乖離
結局、根本さんの風邪は長引いているようで、屋上にまた来なくなってから十日ほど経っていた。最初は逃げやがったと思ったのは悪かった。いやあの人すぐ逃げるし。うん。
風邪が長引いていることに疑いようがないのは、根本さんが週明けからそれはそれは見事なオカマ声に変わっていて、それが十日あまり経った今日に至るまで続いているからだ。
その声で、いつものように電話を取るのできめえ。しかし牧田さんが電話を取ると、業務への被害が全体に及ぶので怖い。あの人何か能力持ちか? 妙なギフト備えてんな……。
昔、夕方の大学の裏手近くの路上で転がっている女を介抱しようとしたことがある。
それは女の格好をしているだけの泥酔したオカマで、よく見ると髪の毛が長いのと格好が女だってだけのヒゲだった。
そいつはべろんべろんに酔っていて、すげえ涙と鼻水垂らしながらおうおう号泣しつつ『こんな人もいるのね親切な方ありがどおおおおおおおおおうおおおううおおう!』と抱きついてきて、子泣きじじいみたいにいつまでも離れないという思い出すのもおぞましい記憶をおれに植え付けた。あの咆哮が忘れられん。うっかり思い出すと、未だに鳥肌立つわ。つまり今な。びっしりな。オカマというか通常の同性愛者に特別な忌避感は無いが、あいつは駄目だ。生命の危機を感じたわ。
泥酔しているくせに、おれに隙があるようならすぐにどこかに連れ込もうとしていたそいつの目は、酒に濁っていながらmo
飢えきった肉食の野生動物みたいにギラギラしていた。
まじで食われるところだったんだと思う。それまで経験したことが無くとも、はっきりと分かるくらいの眼光だった。おれと一緒にいた奴が呼びに行ってくれた、大学の警備員の到着があと五分遅れていたらと思うと気が遠くなる思いだ。一瞬たりとも気を抜けなかった。
というようなことを、根本さんのオカマ声で思い出すのできめえ。あの声を聞きながら昼飯は辛い。それに治っていないのに寒い屋上じゃ幾ら何でもな。うん。な。
ちなみにそのオカマの『泥酔した挙句に純真な大学生一本釣り』は一部の学生の間ではつとに有名だったようで、その一部の学生であるところのゼミの先輩には今でも『オカマに食われかけた間抜け』と呼ばれている。解せぬ。
一週間以上経ってもオカマ声の根本さんは、その声から察するに喉の炎症が治まっていないらしく、しかも咳をずっとしている。
亀山次長が通称『合宿』(全国の部全体の宿泊ミーティングのことだ)の責任者で、その直属の部下なんだからある程度の残業は仕方無いことだと思うが、最終調整に入っている今、早朝から夜中まで会社に居るぞあの人。
派遣会社からは何も言って来ていないみたいだし、亀山次長も大丈夫なのかねと一応は毎日尋ねているけど、それで根本さんが大丈夫ですと言う訳も無く。派遣会社のルールとかうちのルールとか本人の体調とか、一体どうなってんだ? 大体、派遣社員が何でそこまで働かなくちゃいけないのか誰も疑問に思っていないようなのはどういうことだ。オカマ声聞いているとすげえ気になってくる。ものすごく他人事だがな。
おれはといえば、そもそもデータのやりとりなんかの管理だから留守番組だし、合宿の為の準備やしわ寄せもかなりあるにはあるが、亀山チームよりはまだましだ。早朝出勤はしていない。くらいの違いでも大分違う。
それでも晩飯の大半は会社の近所の牛丼屋ピザ屋中華料理屋辺りでまとめてテイクアウトしたり、出前をしたりして皆で餌みたいに食っていて荒む。そういや買い出しも出前も根本さんがとりまとめてるな。……牧田、あの女まじでそろそろ首やばいんじゃないか?
まあ、そういう飯も別に嫌いじゃない。ジャンクフードも好きだ。皆で少し休憩しながら食う飯には、それでそれで味わいがある。
ただ栄養素の働きを知っているだけに、まともなバランスが取れた飯が食えない状態が続くとやべえなと思う。気にし過ぎも良くないが、頓着しないのもどうかと思う。体調管理は社会人の義務だからだ。あと、そういう飯が続くと何でか餌っぽく感じてしまう。
だから早く合宿当日になって、根本さんが休めたらいいとは思う。カップ焼きそばは止めたみたいだな。
前に喧嘩腰に言っちまったが、まじでそろそろどっちの会社にも訴えないと体壊すぞあれ。誰も何も言わないの、おかしくね?
*
熱があったり、効き目の強い薬を飲んで寝ると夢を見るって、ものすごく久しぶりに思い出した。起きても夢を覚えているなんて、学生時代の頃以来じゃないかな。驚いた。
オカマ声は治らないし咳は止まらないし病院でもらった薬は切れるし土曜日朝起きられないし休めないし遅刻も早退も出来ないし。どうすりゃいいのよ。死ぬか。
病院にかかった費用もすごかったけど、市販の薬はもっと高いし財布辛い。体調も辛い。
とにかく参ったのが、夜中に咳をしながら目を覚ますこと。咳をするって体力要るし疲れるし喉痛いし肺もちょっと痛い。「もうやだ」って泣きながら眠るの、いい加減にしたい。
私は夢を見ない。起きて覚えていないなら、それは見ていないのと同じって思ってた。
夢を見ても、会いたい人には会えない。会えていたとしても、本当には会えないし。夢の中で会えても、現実にそうなら辛いだけ。
現実と一緒。
なのに風邪を引いてからというもの、数少ない覚えている夢とも違う、熱や薬で引き起こされる夢を見る。
咳で目を覚ましながら、現実と区別がつかない夢から放り出されるのが余計に辛い。現実で打ちのめされて、夢で打ちのめされて、体調がいつまでも良くならなくて、私よく笑ってるなって思うわ。
一昨日、派遣元の営業に、次の更新はしたくないってメールを書いた。ちょっと待ってくださいって電話はあったけど、それきり連絡は来ないのは今までと同じ待遇ってことっすね、分かります。
体調が悪いのが治らないのに始発で出勤して終電で帰宅する生活を続けていて、派遣元にも派遣先にも抗議しているのに一向に改善される気配が無いのもう疲れた。
ごはんもまともなの、全然食べてないな。もうそんな気力も体力も残ってない。包丁握っている時に咳なんかしたくない。
不意に杉山君のおかずが懐かしくなったりして、そんな風に思う自分も嫌。ちらっとでも考えちゃう自分がすごく嫌。
お母さんに会いたい。
夢でも、数えるほども会えたことが無い。最近、声しか思い出せなくなっているのに気付いて笑ったわ。あんなに忘れたくないって、強く思っていた筈なのに。こんなに簡単に。
好きな人は私を選ばない。
誰かに抱き締められたことも無い。
がんばっても、どこにも届かない。
疲れた。
疲れたよ。