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「マリーン嬢」


 居間で紅茶を飲みつつオスカーの入浴が終わるのを待っていると、久しぶりに呼ばれる敬称で声をかけられ、マリーンは少しむず痒い気持ちになった。振り返るとそこには、湯船で温まり頬をピンク色に上気させたオスカーが立っている。

 使用人の誰かの衣服を貸したのだろう。白いシャツとトラウザーズはぶかぶかで、かなり捲くって着ているようだ。袖や裾から覗く手足は細く、想像よりも華奢だった。


(嵐が止んだら、誰かにオスカー様の衣服を買いに行ってもらわないと)


 マリーンがそんなことを考えていると、オスカーは小さく首を傾げる。すると頭の上の小さな耳も、ふわりと揺れた。


「オスカー様。『嬢』という年齢ではありませんので、私のことはどうぞ呼び捨ててくださいませ」

「しかしそれは……ご令嬢に対して失礼だ」


 キリリとした眉を下げて、オスカーは困った顔になる。

『出戻り』への敬称というのはなかなか難しいものだ。身分が下の相手なら『様』で呼ばれることが多い。しかし、オスカーの方が身分は上である。


「それに貴女はいくつであっても素敵なご令嬢だ。『嬢』で、なんの不便もないと思うのだが」

「……まぁ!」


 小さな紳士の気遣いに溢れたその言葉に、マリーンは目を瞠った。

 マリーンの元夫であるローランよりも、オスカーの方が何百倍も紳士らしい。


「オスカー様は、紳士ですのね」

「紳士……というわけではない。俺はまだ未熟だ。しかし粗雑な兄たちを見ていたから、気遣いは大事だと思っている」


 オスカーは大人びた表情で、少し疲れたように息を吐く。

 この齢にして、オスカーはいろいろなことを学んでいるらしい。『粗雑』と言いつつも嫌悪感のある口調ではないので、兄弟仲は悪くないのだろうが。


「ふふ、そうなのですね。ひとまず食事でもしながら、オスカー様のことをお聞かせしていただいても?」

「ああ、その。俺も……マリーン嬢のことを知りたい」


 オスカーはそう言うと、あどけない美貌に少し照れたような笑みを浮かべた。

 彼の言葉を聞いて、マリーンは深い安堵を感じた。


(そうよね。オスカー様は、私のことを知らないのよね)


 ユーレリア王国の貴族たちは、マリーンとローランの離婚の話題で持ちきりだ。

 社交にも顔を出さず、子供が四年もできなかったマリーンは、元夫が猫をかぶるのが上手かったせいで社交界での評判が悪かった。ローランは『長年子供ができない、病弱な妻を慈しむ夫』を上手く演じおおせていたのだ。

 しかし蓋を開けてみれば、妻は病弱などではなく、夫に虐待まがいのことをされていた……という実態である。

 下世話な噂が好きな人々は、この『面白い』話に一も二もなく食いついた。

『気晴らしもたまには必要よ』なんて親切の皮を被ったお茶会や舞踏会への招待はなかなか尽きず、マリーンはそれに困り果てている。


「話せることは、あまりありませんけれど」

「初対面の女性に踏み込んだことまで訊こうとは思っていない。貴女の好きなもののことや、楽しいと思うことの話が聞けると嬉しい」


 そんなことは言われるのは、本当に久しぶりだ。婚家ではマリーンのことを知ろうとする人間なんて、誰一人いなかったのだ。

 長い睫毛に囲まれた金色の瞳を細めて笑うオスカーのことが、マリーンはなんだか眩しく感じた。


「オスカー様は、本当に紳士ですわね」

「そんなことはない。俺は……貴女の前でただ格好つけたいだけの子供だ」


 照れてしまったのか、オスカーは頬を赤くして唇を少し尖らせる。そんな年相応の仕草を見て、マリーンは表情を緩めた。


「さ、食堂に参りましょう」


 そう言って手を差し出した後に、マリーンは『しまった』と思う。

『子供』だからと手を引こうとしてしまったが、オスカーは高位の貴族のご子息なのだ。不快に思うかもしれない。そう思い、手を引っ込めようとした時……。

 小さな手が、マリーンの手を握った。


「……食事が、楽しみだ」


 そして、にこりとあどけない笑顔を向けられる。


(──ああ、可愛い!)


 マリーンの母性本能は、ぎゅうぎゅうと強く刺激されてしまう。

 そして『夫の子を産まない』という選択をしなくてよかったと、心の底から感じた。

 だって子供というものは……こんなにも愛らしいのだ。

 柔らかくて温かい手を握ると、優しく握り返される。

 優しい体温を片手に感じながら、マリーンはオスカーの手を引いて食堂へと向かった。

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