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花乃屋の話 4

 

 バイトを始めて一年が過ぎ、夏が再びやって来た。

 蒸し暑い厨房で片付けをしていると、女将さんがカレンダーを眺めて呟いた。


「旦那が帰って来とるわ」

「旦那さん……って、大将が?」


 カレンダーの日付を確認すると、七月の十三日だ。


「うちの犬が、いつもは私と一緒に寝るのに急に旦那のベッドで寝るようになったから。きっとお盆だから帰って来とるんよ」


 私はカレンダーを見て「でも……」と口にした。


「まだ七月ですよ?早いんじゃないですか?」

「この町だけ一ヶ月早いんよ。地域が広すぎて、昔はお坊さんが全部回りきれんくてねぇ……だから、きっと今、お盆やから帰って来とるんよ」


 そうやって、あっさりと世間話の続きみたいに女将さんは言った。


 去年の七月中頃。

 今と全く同じ時期に、私はこの厨房で誰かとぶつかりかけた。


 すとん、と心の奥にピッタリ嵌め込まれたかのように腑に落ちた。

 そうか、だから厨房にいたんだ、と。

 厨房の中に入りたがるのは、お客さんじゃなくてこの店の料理人だった大将しかいないのだから。


 それは、科学的でも現実的でもなかった。

 死んだら人は終わりで、無になってこの世から綺麗さっぱり消え去る。

 その家で、土地で、どんな悲惨な死を遂げても、どれほど恨みや後悔を遺しても死んだら全てそこで終わりなのかもしれない。

 故人の想いが場所にこびりついているんだと生きてる人間が錯覚してるだけ。

 私が見たものは、ぶつかった人は、全部私の「見間違い」で片付けられるべきなのかもしれなかった。

 どれほどたくさんの人の話を聞いても、死んだ人の何かがその場所に残るなんて、私は証明できなかった。

 だけれども、それを全て抜きにして「ああ、そうだといいな」と思ってしまった。


 悔いを残して死んだ人間が出るなんて、他の人達から見れば事故物件と変わらない。

 いつかE先生の生徒たちが面白半分に肝試しをした心霊スポットと同じだ。

 この店には何かが出る。


 だから、亡くなった大将がお盆にこっそりお店の様子を見に来て、うっかりバイトの私とぶつかりそうになってしまったんだ。


 そうであって欲しいと、願うだけならいいだろうか。

 そうかもしれないと、思うだけならいいだろうか。


「きっと帰って来てますよ」


 私はようやくその言葉を言った。

 そう信じることにした。




 ───だから、これはきっと余計な話だ。



 花乃屋の店内はその後も常連さんたちの明るい話し声で賑わっている。

 私が皿を洗っていると、厨房の前を通り過ぎる影が目に入った。

 顔は見えなかったが、白いトレーナーを着た背の高い女性だ。

 女性は勝手口の方に歩いて行く。

 勝手口を出たすぐ外には喫煙スペースがあるので、お客さんが通ることは特に珍しくない。

 だが、勝手口の引き戸を開ける音がいつまで経っても聞こえなかった。


 あれ?今のお客さん、タバコじゃないのかな……?

 じゃあ、どこに行ったの?


 いや、違う。

 誰。

 誰だ?


 今のは誰だ。

 女性の客なんて今、いない。


 見間違い?

 厨房から出て店内に顔を出す。


「あ、ユイちゃん。今通り過ぎた女の人って誰?」


 常連の男性客の言葉に答えられないまま、静かな勝手口の方へ進む。

 誰もいない。

 本当に?いや、常連さんも見ていたんだ。

 見間違いなんかじゃない。


 勝手口の横には、一つの扉があるだけだ。

 その中には何も無い。

 扉の他に出入り口もない小さな空間だ。

 そこにあるのは、供えられた酒と塩だけであると知っている。


 それでも私は、びっちり閉じられている扉の取っ手に手をかけ、力をこめて開けた。


 ぎい、と蝶番が軋む。

 暗い空間から埃臭い空気が流れてきた。

 床には置かれていたはずの酒と塩は見当たらない。

 代わりに掃除用具とダンボール箱がこれでもかと押し込められていた。


「ユイちゃん、何しとんの?」


 背後から私の名を呼ぶ声。

 振り返ると、女将さんが立っていた。


「誰かが、こっちに歩いて行った気がして」

「お客さんが?ああ、誰か外へタバコ吸いに行ったんでしょ」


 違う。

 違う、あんな女の人はいない。

 だって、今食事しているのは男のお客さんだけで。

 私が見たのは、若くて、背が高くて。

 厨房の入口から顔が見えなくなるくらい、異様に背の高い───


「ユイちゃん、そっちのドアん中は物置きやから誰も入らんよ。中、見たことなかったっけ?」

「……物置、なんですか?」

「うん。昔はここに井戸があったんやけどね、もう埋めてあるんよ」

「ここにあったお酒とお塩は……」

「あれは井戸の神様へのお供え物。もう、だいぶ前に片付けたけど。あんな邪魔なの置いといたらホウキとか入らんし」


 女将さんは物置の───井戸を埋めた部屋の扉を閉めた。

 ばたん、と重たい響き。


「私がいない時に、何があっても、何がいても、わからなければ“無い”のと一緒だよ」


 そう言ったのは誰だっけ。


 料理屋の大将が、絶対に店で着ることのない黒いスーツ。

 いつの日か花乃屋の客室で、そんなスーツを着た異様に背の高い男を見た。


 さっき通り過ぎた、顔が見えなくなるほど身長のある女。


 厨房でぶつかったのは、本当に大将だったのか?


 埋めた井戸。

 閉じられた扉。


「井戸の神さんが、息出来ひんようなるから」


 地べたに並べられた酒。

 あの井戸は神様の魂を抜いてあるのだろうか。


「そもそも、事故物件って事故があったからその家を“事故物件”って呼んでるの?それとも事故が起きる家だから“事故物件”なの?それとも事故を起こす人が住むから“事故物件”なの?」


「もう四十年は続いてる店やろ?事故物件やったら絶対噂になっとるって」


 何もわからない。

 わからないのに、私はこの店が怖いのだ。

 とっても綺麗で清潔で汚いところなんか何もないこの店が、私は怖くてたまらなかった。

 私の周りの人間に、この一年間尋ね続けるほどに。


 しばらくして私は店を辞めた。

 あの店に集まってきている何かと、いつか本当に鉢合わせる前に辞めなければならない気がしたのだ。

 亡き大将がお店に帰って来たという優しい話で終わらせられる内に、すぐにでも。


 花乃屋は今でも居酒屋として地元に愛されている。

 しかし、私が花乃屋を訪れることは二度となかった。

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