プロローグ
──呼吸が、ちゃんとできる。
マリーンは陽の光で美しく輝く湖畔を見つめながら、大きく深呼吸をした。サファイアのような瞳からは、はらはらと涙が零れる。零れた涙は風に乗って煌めきながら舞い、湖面にふわりと落ちた。
マリーンは涙を拭くことはせず……ただ目の前の光景を眺めていた。
マリーン・アンドルーズは、離縁された元子爵夫人だ。
マリーンの実家は、歴史あるアンドルーズ侯爵家である。侯爵家との繋がりを欲しがった、顔だけは上等な元夫ローラン・ジョーンズ子爵からの……誠実に見せかけた熱烈な求愛に両親は絆され、三女のマリーンを嫁に出した。
マリーンは自己主張が強い性質の女性ではない。どちらかというと控えめで、つらい時も優しげな笑顔を浮かべて耐える傾向の性格だ。そんな男から見て『扱いやすい』マリーンだからこそ、ローランに目をつけられたのだろう。
プロポーズをされた時は、夢のような心地だった。
金髪碧眼に整った顔立ちで女の扱いに慣れたローランは、深窓の令嬢だったマリーンにとって魅力的に見えたのだ。爵位が子爵だとか、そんなことは気にならないくらいに。
マリーンは茶色の髪に榛色の瞳の、少し地味な雰囲気の女性だ。その顔立ちは整っている部類に入るものの、彼女の性格の大人しさと相まって、派手な美女である上の姉二人と比べると見劣りしてしまう。マリーンはそのことに、常に劣等感を持っていた。
(──だけど。ローラン様が選んだのは私で……愛してもらえる)
そんな予感に、マリーンは小さな胸をときめかせた。
それが、十八歳の時。
ローランとの結婚生活は、マリーンが期待したような幸せなものにはならなかった。
彼は屋敷に、本命である愛人を引き込んだのだ。
そしてマリーンは実家に助けを求めないよう監視されながら、屋敷の奥まった一室に軟禁されて過ごすこととなった。
楽しそうな──愛人とローランの笑い声を聞きながら。
「やっと……解放されたのね」
地獄のような結婚生活から解放されるまでに、四年かかった。
マリーンはもう二十二歳で、離婚歴まで増えた『訳あり』だ。侯爵家と繋がりたい者たちや、同じく『訳あり』からの複数の婚姻の申し込みがあるとは聞いているけれど、それに首を縦に振るつもりはない。マリーンはもう男という生き物と関わりたくなかったし、もう一つ……嫁げない理由があった。
──お腹にローランの子がいるのだ。
まだ薄いお腹を優しく撫でながら、マリーンは微笑む。
ローランとマリーンの結婚は白い結婚だった。悋気が強い愛人が、二人が交わることを許さなかったのだ。けれど一度だけ……情を交わしたことがある。
それは思い出したくもない、悲惨な『初夜』だった。
とある夜。寝ているところを酒に酔ったローランに襲われ、さんざんな処女喪失をしたのだ。
マリーンを抱いたことを愛人にばれることを恐れたローランは、『マリーンが不義密通をした』と言って慌てて屋敷を追い出した。
そしてマリーンは傷ついた心と体を引きずり侯爵家へと戻り……両親に今までの結婚生活のことを告白したのだ。
ローランは小心で、浅はかな男である。
だから目の前の『愛人との関係の破綻』という危機から逃れるために、マリーンを慌てて追い出した。
それは『婚家で末娘が幸せに暮らしていると思っていた侯爵家の怒りを買う』という、さらに大きな危機を招いてしまったのだ。
『マリーンがいるから』という理由で提携していた事業の撤退、貸し付けていた金の返済。それらを求められたローランのその後を……マリーンは知らないし、知りたいとも思わない。
とにかく。その不幸な一夜のせいで、マリーンは元夫の子供を身籠ってしまった。
無理やりな関係でできた子だ。妊娠を知った時、マリーンは堕胎することも考えた。しかしローランの子とはいえ、命を奪うのは忍びないと考え……産み育てるという決意を固めたのだ。
アンドルーズ侯爵家には莫大な資産があり、娘一人が戻って来たところで痛くも痒くもない。それはマリーンにとって、非常にありがたいことだった。
慎ましく、凪のように穏やかに。とにかく静かに暮らしたい。
それが今のマリーンのささやかな願いだ。
両親が用意してくれた、湖畔の側の小さな屋敷。マリーンはそちらに向かって踵を返す。
しかしマリーンの静かな生活は、ある日訪れた闖入者によってかき乱されることになる。