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缶は冷めるのが案外早い

 夢は見ない。


 見ていると思うけど、目覚めるともう覚えてない。

 夢の気配だけ。

 ああ、夢を見たんだなという感触だけが残る。

 それもすぐに消える。

 だから、夢は見ていないのと同じ。


 *


 泣きながら目を覚ました根本の頭痛は、一向に治まっていなかった。

 少しでもよくなってくれますようにと願いながら気を失うように眠りに落ちたのだが、願いはどこにもまったく届かなかったようだ。

 ……お願いなんて、久しぶりにしたわ。

 痛みに茫然としたまま視線をそろそろとカーテンに移せば、その向こうは早朝の白い光に溢れている。どうやら短い時間の眠りだったようだ。

 幸い、吐き気は明け方よりは薄れていた。

 頭痛薬はあるけど、胃薬は無いな……。あ、風邪薬も無いや。この辺の医者ってどこ……?

 明け方と同じように、壁伝いにそろそろと起き上がっても吐き気がしないことがありがたい。

 しかし遠くに放り投げるように置いてあるパソコンに手を伸ばす元気は無い。仕方無くまだ少しは近くにあるバッグまで這って行き、スマートフォンを取り出して区名と駅名、病院、土曜日診療と検索用語を打ち込む。

 あんなに心細かったのにな。

 打ち込みながら、少しおかしくなって笑ってしまった。それで頭を揺らしてしまい、あいてててと呻く。それでも明け方のあの時よりは随分ましな気持ちなのがうれしい。今の内に病院へ行かなくては。

 体温計など持っていないが、熱はほとんど下がっていないようだ。そのせいでいつもより時間をかけ、緩慢な動作で着替える。こんな時、塚となっている服の山から必要なものを探さなくてはならないのが辛い。

 そうじだいじ……。

 常に無く反省しながら、これだけはいつもありかが分かっている(財布に入れっ放しだからだ)保険証や手持ちの金の確認をして根本は外へ出た。

 出来るだけ着込み、タクシーに乗るまでの距離でも無いかと歩き出す。何せ風邪を引くのは七年ぶりという、非常に頑丈な女である。熱があろうとも頭が痛かろうとも、移動手段を徒歩しか思い付かずにいた。


 ちょっと無理があった……かなー。


 調べた病院が見えるどころか、景色が大して変わらないことに気付いた時には歩き始めて大分経っていた。熱のせいかぼんやりと歩いているのでまるで足を放り出すような形になっているのだが、その様子のおかしさには気付いていない。違和感があるなというぐらいの感覚だ。


「区役所まではがんばるか……」


 近くに休めるベンチがあるような公園も無い。国道の向こうに渡り切り、区役所まで行けば病院はすぐ側だし、敷地内には誰もが休めるようベンチが設置されている。

 そこまでの道のりが辛いのだが、日頃具合が悪くなることなど食べ過ぎた時くらいの根本にはさっぱり分からない。彼女が区役所のベンチまで辿り着いた頃にはすっかりと体力が失せ、行くも帰るも出来ない有り様になっていた。

 風邪、馬鹿にできねえー……。

 至極当たり前のことに今更思い至るも時すでに遅しである。己の頑丈さを頼みにし過ぎていたことを痛烈に反省しながら、途中の自動販売機で買ったおしるこドリンクの缶を手で玩んで暖を取る。

 しかし、始めは手で持つのが辛いほど熱く感じた缶は、強いビル風の中ですぐに冷たくなった。余計に寒く感じ始める。

 その冷たい感触やビル風が彼女の首筋を撫でていくのに鳥肌を立てながら、明け方に自分を襲った強い不安を根本は記憶によみがえらせて長いため息を吐いた。考えたくないのに。

 とにかく病院行こう。


 派遣社員は時給で働いている。

 一日休むだけで、かなりの金額が失われる。


 この状態では週明けに出勤したとて牧田以下の働きしか出来ないだろうことは、根本にもよく分かっていた。さりとて休む訳にもいかず、日頃忌避している病院へ足を向けることにした訳だが。

 やだな、病院やっぱり嫌。

 弱っている時ほど、思い出したくないことを思い出すものだ。そして、嗅覚ほど具体的に記憶を呼び覚ますものは無い。

 常日頃、思い出したくないと強く心に蓋をしている記憶が次々とよみがえるのに打ちのめされながら、老若男女で溢れかえる待合室の隅で彼女は滲む涙を堪えて佇んでいた。


 *


 誰か側にいてくれたらな。

 何も話さなくていいから。

 辛いねって、ただ分かってくれる誰か。


 ……弱った時に考えることって、ろくなことがねーわ。あと点滴、たっかいわ…………。


 溢れかえる患者の波をじっとやり過ごし、医者が渋るのを拝み倒し、点滴を打ってもらって根本が病院を出たのは西日が橙色に輝く夕方のことだった。覚悟していたとはいえ、土曜日の病院の人出たるや相当なものである。

 点滴のおかげでおかしな歩き方をせずとも動けるようになったことを感謝するものの、気力と金をごっそりと取られて彼女は能面のように無表情になっていた。

 けんこうだいじ……。

 それでも数日休んで数万円飛ぶよりはましである。

 気を取り直し、最後の気力を振り絞って調剤薬局で薬を受け取り(ここもすごく待った!)、普通の薬局で点滴と同じ成分を謳う清涼飲料水の粉や熱冷ましのシートなどを買い、昨日のスーパーで冷凍うどんや卵、レトルトの粥を数種類買い込む。

 杉山に会いたくは無かった――いや、弱っているからこそ正直顔は見たかった――が、薬局から近かったのだから仕方が無い。

 仕方が無い仕方が無いと己に言い聞かせ買い物を済ませたが、通常ならいざ知らず、病んで体力(と気力)が落ちているのを彼女は加味していなかった。風邪を引かなさ過ぎて忘れていたとも言う。つまり、一気に買い物をし過ぎた。

 うおーもう駄目。ほんと駄目。

 普段の自分ならばどうということも無いそれらが辛い。

 そもそも、昨日杉山君があそこにいなかったらまともな買い物出来てたのに! 何で豆腐と葱しか掴まなかった私! 昨日は牛すね肉特売だったのに! 杉山君めー!

 ――早く帰ってうどん作ろ……。

 少々悔やみながら、けれどしっかりと減っている腹の為の算段をしながら夕暮れの街をゆっくり歩いていると、覚えのあるひょろっとした長身が、反対側の歩道を駅に向かって歩いて行くのが見えた。


 油揚げもかまぼこも冷凍してあるし、鍋焼きにしよっかな。

 あー鶏卵うどんもいいな、葛でとろみ付けて優しい感じにして。生姜のストック、まだ冷凍庫にあったっけ?


 とにかく週明けまでに何とか回復しなければならない。食べて、眠らなければ。

 素晴らしい美人と一緒なのだ、風邪を移してはいけないだろう。

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