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 窓ガラスを叩きつけるような風雨が吹き荒れる、夏の嵐の日。

 窓から見える湖面は海のように波立っており、それをマリーンはぼんやりと眺めていた。すると──。

 ふらり、ふらり。よろけながら歩く人影を、マリーンは遠くに目にした。それは小さく、子供のものだと思われる。この付近には、民家がまったくない。嵐に遭ったその人物が助けを求めて屋敷に向かっていることは、容易に察せられた。


「ジャクリーン、ジャクリーン!」

「どうしました、ご主人」


 滅多に大きな声を出すことがない主人の大声に目を丸くしながら、老齢のメイドが姿を現した。


「子供がこちらに向かっているようなの。屋敷に入れてあげて」

「あれま、本当ですねぇ。サンに迎えに行かせましょう。お湯の準備もしませんとね」

「お願いね、ジャクリーン」


 メイドはパタパタと部屋から出て行き、屋敷の管理をしている執事のサンに声をかけに行った。

 向かって来ているのが成人男性であれば、マリーンはこんな親切をしようとは思わなかっただろう。

 侯爵家の娘が一人で暮らしている。そんな噂を聞いた犯罪者が、嵐の被害者を装って訪ねてくることもあり得るからだ。それに……。

 ──あの夜以来、マリーンは成人男性に対して恐怖を覚えるようになった。

 日常生活に支障があるほどではないけれど、幼い頃から知っている執事のサンのように信頼できる男性以外とはできる限り関わりたいとは思えない。

 強い力で無遠慮に体を蹂躙される苦痛、その恐ろしさ。それはマリーンの心に深く刻まれている。

 サンが迎えに出たらしく、玄関扉の開く音が聞こえた。同時に嵐の吹きすさぶ恐ろしい音も響く。


(こんな中を……大丈夫かしら)


 近づいてくる小さな影を、マリーンは見守る。そしてサンが側に駆け寄り屋敷へ導くのを見て、ほっと安堵の息を吐いた。

 マリーンは部屋から出ると玄関へと向かう。するとサンと会話をしているらしい客人の声が耳に入った。


「すまない、従者とはぐれてしまってな。嵐が去るまで、滞在してもよいだろうか」

「主人に訊いてみましょう」


 マリーンが近づくと、気配に気づいた客人が視線を向ける。そして──なぜか驚いたように金色の瞳を見開いた。しかし驚いたのは、マリーンも同様だった。


(──獣人だったのね)


 少年の頭の上には、丸みを帯びた小さな獣耳が生えていた。外套に覆われて見えないが、きっと尻尾も生えているのだろう。マリーンは、獣人をこんなに近くで見たのははじめてだ。しかしその物珍しさよりも、彼の容貌に目を奪われてしまった。


(……なんて、綺麗な子なの)


 肩口まで伸びた燃えるような赤の髪に、少しつり上がった、大きな金色の瞳。そして信じられないくらいに整った、その美貌。

 元夫も美形ではあったが、比べようがないくらいに美しい少年だ。華奢な体躯を見て、年の頃は十を過ぎたくらいだろうかとマリーンは見当をつける。


「……貴女は、この屋敷の奥方だろうか。俺はオスカー・ペンバートン。ライラック王国のペンバートン公爵家の四男だ」


 少年……オスカーが告げた身分に、マリーンは目を瞠った。

 口調や立ち居振る舞いから貴族だろうとは思っていたが、想像よりも身分が高い。

 ライラック王国は、マリーンの住んでいるユーレリア王国の隣国だ。獣の特徴が体に表れた獣人たちが住まう国で、ユーレリア王国とは微妙なバランスで国交を築いている。国内には『反獣人派』という派閥もあるが、マリーンには特に差別意識のようなものはない。深窓の令嬢だった──そして結婚してからはほぼ軟禁生活だったマリーンは、それが芽生えるほど彼らのことを知らないのだ。

 マリーンが獣人について知っていることは、『番』と呼ばれる魂の伴侶を一生愛し抜くということくらいである。それも上の姉から聞いた、ぼんやりとした知識だった。

 オスカーの衣服に目を走らせる。それはかなり上等なもので、下位貴族が身につけられるものではなさそうだ。身分の詐称はなさそうだとみて、マリーンはカーテシーをした。


「はじめまして、オスカー様。私はマリーン・アンドルーズと申します。大変な災難に遭われましたね。湯を用意しますので、まずはお体を温めてください」


 オスカーの衣服は濡れて重たげになっている。早く温まらないと、風邪をひいてしまうだろう。


「ああ、わかった。親切に、ありがとう」


 オスカーははにかんだように笑う。その笑みにつられて、マリーンも口元を緩ませた。


「従者の方とはぐれたとおっしゃっていましたが……。ご連絡がつくまで当家に滞在されますか?」


 嵐が止んだとしても、こんな高貴な身分の子供一人を放り出せない。彼の国まで伝書鷹を飛ばして迎えが来るのを待つなり、従者が探しに来るのをここで待つなりした方がいいだろう。


「いいのだろうか。……アンドルーズ夫人」


『夫人』と口にした時、オスカーはひどい傷でも痛んだかのような顔をした。そのことに、マリーンは内心首を傾げる。


「独身ですので夫人は取っていただけますと。気軽にマリーンとお呼びください」

「……独身、なのか?」

「ええ」

「そうか、そうか!」


 つかつかとオスカーはマリーンに近づき、強い力で手を握る。その大きな瞳はなぜかキラキラと輝いていており、マリーンは彼の様子に動揺を覚えた。


「オスカー様。ひとまずご入浴を……」

「あ、ああ。そうだな。すまない、つい浮かれてしまって初対面のご令嬢の手を握ってしまうなんて。失礼を」


 オスカーはマリーンの手を離すと、端整な美貌に機嫌よさげな笑顔を浮かべる。


(……浮かれて? ご令嬢?)


 一回りは上だろう年増に『ご令嬢』だなんて、変わった子供だ。

 教育が行き届いている……と言えなくもないのだけれど。

 そんなことを考えながら、マリーンはサンに連れられ浴室へと向かうオスカーの小さな背中を見つめた。

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