欲が落ちたことなど無いおれには、風邪にいい食べ物のことなどさっぱり分からなかった。ググってはみたが、諸説あり過ぎて取捨選択が出来ない。食えだの食うなだの。

 首をひねりながら冷蔵庫を開けたら、食い残しの梅ごぼうを見付けた。それでそういや母さんならと思い付いた。季節の変わり目に弱い母親は、よく風邪を引く。

 根本さんに優しくする人がいたっていいと思ってはいた。

 けれど、どうも本人を目の前にすると余計なことばかり言ってしまう。それなら、うまいものを食べさせるのがいいんじゃないかと思っただけだ。多分、あの人家でもコンビニスイーツばっかり買い込んでんじゃないかとか。他意は無い。


 だから唐突とはいえ、訪ねただけでめちゃくちゃ泣いて嫌がられるとは思ってもみなかった。

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