お腹空いた?
お腹空いてる? とはよく尋ねられる。
その最もたるものが、南の国で鳩型サブレーをもらった話でね?
学生の頃、ツアーで南の国へ行った時のことだ。合流する筈の人たちが乗っている便がなかなか来なくて、私も友人も苛々してた。
合流しないと入国手続きも出来ないから、ひたすらカウンターのおばちゃんに何度もまだ来ないの? と尋ね続けていたら、おばちゃんがオオーウ、ソーリーアイドンノー言いながら気の毒がって鳩型のサブレーをくれたのだった。英語ぜんぜん出来ないんだけど、お腹空いたでしょ? って気遣われたのはよく分かった。
お腹なんてちっとも空いていなかったし、お茶も水も持っていない熱い空気の中(外だった!)、それでもおばちゃんの好意に応えたくて友人と二人、口の中の水分奪われながらもそもそとサブレーを食べたのを今でもよく覚えている。おばちゃんはにこにこしてそれを見てた。それにしてもおばちゃん、何で鳩型サブレーなんて持っていたんだろう。
――あの時はまだ海外で、しかも携帯でインターネットなんて出来なかったんだよなあ……。技術の進歩はあっという間で、一度それを手にすると、その前のことなんてすぐに思い出せもしない過去になってしまう。
弁当を頬張りながら無表情に聞き入っているこの青年には、想像もつかない時代であろうがな! この現代っ子!
「太っている人なら一度はある経験ですよ」
「要らないとは言わないんですか」
「もったいない! お腹空いていなくても、はいって笑って答える、それが私たち脂族の掟!」
「あぶらぞく……」
「にくづきにうまいと書いて脂ですよ、言い得て妙ですよねー」
そんなこと言わないけど。五歳も違えば一昔は違うのがこのインターネットのご時世。これでも弁えているんですのよ奥様、ええ。
*
あれから暫く茫然としたまま、馬鹿みたいに口をぱかーんと開けて立ち尽くしていたんですがね。
我に返ったら悔しくて仕方無くて、でももう杉山君の姿は見えなかったし時は戻らないしで取り敢えず結局食の世界旅行へ旅立ちまして。
そしたら韓国の春雨炒め、チャプチェの屋台ではおばちゃんに「お腹空いたでしょ? サービス」ってプラスチックのパック限界までみっちみちに詰めてもらってね。
次に立ち寄った焼餅の屋台では、おっちゃんに「ちょっと待たせちゃったから。腹減ってるでしょ?」とキャベツいっぱいの小さな包子を五個くらいおまけしてもらった。メニューには焼餅しか載ってなかったから、多分非売品だったんだと思う。私の前後にも並んでいる人は居たのに、何故ピンポイントに私だけ。
最後に甘いものが少し欲しいなとベビーカステラの屋台に並んだら、暫くそこでサクラしててと屋台の兄ちゃんに言われ、店先でベビーカステラを延々と食べ続ける羽目になった。お礼にと三袋もベビーカステラをただでもらったけど、もうチャプチェも焼餅も入る余地が無いくらい、胃はベビーカステラでいっぱいで辛かった……。
という訳で、今日は弁当ではなく昨夜の戦利品どもが私の昼ごはんなんである。
弁当箱を開けた途端、みっちみちに詰められたのびのびチャプチェ(時間が経ち過ぎたもんで嵩が更に増えた)や会社のオーブントースターで焼き直した焼餅が出て来た上、家で凍らせたベビーカステラ一袋分が更に出現したのに杉山君は面食らっていた。然もありなん。
意を決して屋上に来たら杉山君が普通の顔で「お疲れさまです」って普通に言うから、つい「はあ、お疲れさまです」と返してしまった。
「おれも最近野菜不足なんで、今日は野菜ばっかりですよ」
と差し出された弁当箱には、今日もおいしそうな彩りのおかずがひしめいていて。
茄子のマリネに白菜と干し柿のサラダ? 漬物? に、竹輪とピーマンのきんぴら、油揚げと小松菜のおひたし。それに発芽玄米を混ぜた塩むすびには、ご丁寧にラップに包まれたパリパリの海苔が。
「杉山君……いい嫁になるよ……」
正直、心の底から尊敬した。海苔が粉々にならない為にって、手帳に挟んで来る辺りは男の人っぽい発想で笑ってしまったけど。
「養ってもらうなら、相当金持ちじゃないと。働いてもらうのはいいですけど、忙しくてピリピリされるのは嫌ですね」
「大富豪前提ですか」
「男を養おうっていうなら、それくらいの気持ちが無いと駄目じゃないすか」
「例え話にリアルな想像ありがとう……」
『昼飯、ろくなもの食べてなさそうなんできちんと食いましょう。屋上に居ますんで』
ベビーカステラで一気に満腹になるわ血糖値上がるわだったもんで、帰ってすぐに寝てしまって気が付いたら朝だった。だから、杉山君の伝言を聞いたのは結局今朝のことで。
やけに喧嘩腰だった割に穏やかな雰囲気の伝言で、聞いた瞬間へなへなと足から力が抜けた。気を揉むだけ無駄だった……あの苦悶の時間返せ。だからって緊張しない訳は無かったんだけども。
恋じゃないですかねって、さー。
逃げられたら追いかけたくなるとか言われたら、さー。
そういうのって、好きな女に言う台詞じゃないのとか瞬間的に思ったらつい口に出しちゃって、でもそんな訳ねーよと自分でも思っててだから本気じゃなかったといえば本気じゃなかったんだけど、はいって言って欲しかったとか、さー。
鼻で笑われましたよね、即ね。帰ってすぐ布団に飛び込んで枕口に押し当てて叫びまくりましたよね。毛玉指摘された時より恥ずかしかった……。
正直もう、関わらないで欲しい。