はい!喜んで悪役令嬢の取り巻きをさせて頂きます!ところで第一王子殿下、邪魔なのでどっか行ってください!
華々しい貴族社会でも裏側は酷く泥臭く、そして生臭いものだ。結婚相手は生まれる前から親が決め、愛は結婚してから育んで、世継ぎを生んだら育児に励む。その為にはたくさんの教養と知識と、それに基づく見識の広さが必要……と。
「ーー以上で、今日のお勉強は終わりです」
「ありがとうございました、先生」
「明日は8時からです。宿題はその時に全て提出するように」
「はい、先生」
そういった事を、入学前から子爵家の基礎教育として叩き込まれた私はーー
「……けっ」
はっきり言って内心グレていた。ていうか宿題多過ぎ。今何時だと思ってるのよ。全部終わる頃には深夜2時回るでしょ、これ。
別に恋をしたいとか、好きな人と結婚したいとか、そんなことを願ってるわけではない。ただ決められたレールの上を、お行儀よく走ることだけを周りが求め、事実そのとおりに過ごしている自分に腹が立つ。
そもそも気が早いのよ、どいつもこいつも。10歳の頃に子作りの座学をされた時は、子供ながらに家庭教師の正気を疑ったわ。まだ魚釣りと乗馬が楽しいような歳に、男の釣り方と乗り方を知った所で、どうしろってのよ。どうせ実践したら怒るくせにさ。
「これで来週から学園生活でしょ?学園でお勉強して、家庭教育もあって、両方から宿題が有って……!?無理無理無理!!」
しかし子爵令嬢である以上、表立って非行に走る訳にもいかないし……どうしたもんか。
「はあ……どこかに無いかな。ストレス発散になって、親も納得出来て、かつ卒業後も不利にならないような趣味……」
………うん、我ながら絶対に無いって分かるわ。無い物ねだりするもんじゃないわね。
「うげっ、こんな時間!?さっさと宿題済ませて寝ないと!!」
しかし、そんな私の願いを叶える魔法のアイテムとの出会いは、そう遠くない未来だった。
入学式を終えた私は、他の生徒達に混じって教室へと戻ろうとしていた。が、その時ーー
「きゃあ!!」
絹を裂くような悲鳴が、後ろからした。
「ちょっと!スカートを踏んでたわよ!靴跡が付いたじゃないの!」
「ご、ごめんなさい!!」
うわっ、滅茶苦茶気が強いなあの人……初日から目立ちまくりだ。あれじゃ友達は出来まい。
まあ、それは私も同じか。英才教育のお陰様で、愛想笑いと大人への媚びへつらいは覚えたけど、そういうのって分かる人からは透けて見えるんだよね。私自身、そういう子嫌いだし。
「では皆さん、事前に渡された番号の席に着くように」
えーっと、3番3番、と……あっ。
「全く……!朝から不愉快極まりないですわ……!」
こ、この人の隣かー!前途多難も良いところだよ……!
「あ、あのー……お邪魔しますー……」
「……」
無視……!?い、いや、ここで怯むわけにはいかない。相手の爵位が分からないときは、自分から名乗るのがベターだ。基礎教育を思い出せ、自分……!
「私、サンクール子爵家の娘で、ユリア・サンクールと申します。以後お見知り置きください」
大分ぎこちない挨拶になったけど、さっきの後だもん、仕方ないよね……。
また無視されるかと思ったが、意外にも彼女はこちらに向き直り、丁寧なカーテシーを返してくれた。
「お初にお目にかかります。私、アレクサンドリーヌ・クリザンテーム・アズナヴールと申します。こちらこそ、よろしくお願い致しますわ、ユリア・サンクールさん」
「よろしくお願いします、アレクサンドリーヌ・クリザンテーム・アズナヴール様」
うーむ、これは長い。名前が長過ぎる。噛まずに言えたのは僥倖だった。二度目は噛むかも知れないけど。
「……」
「ど、どうしました?」
やばい、なんで睨まれてるの?なんか、やばい失態を犯したか……!?
「あ……い、いえ。わたくしのフルネームを一度で覚えて頂けたのは、初めてだったものですから」
よかった、そっちか……さっきみたいに怒られたら、泣いちゃうところだったよ。
相手の顔と名前を覚えるのは、貴族社会で生き抜く上での基本だ。でも土地名やミドルネーム次第では、贅沢な名前が並び過ぎてしまうことがある。そういう時は、名前を一つずつ分解してしまえば、覚えるのはそれほど難しくない。
アレクサンドリーヌは、よくサンドラと訳される事が多く、そっちと結びつけてしまえば覚えやすい。アズナヴールは土地名で、通称アズ。そこに住まう人は、アズナヴール姓を名乗ることが多い。確か、公爵家もアズナヴールだったはずだ。
最後にクリザンテームは、花の名前だ。花言葉は確か、"高貴"。実にぴったりなミドルネームではないか。
……といったことを掻い摘んで説明してみた。
「ーーつまりこの場合、私は"アズの高貴なサンドラ様"と言った具合に覚えるんです。どうしても覚えられない時は、こっそり似顔絵を書いてメモしてます」
「まあ……ユリアさんは、知恵がございますのね」
「ユリアで良いですよ、アレクサンドリーヌ様」
「では、そうさせて頂きますわ、ユリア」
この時、私は正直ほっと胸を撫で下ろした。でもそれは、彼女の笑顔が見られたからではない。
彼女が、自身をニックネームで呼ぶことを許可しなかったからだ。つまり彼女の身分は、自動的に侯爵家ということになる。
彼女が下級貴族なら、すぐに身分を明かすはずだろうし、そもそも向こうから挨拶してきたはずだ。そして公爵家が子爵家に対し、わざわざ起立してカーテシーを取るはずがない。公爵とは、それくらい雲の上の身分なのだ。
それにしても、あれだけ嫌悪していた家庭教育が早速役立つとは、皮肉を通り越して嫌味かとすら思える。どうか子作りの知識が役に立つのは、成人してからでありますように。
「ところで、さっき大きな声を上げてましたが、何が有ったんですか?」
「スカートを踏んでいたからですわ。聞こえていたのでしょう?」
「でも靴跡が見当たりませんが……」
どこをどう見ても綺麗なドレススカートだ。手で払った様子も無かったはずだが……高度な清浄魔法でも習得しているのだろうか?
「踏んでたのは、あの子自身のスカートですわよ」
「へ?」
「自分で自分のスカートを踏んでましたの。実にだらしない。あれじゃお里が知れますわ」
え……まじ?この人、善意で注意してたってこと?あの言い方で!?いやいやいや、踏まれたことを責め立てたようにしか聞こえなかったよ!?叱り方下手すぎでしょ!
「でもこんなだから、よく煙たがられますの。あまり私の近くにいない方がよろしいですわ。周りからどう観られてるか、分かったものじゃありませんから」
それはこっちの台詞なんですが……。
ん?まてよ?…………これだ!
「あのー……」
「何かしら?そろそろ初日説明が始まりますわよ」
「もしよろしければ、アレクサンドリーヌ様の今後のご指導について、私に協力させて頂いてもよろしいですか?」
「……え?」
「私、感動しました。他人のためにそこまで叱れる人がいるだなんて」
「え、ちょ……ご指導だなんてーー」
「是非、協力させてください。なんなら子分や手下、いやいやいっそ取り巻きの一人にしてもらっても構いませんので」
「子分……!?て、手下って、何言ってるか分かってますの……!?」
ここに、あったじゃないか。ストレス発散になって、親も納得出来て、かつ卒業後も不利にならないような趣味が。
ずばり……悪役令嬢のマネージメントだ!この人と協力して、不良貴族を正し、怠けた連中を公然と叩きのめす!先生からの評価も上がるし、卒業後のアピールポイントにもなるし、何より溜め込んだストレスの発散になる!
その分、周りから嫌われるかも知れないけど、それならそれでいい。正論言われて嫌ってくるような連中とは、どうせ長続きしないだろう。
「ですから、私に関わるとーー」
「初日説明が始まるみたいですよ」
「……っ」
それに何より、この人は私が嫌う人格の対極にいる。小ざっぱりしてて、かわいいところがあって、実に良い感じだ。こういう人ほど担ぎがいがあるというもの。
ぬふふふ、やるぞやるぞー……!健全な学園生活を送ってやるぞー……!
「……変わった人ですわね」
メラメラと燃える私の横で、呆れたような溜息が漏れていた。
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子爵令嬢ユリアが悪趣味な趣味に目覚めたのと同刻。入学資格を持ちながら、父親から入学を止められた14歳の少年がいた。
この国で尤も高貴な血を引く者の一人にして、次期国王候補の実質No.1である、フェルディナン・フォン・バラデュール第一王子である。
「くそ……父上の心配性め」
当然ながら、彼としては一年目から入学したかった。勉学に遅れる心配はしていなかったが、学園生活は4年しかない。一人でも多く学友を作り、一日でも長く学生生活を楽しみたかった。
そして何よりも、父親の手で婚約者を据えられるよりも先に、純粋な恋というものをしてみたかった。本によれば、目にしたり考えたりするだけで胸が苦しくなり、その人のことばかり考えるようになるという。
無論王子である以上は、お茶会や夜会には参加しているので、歳の近い少女と出会う機会はあった。その中には、かのアレクサンドリーヌ嬢も含まれていた。しかし本で読んだような、夢中になるような気持ちを抱くには至らなかったのである。
だが父親であるバラデュール国王にも言い分があった。
『フェルディナン。お前の入学は二年目からとする。最近は魔法で悪さをする子供達が増えている。事実、学園での事故率は年々上がっているのだ。改善命令は出しているが、まだ効果は未知数だ。同学年の安全が確認されるまでは、城で勉強をしていなさい』
「過保護にも程がある……!僕は数年前から、剣術と魔法の訓練を始めているのだぞ!?安全圏から出す気が無いなら、危険から身を護るための技術なんて覚えさせるな!時間の無駄だ!」
親は、自分の子供に対して期待すればするほど、より早く、そしてより多くの知識を詰め込みたがるものである。その深過ぎる親の愛は、確実にフェルディナンの精神を歪めていった。
ひとしきりベッドの中で叫んだ後、大きなため息と共に頭に浮かんだのは、これまで会ってきた少年少女の中で、最も苛烈な少女だった。
「……サンドラも入学したんだったな。あいつ、大丈夫だろうか。トラブルを招いていなければ良いけど……」
残念ながら、その予感は的中していた。ただしその横には、トラブルに向けて率先して誘導する、まだ見ぬ悪友の存在があったのである。
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アレクサンドリーヌ様との学園生活は、実に、誠に、想像以上に充実したものとなった。
私がご指導候補を調べ上げてピックアップし、アレクサンドリーヌ様が指導する。そのコンビネーションは完璧の一言。
「アレクサンドリーヌ様。校舎の裏で、火炎魔法の特訓をしている男子生徒がいるようです。真面目な生徒たちですが、危険なので安全策を取りましょう」
「火炎魔法を練習する時は水辺でなさい!!学園で火事を起こしたら極刑ですわよ!!」
「アレクサンドリーヌ様。クレア様の食べ方がクチャラーにございます。バシッと言ってやってください」
「口を閉じて食べなさい!聞いてて不快ですわ!」
「アレクサンドリーヌ様。グリム様が婚約者様と授業中にイチャコラしております。目に毒なので、ご指摘を」
「ちょ……時と場所を弁えなさい……!ここじゃ人に見られましてよ……!?」
「アレクサンドリーヌ様。先生のヅラがズレております。ここは一つやんわりと、どうぞ」
「ぶっ……!?せ、せんせ……!その……!誠に申し上げにくいの、ですが……!」
いやもう、本当に楽しくて。目の前で正しく健全な学園に変わっていくのを見るのは、他にはない達成感と満足感があった。
「流石です、アレクサンドリーヌ様。お見事な裁定にございます。これで先生の頭部も安泰でしょう」
「いや、どれも殆ど貴方が……はあ。まあいいわ」
ストレス発散の方法を無事に見つけた私は、学業はもちろんのこと、家庭教育でも素晴らしい成績を見せつけるに至った。
その結果、家庭教育の難易度と、出される宿題の濃度が3倍に膨れ上がってしまったのだが。あの先公、いつか必ず叩きのめしてやる。
そしてストレスが溜まるほど、私達の活動は精力的になっていった。魔法による事故に至っては、開校以来初の年間0件が視野に入るほどだ。
が、そんなことを続けていれば、嫌われるのも至極当然であり。
はい、見事に囲まれました。休み時間のトイレで。
「ユリアさん。貴方、あのアレクサンドリーヌ様にくっついて、自分が偉くなったつもりになってるんじゃなくて?」
「誓って、そのようなことはーー」
頭から何かをかけられた。うわ、くっさ。ぞうきん汁か?
「どうせこれだけ薄汚れても、アレクサンドリーヌ様の御付きである貴方は、叱られないのでしょうね」
「ええ、そうですね。汚したのは私ではないですから」
「なっ……!?」
普段は身綺麗にしてるし。どっちかと言えば、汚した相手を探して奔走するんじゃないかな。
「何を偉そうに!!」
叫び声と同時に、左の頬に灼熱感が走った。爪を切ろうよ、痛いじゃないかね。
「覚えておくことね!!次はこんなものでは済みませんわよ!!」
そう言うと、何故かご令嬢達はぞろぞろと足音を立てながら、華麗に去っていった。びっくりするくらいに、あっさりと。……なんで?
あ、そうか。休み時間が終わるから、教室に戻ったのね。相変わらずこの学園の生徒は、悪ぶるくせに中途半端に真面目だ。だからこそ打てば響くし、叩きがいがあるんだけども。
「しかしやるからには徹底しないと、反撃を許すのに。馬鹿だな」
例えばこの格好で教室に戻って、家庭教師直伝の録音魔法を再生したら、どうなるでしょうね?
「…………うーん」
いや、やめておこう。流石にやり過ぎだ。
あまり公衆の面前で追い詰め過ぎても、後の報復が怖い。確かさっきの女は、ベアトリス・セレネ侯爵令嬢だったはず。もし侯爵家が娘可愛さに本気を出したら、子爵家に過ぎない我が家は敵わない。
「仕方ない、体調不良で早退しようかな」
「そう。ずいぶん元気な病人ですわね」
……しまった。今一番見られたら不味い人に見られちゃった。
「すみません、アレクサンドリーヌ様。折悪しく、急に月のものが下りまして。触れないで頂けるとありがたいのですが」
私の懇願などお構いないのか、彼女はツカツカと歩み寄ると、私の左頬に触れた。もしかして、ちょっと怒ってます……?
「……引っかかれたのかしら?」
ひえっ……滅茶苦茶怒ってます……!?
「い、いえ。平手打ちをされただけで、傷はたまたま……」
「爪の手入れが出来ていない女子生徒ね。分かったわ」
「ちょ、ちょっとお待ちを!」
「待たないわ」
「待ってくださいって!ここは私に免じて、彼女達を叱責するのは堪えて頂けませんか!?」
きっ!と鋭い目を向けてきたアレクサンドリーヌ様は、今度こそ怒っていた。
「随分とあの子たちを庇いますわね。弱みでも握られてるの?それとも今更、我が身が可愛くなったのかしら?」
確かに我が身可愛さは、あるかもしれない。集団に囲まれた時は、今までに無い恐怖を感じたのも確かだ。
「ここまできたら一蓮托生よ。平穏な学園生活は諦めて、悪役令嬢の取り巻きに徹しなさい。皆から嫌われるのは、覚悟の上だったはずよ」
別に平穏な生活なんて望んでないので問題ない。むしろ一蓮托生と言いながら、この方が盾役を買って出ていると分かるから、心底喜ばしいくらいだ。でもーー
「お断りします。これは、私の問題です」
「何ですって……!?一人で抱え込むなんて許しませんわよ!!」
「そういう意味ではありません。私が自分で立ち向かわないと、これは解決しないと言ってるんです」
今頼れば、この方はいよいよ本物の悪役令嬢になってしまうだろう。それにタイミングが良くない。
この勢いのまま学園内で断罪すれば、確かに彼女達は一時的に大人しくなるかも知れない。だが結局は、より悪辣で陰湿な方法を考えるだけだ。正直なところ、そうなってしまう方が非常に面倒くさい。
それよりは、今のうちにまとめ役の女を落として、二度とそんな気を起こさなくする方が手っ取り早い。
要するに雑魚処理までこの方にお任せするのは忍びないのだ。そんな考えを、私は簡潔にまとめあげた。
「羽虫が湧いている時は、発生源を抑えねばなりません。戦場は、学園の中だけとは限りませんので」
「……ちょっと待って。貴方、今何を考えてますの?」
「別に大したことでは。先ほど申し上げた通り、体調不良で帰るつもりです。先程仲良くなった、お友達の家に立ち寄ってから、ですが」
私に敵意を持つ貴族の屋敷は、別荘も含めて全て把握済みである。これ、すなわち貴族社会で生きる鉄則。……と、家庭教師に教わったので。
この時の私がどんな顔をしていたかは、この方にしかわからない。だがーー
「…………貴方の方が、よほど悪役ですわね。最近、ちょっと怖いですわよ」
ーーその引き攣った口元を見るに、相当悪い顔をしていたに違いない。
かくして私は体調不良で早退したのですが、帰り道で気分が悪くなった私は、とある侯爵令嬢様の家でご厄介になりました。ついでにその原因について、録音魔法も交えて涙ながらに吐露した次第。
侯爵様も、その奥方様も、涙を流しながら同情してくださいました。でも何故かその翌日から、ベアトリス様の様子がおかしく、私を見るたびにビクつくようになりました。ザマ……お気の毒様ですね。
あ、ちなみに手の爪もちゃんと短くなってました。そこは普通に、偉い偉い。褒めて遣わす。
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さて、フェルディナンの教育も、ここにきてようやく終わりを迎えた。これで学園生活一年分の知識は身についたはずである。
「さあ、約束の一年後だ。もう文句は言わせないぞ、父上」
早速早足で玉座の間に向かい、一年生の科目を全て修了した旨を直接報告した。これで入学させない理屈が出るようなら、まだ小さな弟に王位継承権を譲る覚悟すらあった。
「よくやった、フェルディナン。明日からでも入学を許可する。すぐに準備せよ」
「は?……はっ!」
だが文句などあろう筈もなかった。王子は知る由もなかったが、学園の状況はこの一年で劇的に改善されており、国王が何度も報告資料を見直してしまうほど、史上最も健全な有り様を呈していたのである。
「学生生活を存分に謳歌するといい。頑張るのだぞ」
「……?」
父親の激変ぶりに違和感を覚えつつ、フェルディナンは入学準備を始めた。彼はよほど楽しみだったのか、制服のサイズを確認する際に鼻歌を歌うほどで、メイド達も思わず笑みを零してしまうほどだ。それほどまでに、この一年の彼の表情は暗かったのである。
「殿下。お忙しい中、申し訳ありません。一つ、お耳に入れておきたいことが」
しかしそんな温かな空間に、水を指すような報告が舞い込んできた。
「おお、なんだ?」
「入学される学園に、不穏な噂が流れております。真面目な生徒たちに対して、苛烈な叱責を繰り返す女子生徒がいるとのこと」
「なに?誰だ、そのけしからん女子は」
「アレクサンドリーヌ様にございます」
一瞬誰のことか分からなかったが、苛烈な叱責という内容でピンとくるものがあった。
「サンドラか!あいつめ、学生になっても同じ事を繰り返しているのか。仕方の無いやつだ」
報告しに来た騎士は、悪役令嬢に髪の乱れを叱責された女子の父親だった。娘が零した愚痴を聞いた騎士は、今後の学園生活を憂いて、第一王子の正義感と行動に期待したのである。
尤も娘の方はと言えば、露悪的に振る舞う疑似生徒会長の断罪ショーを楽しむ側だったので、言うほど気にしてはいなかったのだが。
だがこの親心は、フェルディナンの偏見を助長させるのに十分だった。
--------
さて、私達が正義を執行しながら過ごす学園生活も、遂に二年目を迎えることに。
すっかり清潔になった学園内だが、これからは新一年生への指導が待っている。だが一学年上がってランクアップした我々に死角は無い。存分に先輩風を吹かすこととしよう。
……などと、思っていたのだが。思わぬ障害が立ちはだかった。
「本日より、フェルディナン殿下も学園に参加致します。では殿下、自己紹介をどうぞ」
「フェルディナン・フォン・バラデュールだ。今年度の生徒は、全体的にレベルが高いと聞いている。私も皆に負けないよう、学業に励むつもりだ。よろしく頼む」
我らが第一王子殿下が、万雷の拍手でもって、颯爽とご入学遊ばされたのである。ちなみにフォンは王家とか、王族に近い家のミドルネームだ。バラデュールは国名。
「第一王子殿下って、私達の一個下でしたっけ?」
「いえ、中途入学ですわ。王家が一年間この学年を観察して、安全かどうかを診断していたから、入学が遅れたのです」
そんな理由で入学を遅らせていたのか……国が考えることはスケールが大きいな。入学の一年前に各家庭を評価するだけでは駄目だったのか?
「おい、サンドラ」
ん?誰だっけ、それ。
「ごきげん麗しゅうございますわ、フェルディナン・フォン・バラデュール殿下」
「噂は僕の耳にも届いているぞ。学生になっても昔と変わらず、学園で専横を振るっていると聞いている」
あ、サンドラってアレクサンドリーヌ様のことか。ずっと名前で呼んでたから、普通に忘れてたよ。
「だがこれ以上の悪行は、第一王子として看過できん。今すぐに自らの行いを反省し、公爵令嬢として相応しい振る舞いをせよ」
「……承知しましたわ、殿下」
「よし。では先生、時間を取らせてすまなかった。授業を始めてくれ。君、席をずれたまえ」
「え?う、うわ!?」
ちょ……今、自然体でアレクサンドリーヌ様の隣を陣取りましたが、それは専横ではないのですか……?
「では教科書の48頁をーー」
うおい!先生も無視ですか!?指導しましょうよ指導!!
……いやしかし、これは困ったな。どうやら殿下は、アレクサンドリーヌ様をマークしてしまったようだ。もしこの調子で王子様が邪魔してきたら、私の唯一の趣味が成り立たない。
私が直接指導すると、不思議と相手が怯えちゃって駄目なんだよね。アレクサンドリーヌ様曰く、悪役令嬢じゃなくて唯の悪役になってしまうんだとか。やはり指導するのは、アレクサンドリーヌ様でないといけない。
……なんとかしなくては。
そう、なんとかしなくてはならないのだが……この王子様、中々手強かった。
「アレクサンドリーヌ様、新一年生が制服を着崩しております。私達もバチバチのコーディネートをしてからーー」
「それは既に生徒会へ対応を任せてある。彼らの仕事を奪わないように」
正論かよ。
「アレクサンドリーヌ様、ベアトリス様が週末に、お茶会を開くそうです。ここは一つ、貴族のお手本としてーー」
「無理だと伝えろ。サンドラ、週末の会合について打ち合わせをしたい。テラスへ行こう」
業務連絡かよ。
「アレクサンドリーヌ様、学食へ行きませんか?今日の日替わりランチはーー」
「今日は僕と先約がある。後日にしろ」
なお後日も埋まっている模様。
この通り、何を言っても返す刀で斬られてしまうのだ。しかもアレクサンドリーヌ様をガッチリガードして、返答を許さない。呆れるほどの隙の無さだ。
全てはアレクサンドリーヌ様に、悪役ムーブをさせない為なのだろう。あるいは純粋に、彼女の事が好きで独占したいのか……いや、事務的だしそっち方面は無いか。
だがそれでは私が困る。一年に及んだ取り巻きライフの結果、今の私にはお友達が居ないのだ。学生生活をボッチで終わらせない為にも、どこかでアレクサンドリーヌ様と接触しなくては。
それに悪役令嬢が大人しくなってしまったことで、学園全体の空気が緩んだ気がする。校舎裏では水魔法で遊……練習をする生徒が現れ、カップルが階段の陰でイチャコラし始め、先生のヅラが再びズレていた。このままでは暗黒時代に逆戻りしてしまう。
でも現時点では手の打ちようが無い。本当にどうしたものか……。
「あの……ユリアさん?」
「ベアトリス様?どうしましたか」
彼女から声を掛けてくるなんて、珍しいこともあるものだ。まあ私から声を掛けることも無いんだけど。
「今度、週末にお茶会を開くのだけど……アレクサンドリーヌ様を誘ってくれないかしら」
おっと、わざわざ私に頼みに来てくれたのか。直接言えばいいのに……殿下に断られるけど。
「あ……すみません。週末に殿下を交えた会合があるらしくて、無理っぽいんです」
「そう……貴方でも駄目なのね」
ん?どういう意味だ?
「私でも、とは?」
「貴方が一番、あの方に近いから。最近のアレクサンドリーヌ様をお慕いしてる人は少なくないのよ。最初は結構きつい印象だったけど、貴方に比べれば遥かに優しいことに、皆気付いたから」
どういう意味だこの野郎。まるで私が悪鬼のようではないか。
「でも、最初から仲良しだったのは貴方だけ。いつも貴方があの方を独り占めしてたけど、去年の秋頃から結構色んな人がお誘いしていたのよ」
「いやいや、独り占めしてたつもりはないですよ?マネージメントはしてましたけど」
「マネ……?何のことか分からないけど、ランチにお誘いしても貴方との約束があるからって、断られちゃってたのよ。だから休日のお茶会ならどうかなって思ったんだけど……まあ、私の場合は、自業自得かもしれないわね……」
そうだったのか……アレクサンドリーヌ様も、私との時間を楽しんでくれてたのかな。呆れてるか、怒ってる顔しか思い出せないけど。
「アレクサンドリーヌ様は、反省してる生徒のことはちゃんと見てますし、普段ならお茶会くらい参加してくれると思いますよ。単にお忙しいのでしょう。ベアトリス様の爪も、あれからずっと綺麗だって感心されてました。皆もお手本にすべきだと」
「え……!?ああ、ちゃんと、見ててくれてたのね……アレクサンドリーヌ様……!」
とにかく今の状況は良くないな。誰も幸せになっていない気がする。せめて殿下を少しでも引き離せないとなー……。
「実は私も、最近はアレクサンドリーヌ様とお話できてなくて。あの頭でっかちな殿下を、なんとか引き離す必要があるのですが、もうお手上げなんです。ベアトリス様ならどうしますか?」
「あ、貴方にわからないことが、私に分かるはず無いでしょう!?」
いや、そんなことは無いと思うんだけど。私なんてどこから見ても唯の陰キャなのに、皆から最近どんな印象を抱かれているんだ?
「……でも、そうですわね。私なら、貴方と同じ方法を試すかも知れないわ」
「同じ方法?」
「そうよ。ただ子爵家ではちょっと身分差があり過ぎて、難しいかもしれないわ。せめて公爵家の力を借りないと」
もしかして、ひっかき傷事件の時のことを言ってるのか。あの時はこの人の親に泣きついて、いじめ行為を封殺したんだっけ。懐かしいなー。
「確かに、陛下から殿下へ独り占めを指摘されれば、多少大人しくなるかも知れませんね。でも御存知の通り、私にはそんな人脈無いんですよ」
「え」
「え?」
「え……いや……まさか、貴方知らないであの方にくっついてたの?身分を笠に着たくて取り巻きやってたんじゃ……?」
「笠も何も、ベアトリス様と同じ侯爵家じゃないですか。そりゃ私の家よりは格上ですから、立ち振る舞いとかは気にしますけど」
「……嘘でしょう、本気で言ってるの!?アレクサンドリーヌ様は、公爵家のご長女よ!?いずれ王妃になるかもしれないお方なのよ!?」
………はい?
「え、でもそれなら、自己紹介の時に身分を明かすはずでしょう。明かさないと不敬になるかもしれない訳ですし」
「明かすまでも無いからでしょ!自分より上の身分がいないのだから、明かすのは無粋と思っただけ!侯爵家は全員名乗ってたじゃないの!むしろなんで貴方が気づかないのよ!?普段はあんだけ頭回るくせに!!」
「………あ」
そういえば……初日も格上は否定してなかったけど、侯爵家とも言わなかった……かも……。
「………あああああああッ!!?まじですかああああッ!?」
「このおバカッ!!くっ付き虫ッ!!ドレスに付いた毛玉ッ!!んもおおおこんなドジっ子だと最初から知っていれば、あんなことはあああああ!!」
--------
同刻、学園内のテラスにて。第一王子と悪役令嬢もとい公爵令嬢は、週末の国家間交流会の段取りについて、打ち合わせを行っていた。それは各国から成績優秀な若者が集まり、あるべき未来に向けて話し合う重要な会合であった。
だがフェルディナンには少し負い目があった。
「……すまなかったな」
「え?」
「週末のお茶会の件だ。外せない案件だったとはいえ、君の楽しみまで奪うつもりは無かった」
この苛烈な女に、これ以上の悪行を働かせない為には、傍に張り付く必要があった。だが本来なら断る必要のない誘いまで、ほかと一緒くたに蹴散らしたことについては、流石に彼でも思うところがあったのである。
思わぬ真心を見せた王子を見て、アレクサンドリーヌの心は、ほんの少しだけ軽くなった。その分だけ唇も軽くなったようで、久しぶりに笑みを浮かべる事が出来た。
「そんな……殿下が謝られることではありませんわ。ずっと前から決められていた行事ですもの、皆も分かってくれますわ」
「それなら良いんだが……」
口ではそう言いつつ、王子の心には靄が掛かったままだった。最近のサンドラは、昔よりも元気が無いように見える。それに城で報告があったような悪女には到底見えなかった。
調査も兼ねて、サンドラを連れて学園内を見回ったりもしたが、特に嫌われている様子もなかった。それどころか、道行く生徒から挨拶されたこともある。いくら公爵令嬢だからといって、一年間叱責を続けた女に対し、そんな事があり得るだろうか?
「でも、あの子と一緒に過ごせないのは、少しさみしく感じますわ。入学式から、ずっと隣にいましたから」
その疑念を拭い去ったのは、普段は見せないだろう弱々しい顔の、サンドラ自身だった。
「あの子って……あの、よく話し掛けてくるご令嬢か?名前は聞いてないが……」
「ユリアですわ。ユリア・サンクール子爵令嬢。殿下の言う通り、入学式に私はまた要らぬ雷を落としてしまいましたの。その直後だったのに、あの子は私に最初の挨拶をしてくれました。周りが怖がる中、あの子だけが近くに居てくれましたの。そしてあの子はそんな私を否定しないでくれた。あの子を通して、叱り方を教わることも出来ました」
実際はユリアのストレス発散に利用されていただけなのだが、この一年でかなり好意的な誤解が醸成されていた。ただ、その苛烈さ故に友人らしい友人がいなかったのも確かであり、下心込みでも隣に居続けたユリアの存在は、彼女の中では大きかったのである。
「そうだったのか……とても大事な友人なのだな」
「はい」
フェルディナンは短気であり、感情的に支配されやすい男子ではあったが、決して器量に劣る訳ではない。この時点で既に、城での報告の方が、やや歪んで伝わっていたのではないかと気付いていた。
だとしたら、彼女の一年間を悪行と断ずるのは早すぎたかもしれない。叱責の仕方を学んだと彼女が言うのなら、それを実際に見てからでも遅くはなかったのではないか。
それにしても、サンドラは変わった。入学前の彼女は、他人にも自分にも厳しい女だった。しかしその厳しさ故に、彼女の顔は常に険しく、目もギラついていた。それが今や見る影もないではないか。
サンドラを変えた女。ユリア・サンクール子爵令嬢……か。
「……ん?」
「どうしましたか、殿下?」
「いや、なんか今、地獄の窯の蓋が開いたような叫びが聞こえたような……」
惜しい。実際は二人の女子が、地獄に落ちるような気分を味わったことによる悲鳴であった。
「……サンドラ。この会合が終わったらーー」
君は今まで通り過ごしてくれて構わない。そう言おうとしたのだがーー
「たたた、大変です!アレクサンドリーヌ様!殿下!」
バタバタと一人の女子生徒が、挨拶もなしにテラスへ飛び込んできた。
「何事だ」
「ベアトリス様が!!」
「え!?」
--------
「ひっ!ひぃっ!ひぅっ!」
ベアトリス様が白目を剥いて、呼吸困難に陥っている。くそっ、ちょっと興奮させ過ぎたかもしれない。元々感情的な人なのに、衝撃の事実が重なって処理しきれず、重度の過呼吸に陥ったようだ。
「ベアトリスさん、大丈夫!?……え、ユリア!?」
「あれ、アレクサンドリーヌ様?」
「おい、何があった!?」
「と、殿下。すみません、お騒がせしております」
ていうか、なんなんだこの人集りは。雁首揃えて誰も助けようともしないのか、役立たず共め。
「何をしている!?すぐに医務室へ運ぶぞ!」
「少々お待ちください。まずは応急処置をしませんと、このままでは意識喪失してしまいます。そのまま舌根が落ちれば、窒息死しかねません」
「何!?」
ふうう……この前、家で習ったばかりの対処法だけど、上手くやれるだろうか。いや、やるしかないんだけどさ。
「殿下、皆さんに命じてください。担架の用意、それとここへ医師を呼ぶように。あと用意できたら飴玉も。殿下の命令なら、見物客も言う事を聞くでしょうから」
殿下を顎で使うようで申し訳ないが、ちょっとベアトリスさんの症状が重過ぎる。ひとまずここで処置するしか無い。
「ベアトリスさん、聞こえますかー?少し動きますよー」
私はベアトリスさんを床に座らせ、私の肩にもたれる形で前屈みになってもらった。痙攣が酷い……間に合うか?
「目を閉じて、私の声に集中してください。おへそを動かすようにして、ゆっくり呼吸してください。私の声に合わせて、吐いてー、吐いてー、吸ってー。吐いてー、吐いてー、吸ってー……」
……よしよし、聞こえてるみたいだ。時間は掛かりそうだけど、これなら何とかなるかもしれない。……ん?って、おい!
「殿下、ぼさっとしないッ!!担架と医師、早く用意させてッ!!」
「あっ!ああ、すまない!皆、ユリアの言う通りにしてくれ!女子は担架の用意を頼む!他の皆は手分けして、常駐の医師を探してくれ!」
「わかりましたわ!」
やれやれ、やっと散ったか……遅いんだよ行動が。これは終わった後で指導が必要だな。
「ふっ……ふーっ……ユ、リア、さん」
「喋らないで。落ち着いてからで良いですから」
「あ……りがと……ご、めん、なさ……!」
「はいはい、大丈夫ですよ。はい、吸ってー、吐いてー、吐いてー」
緊張のためだろうか。整えられた綺麗な爪が、私の手に食い込んでいた。私は逆に少し余裕が出てきたからか、今の彼女ならきっと叩かれても痛くないんだろうなと、場違いな考えが浮かんでいた。
「ふー……ふー……すぅー……」
何回か努力呼吸を繰り返していくうちに、少しずつ呼気が増えてきた。症状が落ち着いてきた今なら、後はベッドで寝てれば自然と体調も戻るだろう。
「……すごい」
見学者が一名残っていたことに気付いたのは、アレクサンドリーヌ様と女子生徒達が担架を持ってきた時だった。飴玉くらい用意してくれよ、王子さんよ。
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その日、城に帰ってきたフェルディナン王子の様子が、明らかにおかしかった。どこか茫洋としており、目はどこか遠くを見つめている。
彼が救急救命の現場を見たのは初めてのことだった。それも同じ歳の女子が、ああも手際良くこなしてしまうだなんて。
「あれは、本当に見事だった……僕なんて、命令するばかりで、足が震えて一歩も動けなかったのに」
もしかしたら、目の前で人が死ぬかもしれない。その恐怖と緊張は、まだ15歳の少年には大き過ぎた。白目を剥く生徒と、それに対処するユリアの姿を見て、フェルディナン王子の心臓は激しく動き続けていた。
「不思議だ。あんなに怖かったのに、今はあの光景を何度も思い返している。どうしてだろう……」
怖かったからこそ、人は何度も思い返すことで、次の危険から逃れようとするものである。しかし、その発想に至るには、彼はまだ若過ぎた。
この時、王子の頭に電気が走った。この胸の高鳴り、そして頭から離れないユリアの叫ぶ姿。そして耳からも離れない、優しく介抱する声。
「もしや……これが恋なのか……!?」
まさに壮大な思い込みだったが、これを彼自身が信じ込んでしまった。彼は器量こそ劣ってはいないが、短気で感情的な、思春期の男子だったのだ。
一種の吊り橋効果だったのだろう。極度の緊張状態が続く中、救急救命に勤しむユリアの姿を見続けていたために、恋と錯覚してしまったのだった。
だがそもそも恋というものが、心の病のようなものである。錯覚かどうかは、恋だと信じる本人にとってはどうでも良いことであり、周りからどう映ろうとも関係無いのだ。
その日の夜。王子の頭の中には、250%美化された聖女ユリアで埋め尽くされていた。
「ユリア・サンクール……君は今、何をしているのだ?」
当の本人は悪鬼の形相で宿題を消化し続けていたのだが、そうと知らぬ王子はベッドの中で頬を染めていた。
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「それにしても、昨日はご活躍だったわね、ユリア」
「うああ……ありがどーございます……」
数週間ぶりにアレクサンドリーヌ様とランチをご一緒出来た私だったが、喜びと同じ量の疲労で、顔面を蒼白させていた。疲労の原因は、もちろん昨晩の宿題にある。あの家庭教師、そろそろクビにして貰えないかな。一体私をどこの何にしようとしているのよ。
さて、久方ぶりの平和なランチだったが、いつもと違うこともあった。
「それは私の台詞よ。本当にありがとう、ユリア。貴方は命の恩人だわ」
「お気になさらず。成すべきを成したまでです」
まず一つは、ベアトリス様がランチをご一緒するようになったこと。これはとても喜ばしいことで、とりあえず学園をぼっち卒業するリスクはほぼ無くなったと言って良い。
だが、もう一つが問題だった。
「君は謙虚だな、ユリア君。君はベアトリス嬢を救ったのだ。もっと誇ると良い」
…………なんで王子が同席してるんです?しかも全然ご飯に手を付けてないし。
「えーっと……殿下。女子三人の席に男子一人だと、あらぬ噂が立ちますよ?お気を付けなさった方が良いかと」
「ありがとう。でも心配は要らない。僕はサンドラを見守るため、ここにいるだけだ。気にしないでくれて良い」
「ええ……」
その割にはこっちのことチラッチラ見てくるから、なんか凄く居心地悪いんですが……そんなに気に入らないなら、他所で食べるなり私を追い出すなりすればいいのに。
「……あ、そうだ。アレクサンドリーヌ様、この前ご相談しました制服の件、遂にボタンを二つ外す輩が出てきましたよ」
「なんですって?」
「新一年生の男子です。生徒会も頑張ってますが、手と目が足りてないようです。やはり我々が直接出向くしかないでしょう」
「ユリア君」
ビクッ!?
「な、なんですか?」
「僕も同行させてくれたまえ。男子が相手なら、なおのことーー」
ひっ……!?いやいやいや、絶対やだ!普通に邪魔過ぎる!!
「ご……ご遠慮します!」
遂に我慢出来なくなった私は、食べ終わった食器を先に片付けるべく、すぐに席を立った。
「アレクサンドリーヌ様!休憩時間が終わる前に片付けちゃいましょう!我々がサボってた分、学園に悪事が蔓延っておりますれば!!」
「え!?あ、ちょ、ユリア!?」
「行きましょう!おー!!」
ええい、先手必勝!!流石に残飯を残して席を立てるほど、あの王子も無作法者にはなれまい!!
ていうか、なんかあの生温い目がやだ!!僕はわかってるんだよとでも言いたげな目が!!
「ふふっ、貴方も大変ね」
「全くです!ストレスが溜まって仕方ないですよ!!」
ゾクゾクと鳥肌が立つのを無視しようとするあまり、その背後で王子とベアトリス様が、それぞれ違う温度のため息をついていることに、私は全く気付いていなかった。
「さあ、一日でも早く清潔な学園を取り戻しますよー!」
「ええ、良くってよ!」
私がストレスから完全に解放される日は、いつ来るのだろうか。漠然とした不安を抱えながら、私とアレクサンドリーヌ様は廊下を走らず、早歩きで現場へと急行するのだった。
「はあ……ユリア……」
「うっわ……あの子も色々引き寄せるわね……」