15(オスカー視点)
──アンドルーズ侯爵家の末娘は、婚家で夫と愛人からの虐待を受けて追い出されたそうだな。
──傷心の元子爵夫人は、社交界から煙のように姿を消した。
──元子爵夫人はジョーンズ子爵を愛していたのに、なんてことなの。
──可哀想な、元子爵夫人。
マリーンの退室後。コリンが声を潜めてオスカーに語ったそれが、現在社交界でまことしやかに囁かれているマリーンに関する噂のようだった。
マリーンの離婚にまつわる子爵家の醜聞は人間の国ユーレリア王国だけでなく、獣人の国ライラック王国の社交界にまで広がっていた。オスカーがそれを知らなかったのは、まだ幼くそのような種類の噂が流れる社交の場に出ていなかったからだ。予備知識としてマリーンの噂を知らなくてよかったと、オスカーはほっと胸を撫で下ろした。
知っていたらマリーンの家名を聞いた瞬間、顔に出ていたかもしれない。そうなっていたら、きっとマリーンを傷つけただろう。だから、知らなくてよかったのだ。
(……本当にひどい話だな)
コリンから話を聞き終えたオスカーは、苦虫を噛み潰したような顔になる。そんなオスカーを宥めようとしたのか、コリンはオスカーの口にポケットから取り出した菓子を乱雑に突っ込んだ。
(こいつは昔から俺の扱いが雑だな! それに菓子で機嫌を治すほど子供だと思われているなんて……屈辱だ)
口に突っ込まれた砂糖菓子を咀嚼しながら、オスカーはコリンを睨めつける。そんなオスカーにコリンはにこりと晴れやかな笑みを向けた。
「番様のことですし、もっと正確なことを知りたいでしょう。よければ噂の裏づけを取ってきます」
そう言って、コリンはマリーンの屋敷から姿を消した。
──そして二日後。
情報収集から戻ってきたコリンはとても微妙な顔をしており、オスカーはそれを見て眉を顰めた。
少し散歩をしてくるとマリーンに言ってからコリンを伴い屋敷を出る。人の耳は獣人のものと違い、少しの距離が空けば声が届かないと聞く。それを知っていても万が一を防ぎたかったので、オスカーは無心で足を動かした。
番の過去のことを詮索しているのを知られるのが嫌だったのだが、それ以上につらいことを彼女に思い出してほしくない気持ちの方が強い。
そんなオスカーの気持ちを汲み取ってか、めずらしくコリンも静かだった。
屋敷が遠くに見える見晴らしのよい草原で、オスカーはようやく足を止める。そして、コリンの方を振り返った。
「話せ、コリン」
「わかりました。では……アンドルーズ侯爵家の末娘に起きた悲劇の詳細をお話しましょう」
コリンはそう言ってから眉を下げ、大きな狼耳と尻尾を垂らした。
「もったいぶらずに、早く話せ」
苛立ちを隠せず、オスカーはとんとんと右足の踵で地面を鳴らす。コリンはひとつ咳払いをしてから、マリーンの身に起きた悲劇の詳細を語りはじめた。
こう見えて、コリンの情報収集能力は高い。微に入り細に入ったそれは、噂によって歪んだものは一つもなく正確な情報だけなのだろうということが察せられた。それを聞くオスカーの顔は、みるみるうちに険しく恐ろしいものになっていく。
(噂も酷いものだったが、事実はもっと酷いじゃないか)
コリンが入手した噂の中には、ジョーンズ子爵家の元使用人に金を握らせて得たものもあった。
元使用人が言うには結婚生活の間マリーンは一室に軟禁されてろくな食事も与えられず、夫には一切顧みられず、悋気の強い愛人に時には暴力を振るわれていたらしい。
そして──酔った夫によって処女を奪われ、愛人の怒りを恐れた彼から家から追い出された。
その暴行の結果マリーンが孕んだことは、元夫や世間には知られていないようだ。
「マリーン嬢の元夫は……控えめに言ってクソ野郎だな。クソ野郎にお似合いの肥溜めにでも落としてやろうか」
「坊っちゃん、汚い言葉使いはいけませんよ。まぁ、全面的に同意しますけれど。しかしマリーン嬢は運がよかった」
「不幸な結婚生活を強いられ、望まぬ子供を孕まされ、どこが運がよかったと言うんだ」
オスカーは怒り顕わに言いながら、グルルと威嚇の音を漏らす。そんなオスカーの様子を目にして、コリンは慌てた様子になった。
「オスカー坊ちゃん、そんな怖い顔をしないでくださいよ! 起きた出来事はひどいことでしたけれど、末娘のマリーン嬢はご家族に溺愛をされていたので最悪な状況までにはならなかったのですよ」
「……ほう?」
コリンの言葉を聞いて、オスカーの耳は興味を表すようにぴくりと動く。コリンはオスカーの怒りが少しばかりトーンダウンしたことでほっとした様子になり、話を続けた。
「元夫が自身の都合のいい噂を撒き散らす前に、マリーン嬢の生家は手を打ったんです。だからマリーン嬢に関して今流れている噂は……ちょっと驚くくらいに彼女に同情的なものばかりなんですよね。それだけ、マリーン嬢のご家族は怒り心頭なわけだ」
「……ふむ」
生家が味方であることは、不幸中の幸いだ。マリーンの心を守る人々がいるという事実を知り、オスカーの胸は安堵で満ちる。
マリーンの心を癒やす存在は自分でありたい、という気持ちは当然あるが。
(今の俺には、それは無理だ)
彼女とは出会ったばかりだ。さらに言えば、大きな年の差があり男として欠片も意識されていない。
人は獣人と違って『番』に縛られない。それは理解していても──。
獣人同士であれば出会った瞬間互いに惹かれあい彼女が心を許せる存在になれたのにと、種族の差がもどかしくオスカーは胸を掻きむしりたくなった。




