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斜め前でも、前は前。

 嫌われたり、蔑まれたり。

 そんな記憶さえ、彼女にはほぼ無い。

 ただ無関心だっただけだ。誰もが。


「根本さんはがんばってるからね」

「オーウありがとうございまーす。私、ほんっとがんばってますよねー」


 HAHAHA!

 和田が褒めるのに対し、根本が明るく答えているのが給湯室に響き渡った。

 彼女が風邪を引き始めて、十日余り。声と咳の酷さは相変わらずだが、このところの彼女は以前にも増して明るい。

 金曜日、午後十時。

 残っている者で遅すぎる夕食(今日は牛丼だった)をしたためた後、全員のごみをまとめて給湯室へ持って行こうとした根本の手元から、和田がごみ袋を奪った。


「偶にはおれやるよ、お茶入れるんだろ?」

「ありがとうございます、和田さん優しいな! うれしいです!」


 にこにこと答えると、和田は少し真顔になった後、根本さんはがんばってるからねと笑った。

 だから根本も笑う。キャサリンみたいに笑う。

 心の中のアメリカ人(相変わらず偏見)を動員していると、何も考えずとも愛想よくフレンドリーに対応出来る。ロボットよろしく自動操縦みたいになるので楽なのだ。本当の自分じゃなくてもいい、それで誰かに少しでも好かれるのはとてもうれしい。

 それは根本にとってのささやかな処世術であり、彼女が極僅かに持つ、誰かと円満に何かを進める為の武器であった。――会話とか、仕事だとか。


 根本はいじめられたことが無い。

 けれど友人もいない。

 それは自分のせいだった。


 小さな頃から、誰かとコミュニケーションを取ることがうまく出来ない。

 他人の本音と建て前を見抜けず、空気が読めず。

 嫌われるほどの何かをすることも無い代わりに、誰かに肩入れをされるほどの何かをしたことも無い。そんな勇気は無い。

 関わられるとただ面倒臭いのだが、存在さえ気にしなければ何かをしてくることも無い。

 それが以前の根本だった。

 三十路を過ぎた今となってみれば、他にもコミュニケーションの手段があったと分かる。いわゆるリア充たちが実践していることを彼女は十二分に観察してきた。

 しかしそれを素直に実践するには、根本のひねくれてしまった無駄なプライドが邪魔をしてしまう。こんな自分には出来ないという、誇っても仕方が無い部分が邪魔をする。

 何かをして呆れられたり、嫌われたり。それならまだしも、何も関心を寄せられないことが怖くておかしな鎧を自分に纏わせた。

 それが根本にとってのアメリカ人(偏見)である。

 彼らの大仰な言動や行動はとても新鮮だった。演出であろうが広告であろうが、何より明るく、開けっ広げで楽しそうに見えた。

 ――こんな風に楽しそうにしていられたら。

 テレビだけが青く光る部屋で、彼女は変わろうと決めた。これなら、私は私じゃなくいられる。こんな風なら、色々なことがおかしくたって仕方が無いよね。

 誰かの顔色を窺って、機嫌を窺って、けれど空気が読めなくて気遣い出来ない私じゃなくて。

 それは彼女が初めて手にした、明るい方を向いた結論だった。ねじくれ曲がりくねり、大分斜めの方向だったとはいえ。


 *


 昨日はいいことあった。


 土曜日、久しぶりに昼過ぎには目を覚ますことが出来た根本は、咳をしながら微笑んだ。

 和田さんはいい人だな、励ましてくれた。

 業務で上司に褒められても、それは派遣として当たり前の仕事だ、根本が褒められている訳では無い。けれど昨夜の和田は、『いつも皆に気を遣ってくれてありがとう』と言ってくれた。『あとちょっとがんばろう』とも。

 褒められようと思って仕事をすると失敗をする。なのでいつもは無心でいるつもりだ。それもまた、アメリカ人(偏見)を心に住まわせるようになってから気付いたことだ。

 だから、そんな風に言われるとなおのことうれしい。このところ心身ともに本当に弱っているから、うっかりちょっと泣きそうになってしまったくらいに。

 寝転がったまま枕元のバッグを手繰り寄せると、昨夜和田から渡されたものを出す。付けられた小さな鈴が、ちりりと微かに音を立てた。

 先日の二の酉で、和田の妻が買って来てくれたのだという小さな熊手。

 がんばっている根本さんにいいことがあるようにって、うちの奥さんがね。

 何でも妻に話す、社内でもかなり有名な愛妻家らしい和田の言葉を思い出して、また微笑む。仕事以外の彼の話は、いつだって愛妻のことだ。どうやら根本のことも、自宅で散々言っていたらしい。根本(どころか会社中の人間)も、彼が愛妻と必ず風呂に入るとか弁当が毎日とても手が込んでいるとか知っている。

 そういえば和田さんの奥さんも派遣社員だったんだよね。いいなあ、素敵な旦那さん。

 ありがたいやら羨ましいやらで複雑な気持ちになりながら熊手を観察すると、小さくとも丁寧に作りこまれているのが分かった。豊穣を祈る稲や開運祈願の札がきちんと貼ってあって、紅白縄に先ほど鳴った鈴が揺れている。

 もう、これだけで十分だと思った。

 半年ほどしか勤めることが出来なかったが、こんな風に誰かが心を差し出してくれた。


 せっかくもらった熊手なのだ、飾ろうと決めたのはそれからすぐのことだった。

 パソコンを開いて色々調べた結果、『熊手は福や富をかき込むものなので、家の一番奥より出入り口に向けて飾れ。上の方に』ということは分かった。

 ワンルームなので、一番奥といっても高が知れている。

 問題は部屋の中だ。

 ええと……これはまずい、よね。

 お馴染みの塚と化している服の山はまだしも(よくないが)、シンクに詰まれた鍋や食器、足の踏み場が殆ど無い床を改めて眺め、根本は少しだけ反省した。せっかくもらった熊手がかき寄せるのがごみではまずい。

 幾ら何でもさぼりすぎたわ……。

 これ以上になると魔窟になる。大家が隣なので覗き込まれると厄介だ。きっかけとなった熊手に逆恨みしそうになりながら、根本は渋々と部屋を片付け始めた。


 *


 プリン。

 ゼリー。

 蜂蜜大根。

 正体不明の薄っぺらい物体。

 かりんの砂糖漬け。

 玉子豆腐。

 治部煮。

 何かが凍ったフリーザバッグ。


 服塚の前、小さな折り畳みテーブル一杯に次々と広げられる光景に、根本は付いていけないでいた。大体、何故目の前に杉山がいるのかもさっぱり理解出来ないのだ。


「じゃあ借りるから」


 部屋の主が何も言えないでいるのに頓着せず、杉山は立ち上がった。高いものといえば冷蔵庫ぐらいしか無い根本の部屋で、杉山の長身が更に大きく見える。

 大きいなー……。

 現実逃避なのかどうでもいいことに感心してしまう。

 泣き腫らした顔のまま、ぽかんと口を開けっ放しで茫然としていると、杉山はごぼうらしきものをたわし(持参してきた!)で洗い、吊るしてあった片手鍋の中にそれを直接すりおろし始めた。


 外では墨を流した空を、嵐のような風が渡る。瞬く間に雲が流れていく。

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