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花乃屋の話 2
花乃屋で働き始めてから、数カ月経った頃。
お手洗いの掃除に行こうと、座敷の個室が連なる廊下を歩いていた。
一つの部屋の横を足早に通り過ぎた時、開けっ放しになった障子戸の奥で男が立っていた。
会社員のような黒いスーツを着て、こちら側を向いている。
通り過ぎる一瞬の間の出来事だ。
そのままトイレの方に足を進め、私は立ち止まった。
何故ならその時間、店に客は誰もいなかったのだ。
お客さんがいない間にお手洗いを掃除しておこう。
そう思って来たのだから、個室に男なんかいるはずがない。
私は元来た道を戻って、先ほどの個室を覗き込んだ。
もちろん、誰もいない。
私は男の姿を思い出しながら上を見上げた。
和風の造りをしているこの店舗は全ての個室に障子戸が付いている。
あの時男の顔は見えなかった。
何故なら、男の顔は上の欄干に隠れるほど恐ろしく身長が高かったからだ。
そんな男の客は、今日一度も来ていない。
「見間違いだよ」
友人Cの口癖が脳裏をよぎった。
「本当の世界だとしたら、私はそこで生きていく自信がない」
そうだ、見間違いだ。
そう思わなきゃいけないのだ。
私だってきっと、そんな世界では生きていけないのだから。




