雄叫び、心の中のアメリカ人(偏見)。
「それじゃおれ、そろそろ戻りますんで」
いつものように空になった弁当箱をぶら下げて、杉山はふらりと立ち去った。ただし、残ったおかずをプラスティック容器に詰めて根本に渡した上で。
「食事をバランスよく食べるって、自分のコンディションを保つ為の最低限のことだから」
という言葉とともに。
彼に尋ねたいことが山ほど……まではいかないが結構あった筈の根本だが、結局何ひとつ納得出来ないまま、今日も鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で暫く固まっている羽目になったのであった。ぐるっぽ、とやけくそ気味に呟く。
あれはどういうことだったのかとか、根本の立場について知っているのかとか。色々聞こうと思っていたのに。
――あの人、何がしたいんだろ。あ、ベビーカステラ持ってってくれてる、よかった。三袋あっても仕方無いしね。
訳も分からず、思い付くまま取り留めなく根本の思考がぐるぐると渦を巻く。杉山の心遣いを感じれば、期待ばかりが膨らんでしまう。けれど期待を持つたび、打ちのめされる。
自分の機嫌ひとつで嫌味言ったり栄養摂取心配したり、お母さんかっつうの。神経って。
……お母さん、か。
思考の渦が奈辺へ辿り着いたところで頭を左右に強く振り、肩までの髪をざんばらにしたまま根本は勢いよく立ち上がった。
「取り敢えず働く! お時給の分だけ働きますよ!」
いつもよりは比較的楽な日といえど、定時で帰ろうとするなら相当巻いて仕事をしないといけない。牧田さんにあれこれされない内に、備品整理して仕事しやすく整理もしたい。
色々任されて(押し付けられて)いるとはいえ、所詮派遣社員が出来ることなど高が知れているのだが、頼りにされれば能力の最大限までがんばれるのである。大した能力でも無いが。
先日、杉山が強烈な嫌味よろしく忠告をくれたことも、何とはなしに理解は出来るのだ。そう、ショックだったがあれは忠告なのだと今なら分かる。
けれど正社員と派遣社員の間には、暗くはないが深い溝がある。少なくとも杉山たち社員は、数か月おきに首の心配をする必要は無いのだから。
彼女は胸いっぱいに息を吸い込んだ。
冬が始まるにおいと、生暖かい室外機の埃のにおい。
「杉山君の、バアァァァァァァッッッッッ、カ!」
根本の雄叫びは、室外機や道路で無闇と鳴り響くクラクションの音に紛れてすぐに消えた。
常なら東京支社長が真下の階に居る時間である。誰も居なかったのは、根本にとって大いなる幸いであった。分かっていて雄叫びを上げたのであるが。
*
二十四時間営業のスーパーは、遅く帰ってくるしかない勤め人に優しい。しかもネットスーパーまでやってくれている。神だ。
駅直結のそこに比べると、もう一つのスーパーは少し遠い。その上、午後十時までしか営業していない。忙しくない時は、十時まででも十分ありがたいのだが。
けれども駅直結のスーパーに比べ店員が皆熱心で、肉や野菜などに珍しい種類のものが置かれていたり、閉店ぎりぎりまで新しいものを切り出していたりするので、本当はいつもそこを使いたい。
私、こんなキャラじゃなかったんだけどな。もっと言いたいことは言うし、聞きたいことはばんばん尋ねる人だったと思うんだけど。
疲れている上にフラストレーションを重ねて溜め込んだ根本は、久しぶりのお気に入りスーパーの中で視線の定まらないまま買い物かごをぶらさげて徘徊していた。
あれから根本は牧田の尻をさんざん叩き、牧田が出来る最低限のことを理解させることに費やした。普段は上司たちの眼が気になって出来ないことだ。やらなくてはいけないこと気を付けねばならないことを逐一メモに取らせ復唱させ、その場で実践させて理解していないようならまたメモを取らせつつ復唱させる。
これ普通、新入社員に仕込む最低限のことじゃないの……?
今更だが呆れながら、根本はひたすら教え込んだ。
今日一日で理解しきったとは到底思えないが、誰もやらないから根本がやるしかない。根本がやらねば、牧田に仕事を任せることも出来ない。牧田がお気に入りの長岡にはさんざん横槍を入れられたが、このままにしていたら根本が潰される。
幸い和田や川村、手塚といった若手が長岡を抑えてくれたので大分助かった。定時とはいかなかったものの、いつもよりかなり早く帰宅することが出来た。
週明け、牧田が少しでも今日のことを理解してくれていれば、朝から幾分は楽になる。筈だ。合併が実現すれば首が危うくなるのは、牧田のような戦力にもならず勤続年数ばかりを重ねている正社員なのだ。暢気なばかりの牧田だが、危機感を持ってもらわねば後味が悪い。牧田さん、週末の間に奇麗さっぱり忘れてそうだけど。
「……鍋でいいか」
「鍋いいっすね」
立派な泥付き葱が五本で二百円という破格の値段になっていたので、無意識に引っ掴んだところで横から覚えのある声がした。
「コンソメとベーコンで蒸し煮もいいかなって」
「豚肉で巻いて焼いてもうまいですよ」
「白髪葱たくさん作って、熱した胡麻油上からかけてもいいですよね、柚子胡椒で」
「ああ、それ奴にかけて一杯やりたいですね。ただ焼いただけでもうまいですけど」
「……食いつきますねー」
「お互いにねー」
驚いていると知らしめるのが嫌で、淡々と返すと淡々と答えが返ってくる。杉山はもうスーツ姿ではなかった。
「杉山君は何か買い忘れですか」
「いっぺん風呂行って来たんですよ。その帰り。でかい風呂好きなんで」
「そこか、この裏の」
よく見ると、確かに杉山の髪は少し湿っていた。この辺りは東京の住宅街なのだが、この地区にはまだ銭湯がたくさん残っている。
わざわざ避けてネットスーパーまで使っていたのに、会う時は会っちゃうってあるのね……。このスーパー、もう来れないかも。引っ越したいけど、お金無いしな。
ため息を飲み込み、ソウデスカーと棒読みになりながらも辛うじて穏やかな声を出す。私は大人ー、すごく大人ー。
「で、食料調達と」
「そう。おれも鍋やろうと思って、でも白菜しか家に無くて」
根本さんは何買ったの? 葱だけ?
尋ねた割に大して興味も無さそうにかごを覗き込んだ挙句、今日も扁炉かなあと独りごつ。そんな杉山の籠には小さい焼酎のボトルが一本。
「扁炉やるなら、もう干し椎茸戻してあるの?」
「いや。だから迷ってて。……根本さんも扁炉知ってるんだ」
うれしそうにニヤッとするの止めてー。ビル―、スティーブー、キャサリーン!
北風と太陽かよと思いながら、根本は心の中のアメリカ人(偏見)召喚にやっきになっていた。
そうでもして人格入れ替えて対応しないと、また殺られる。心を殺られてしまう!
これだからリア充は嫌なのよお母さーん!