少しの胸やけ、熱。
根本さんは男経験ねえなと思う、ほぼ間違い無く。
男と付き合ったことがあるなら、あんなめちゃくちゃな距離感じゃ無いからな。二人っきりで飯食ってて平然としているかと思ったら、一気に遠ざかるとか。潮か。
焼酎を秘蔵のウィスキーに変え、ちびちび舐めながらものすごくどうでもいいことを想像して萎えた。萎えるわ、あの小太り、いや中太り気味の体は無いわ。ちょっとは飯減らすとか気遣えよ。柔かそうだが。
……ともかく、根本さんだけは無い。
川村や、東京支社の若手よりちょい上ぐらいの男の中には「あれはあれでいい」というマニアックな好みを露呈する奴もいる。恋愛より結婚向きだとか。他人の嗜好は聞いてみないと分からんもんだな。
割と根本さんを気に入っている風の和田さんはといえば、根本さんを見ると懐かしいなどと興味深いことを偶につぶやいていて、それはそれで聞いてみたいような聞いてみたくないような。どうも、出会った頃の奥さんを見ているような気持ちになるらしい。……人当たりがいいようで結構えげつないことをさらっとやってくれる和田さんだけに、気にはなる。第一あの人の奥さん、すげえ美人(社内で知らない奴の方が少ないってのもおかしい話なんだが)。
週末の夜更け、明日も明後日も自由だと思うと開放感からかやけに酒が進む。
ちびちび舐めていたとはいえウィスキーのボトルは中身がかなり減ったし、焼酎も飲んだしつまみも無しでいた為か、およそ普段は考えもしないようなくだらないことばかり取り留めもなく思い付いてしまうが止められない。
やりてえな。
栞里に連絡をしようかとスマホに手を伸ばしかけて、そういえば別れたんだと思い出す。新しい恋とやらは見付かったのかね、あいつ。
季節は四半期ごとに巡って来るのに、夏の終わりだけがやけに感傷的に謳いあげられるのは、気温差のせいらしい。寒くなると、本能的に身を守ろうとするからだとか死を連想するからだとか。おれは日本の夏が大嫌いなので、終わってくれるとうれしくなるんだがな。
しかし栞里と別れたのは痛かった。これでも。
割り切っていたし、情熱を持っていた訳じゃない。でも、そういう自分を受け入れてくれていたんだと勝手に思っていた。栞里が聞いたら迷わず殴って来るだろう(あいつかなり気が強い)勝手な安心感だが。
捌け口にしていても、それなりに大事に思うから飯も毎回作っていたつもりだし、セックスも丁寧にやった。好みの体だけというだけであんな風に扱えるかっつうの。
けれどあいつは最初から、おれが自分を好きになればいいと思っていただけだった。ずっと。それくらい分かるわ。そんな女に何で「あなたも本気じゃなかったでしょ」なんて言われなきゃならないんだ。
別れたことさえ忘れていた自分は思い切り棚に上げ、苛々しながらショットグラスに残っていたウィスキーを一気に呷ると、予想通り茶色い液体が喉を焼いて胃に収まった。まだ暫く、眠れそうにない。
*
杉山が目を覚ましたのは平日の起床時刻だった。昨夜の深酒は午前二時頃まで続いたのだが、軽い胸やけの他はまるで何も無かったかの如くすっきりとしている。酔いにまかせ取り留めも無く考えたことなど、夢よりも遠い。夢も見ずに眠ったのだが。
……腹減ったな。
白菜と鶏もも肉の蒸し煮の他、酒しか飲んでいなかったせいでやたらと腹が鳴るのに苦笑する。胸やけと食欲とは別のようだ。体が半分自動的に、コーヒーメーカーへと動く。
白菜しか無いと根本に言ったが、冷蔵庫の中に食パン数枚と卵がひとつ、それにマヨネーズがまだあった。それから、冷凍庫の中の大量の鶏がらと。
オーブントースターを温めながら、食パンの真ん中を少し毟って口の中に放り込む。
もさもさしたパンの食感に、安いパンはやっぱりうまくねえなと思いながらパンの縁に沿ってマヨネーズを絞り出し、その囲いの中に卵を割り落としてトースターへ。下ばかり焼けないよう、アルミホイルを抜かりなく敷いた。
サラダ菜くらい買ってくりゃよかったな。
昨夜の根本の態度に呆気に取られてしまい、色々なことが頭から抜けてしまったようだ。風呂上りの牛乳も忘れたし、特売の牛すね肉も買わないで出て来てしまった。
焼き上がった玉子マヨネーズトーストは、朝から単品で食べるには少々こってりとしていて、コーヒーで流し込んでも杉山の胃に違和感が残った。分かってはいたことだが。とはいえ胸やけは治まったところを見ると、腹が減ってのことだったらしい。リバースしなくてよかったと思う。
ここ数日、気持ちのいい晴天が続いている。昨日が息抜きだった日だけに、月曜日からの激務が想像出来る。このまま二度寝をしたいところだがせっかくの晴天の休日だ、無駄にせず、やることをやってしまいたい。
湯を沸かすだろ、布団干して洗濯して、ガラを煮ちおう。根本さんにおかずやっちまったから、作り置きしとかないと。あー、その前に掃除だな。埃っぺー。買い出しも行かなきゃな。
鶏がらをひたすら強火で煮出し、骨を壊しながら煮詰めていくと白濁した濃厚なスープが取れる。
それで作る水炊きは杉山の好物なのだが、今日はカレーを作ろうと彼は決めた。寸胴鍋いっぱいに作れば、五日分は出来る。彼は鼻歌を歌いながら立ち上がった。
*
吐きそう……。
根本は酷い頭痛で目を覚ました。痛みが酷くて、吐き気がする。
枕元の目覚ましを見ると、針が明け方頃を指しているのがぼんやりと分かった。ただでさえ視力が悪いのに、寝起きの視界でそこまでしか分からない。カーテンの向こうが黒いので、五時前だろうと予測を付けた。
「うおえ」
頭中に響く痛みを刺激しないよう、そっと身を起こしたところで吐き気が堪えきれず喉元まで胃液が逆流する。堪らず声が漏れた。
え、何で? 何か変なもの食べたっけ?
昨夜は豆腐を温めて、米の上に乗せて食べただけだ。生ものを食べた記憶は無い。
豆腐傷んでた? 上に乗せた葱? 醤油……は傷まないよな、多分。あっ、お腹痛くない。
鈍痛と吐き気に混乱しながら食べたものを思い出していたので、彼女が熱を持っているのに気付いたのは、身を起こして随分経ってからだった。
もしかして:風邪
体調を崩すことなど滅多にない根本にとって、風邪を引くなどという異常事態は予想外過ぎて思い付きもしなかったことである。
何だそうか風邪かと安心しつつ、己が病に臥した時の為の備えなど何ひとつ用意していないことを思い出し暗澹たる思いに襲われた。途端に寒気を覚えて震える。
「うおえ」
震えると同時に頭を動かした為、吐き気がよみがえっててまた声が漏れた。
「とにかく水分……」
吐き気はあるものの、胃液の他に吐けるものは無さそうだ。熱を下げる為にも水分をとそろそろ壁伝いにようよう立ち上がり、常にやかんに煮出してある麦茶を飲むと根本は床にへたり込んだ。それだけで大分時が経ったと思うのに、カーテンの向こうに明るくなる気配は無かった。まだ朝は遠い。
おかあさーん。
小さく呼ばわっても、誰かが返事をする訳も無い。冷蔵庫の唸る音だけが狭い部屋に響く。
ぎゅっと眼を瞑ると、熱のせいか目の端に小さく涙が滲んだ。