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元夫との結婚生活では、雷鳴の響く夜は一人で身を震わせながら泣くばかりだった。
壁の薄い部屋、今にも消えそうなランプの灯。ガタガタと破れそうなくらいに揺れる、おんぼろな窓の木枠。窓ガラスは薄く、飛んできた石が当たりひびが入ってしまったことさえある。しかし悲鳴を上げても、誰かが様子を見に来ることは絶対になかった。……来られていても、きっと困っていたけれど。
自らを囲むもののすべてが頼りない状況で、ただひたすら耐える嵐の夜。
──あの夜とは、大違い。
まだか細い少年の腕の中で、マリーンはそんなことを考えた。
オスカーは外部の音を遮断するように、腕を押しつけるようにして耳を覆ってくれている。それでも聞こえる雷鳴の音にマリーンが体を震わせると、「大丈夫だから」という優しい声が何度も耳に囁かれた。
オスカーの体温は高く、その温度を感じていると胸に安堵が湧く。
(あの子獅子と同じ体温だから、怖くないのかしら)
そんなことを考えながら、子獅子の毛並みの柔らかさを思い出しマリーンは頬を緩めた。
「あの、オスカー様」
「なんだ? マリーン嬢」
「もう……平気ですので。ご迷惑をおかけしました」
もぞもぞと体を動かし、オスカーを見上げる。すると気遣いの色が滲む金色の瞳と視線が交わった。
「そう、か」
オスカーは小さくつぶやくと、長い尻尾を揺らしながら名残惜しそうにその身を離す。そして小さな手で、マリーンの頬を何度も撫でた。
「……オスカー様?」
「俺は浅ましい男だ。怯えて縋る貴女が、愛らしいなどと思ってしまった」
ぽつりと零された言葉に、頬が淡く熱を持つ。マリーンは『女性』扱いに、まったく慣れていないのだ。妊婦であるマリーンの中身がデビュタントを迎えたばかりの少女のようにうぶなどとは、オスカーは想像もしていないだろう。
「マリーン嬢?」
顔を真っ赤にして伏せてしまったマリーンに、オスカーが不思議そうに声をかける。マリーンは年若い少年の言葉にすら動揺してしまう自分に向けての苦笑を浮かべながら、口を開いた。
「申し訳ありません。少し、恥ずかしくなってしまって」
「恥ずかしく?」
「いえ……なんでもありません」
『大人』の仮面を貼りつけ、微笑んでみせる。そんなマリーンに、オスカーは寂しげな瞳を向けた。
この少年は賢い。一線を引けば、すぐにそれを理解してしまう。
その柔らかな心を傷つけたくないと、マリーンはそう感じてしまった。
「実は……男性から『愛らしい』となどと言われた経験があまりなくて」
慌てて言葉を重ねると、金色の瞳が大きく瞠られる。
「マリーン嬢には、夫がいたのだろう?」
「夫とは、そういう間柄ではなかったもので」
婚前には、甘い言葉を激しい雨のように与えられた。
けれどそれには心がまったく入っておらず、ただの張りぼてだったのだ。
そして、その張りぼてによって──マリーンは舞い上がってしまった。
「ふむ。政略結婚では、よくある話ではあるか。こんなに素敵な女性を娶っておいて言葉を惜しむなど……俺には信じられないが」
オスカーの表情はどこまでも真剣で、その口調からは彼の本気しか感じられない。
戸惑いで瞳を揺らすマリーンに、オスカーは優しい笑みを向ける。そして……。
「貴女を手放してしまった馬鹿な夫の代わりに、俺に言葉を与える役目をくれると……嬉しいな」
マリーンの顔がまた熱くなってしまう言葉を、口にしたのだった。