さようなら、一番星
つやつやと光るラベンダー色のランドセルは私の一目惚れだった。
年長さんの冬、お父さんがふと思い出したように「そういやおまえ、来年からランドセルいるのか」と言いだしたのを今でもはっきりと覚えている。
周りのみんながランドセルをデパートへ見に行ったとか、何色にするとか、柄がどうだとか、そんなことを話していたのにお父さんはその日その時まですっかり忘れていたのだ。
お父さんは気分屋だから、すぐに地元のショッピングセンターまで買いに行った。もう人気の色も形もなくなっていたのだと思うけれど、真ん中に飾られていた淡い紫色のランドセルを見たとき、私は春になったらあれを背負うのだと確信したのだった。
「お父さん、あれ」
私が指さすと、お父さんは「もっと派手なのにしなくていいのか。銀色とか」と言ったけれど、そのあとすぐに「おまえ地味顔だもんな」と呟いた。
今になって思えば実の親とは思えないほどの不躾さであるが、おおむね事実なので言い返す言葉がない。私はお父さんとはあまり顔が似ていなくて、一重だし、鼻もやや低いのだ。私はずっと昔に離婚したという母親似だった。
ランドセルの箱はいらないと言ったものだから、お父さんはファンシーな色のランドセルを左手で抱えながら駐車場を歩いた。後部座席に放りこんで運転席に座ると、真っ先に窓を全開にする。
お父さんが車を運転するときは、いつも右手を窓から投げ出すようにして煙草を吸うのだ。
車の中に冷たい風が吹きこんできて髪がバサバサと舞い上がる。その日も同じように煙をぷかぷかさせながら、お父さんは言った。
「おまえに新しいお母さんができるぞ」
「…………?」
「ついでに新しい妹も」
お父さんは唇をすぼめてふーっと煙を吹きだした。風に吹かれた煙は宙でばらばらになる。お父さんは少し考えてから「いや、古い妹はいなかったな」とけらけら笑った。
目の前の信号が青に変わる。私はお父さんの横顔をじっと見ながら「新しいお母さんと、新しくない妹」と心の中で繰り返した。とにもかくにも私のお父さんは適当な人だった。
ふと気が付いたとき、私はうちのリビングに立っていた。いつの間に家に──しかも栃木の実家に。おかしいなあ、私ついさっきまで車を運転していたはずなのに。
教科書とパソコンを詰めこんだ重いリュックはどこにも見当たらない。スマホもポケットに入っていない。私はゆっくりと目をこすった。棚もダイニングテーブルもやけに背が高い。
「千鶴」
名前を呼ばれて振り返った。そこにはお父さんと、歩美さん──私にとっては二人目のお母さんがいた。
ソファに座っている二人とも目元の皺が少なくてどこか若々しく見える。だったら歩美さんの足元で隠れるように立っている、小さい女の子はたぶん。
「千鶴、向こうでカナちゃんと遊んでやれよ。テレビがつまらねえんだって」
「遊ぶ?」
「おまえ、お姉ちゃんだろ」
お父さんが手を伸ばして灰皿をたぐりよせた。透き通るガラスでできたそれには、うっすらと灰が散っていた。
指先で煙草の端をトントンと叩いているお父さんを見ながら、やっぱり何かがおかしいなと気が付いた。あの灰皿はお父さんのお気に入りだったけれど、私が中学生のころ、うっかり落として割ってしまったのだから。
お父さんの隣で髪をくるくる指に巻き付けている歩美さんは、「ごめんねえ」と言った。
「ちょっとゲームするとかでいいから。この前買ってあげたソフトあるじゃない、あれ対戦モードあるでしょ。カナ好きだから、しばらく付き合ってあげて」
「あ……うん」
歩美さんはテレビの方を向いて甲高い笑い声をあげた。私は曖昧に頷いてから彼女に視線を移す。
「カナちゃん、向こうのお部屋に行こう」
カナちゃんはこくりと頷いた。真っ白な肌とくっきりとした猫目。たぶんまだ小学校にあがってすぐくらいの年齢だと思うけれど、気の強そうな雰囲気はこの頃から変わらないんだなあと妙な感慨深さがあった。
隣の子ども部屋にはベッドが二台と、ローテーブルが一つ。私は腕を伸ばしてゲーム機を取る。昔からひょろりと背が高い私は、ちょっとかかとを上げるだけで大抵のところに手が届くのだ。
ピンク色の方をカナちゃんに渡して、私は水色を両手で持つ。ぷっくりと膨らんだシールがいくつも貼られている。電源の入れ方とかソフトの遊び方とか、そういえばどうするんだったかなと思ったのに、何も考えなくたって手先が思い出だけでするすると動いた。
「カナちゃん、対戦モードにした?」
「うん」
「合言葉これね」
「うん」
「あ、違う。そこは二じゃなくて五」
「入れた」
「ステージどこがいい? カナちゃんが選んでいいよ」
「水のとこ」
音量ボタンをカチカチと押して無音にする。カナちゃんはゲーム機の画面をじっと見つめていた。釣り目なのにまん丸な瞳は、いつも何かを慎重に探っていて、世界すべての様子を伺っているみたいだ。
部屋の隅に置いてある鏡がふと目に入って、私は吸いこまれるみたいに顔を向けた。
茶髪の私と黒髪のカナちゃん。垂れ目の私とつり目のカナちゃん。背が高い私と低いカナちゃん。本当に笑ってしまうくらい、私たちは何一つ似ていない。だってこの顔には、手には、足には別々の血が流れているのだから。
それでも私はカナちゃんのことを可愛い妹だと心底思っていた。カナちゃんがどう思っていたって、私は、私だけは。
アップルジュースはカナちゃんへ。クッキーが一枚余ればカナちゃんへ。ケーキがあれば苺の大きい方をカナちゃんへ。
それは思いやりと言うより、私がそうせずにはいられなかっただけなのだと思う。
当然のように受け取るカナちゃんを見るたびに、私の奥底にある何かが満たされていくような感覚がしてほっとした。姉という役割は私の欠けた部分にぴったりとあてはまったのだ。
それでも一度だけカナちゃんに譲らなかったことがある。
クリスマスケーキの上にはサンタさんの砂糖菓子が一つだけあって、その日はどうしてだか欲しくて欲しくてたまらなかったのだ。理由も分からないまま私は砂糖菓子が乗っている方のケーキに手を伸ばした。
するとカナちゃんがぱっと私の方を見て固まったのだ。想像もしていなかった、というような顔をして。
カナちゃんは何も言わなかったけれど、それくらい当たり前の日々だったのだろう。
すごく大人しいけれど、女の子らしくてお人形さんみたいに可愛い子。それが私にとってのカナちゃんだった。でも本当のカナちゃんは少し違っているのだと気が付いたのは、私が小学校を卒業する前くらいだった。
私たちは二つ違いで、もちろん同じ小学校に通っている。でも家を出るのはきまってカナちゃんが先だ。そんなカナちゃんが体操服を忘れていったことに気付いたのは歩美さんだった。
「ねーえ、千鶴ちゃん」
「はーい」
玄関から顔を出した歩美さんは前髪をクリップでとめている。化粧の途中だったらしい。
「カナに体操服届けてくれない? あの子、そのまま玄関に置いていったのよ」
「わかった。朝の会が始まる前に寄るね」
「まったく、あの子は四年生になってもどんくさいんだから。千鶴ちゃんみたいにしっかりしていたらよかったのに」
ぶつぶつと言いながら洗面台に戻っていく。歩美さんは去年から昼間に仕事をするようになったから、私たちと同じ時間に起きるのだ。
ちなみにお父さんが起きる時間はバラバラで、まだ日ものぼっていないような薄暗い朝方にベランダで煙草を吸っているかと思えば、午後になってようやくベッドから起き上がってきたりもする。
そして気まぐれで朝ごはんを作ってくれる日があって、お父さんのフレンチトーストは誰が作るよりも甘くてふわふわだ。お父さんは「甘ったるくて食えたもんじゃない」と文句を言うくせに。
六年生と四年生の教室はすごく離れている。自分以外の教室に入るときは必ずノックをして、近くにいる子に「入ってもいいですか」と訊くのがルールだ。もちろん妹であるカナちゃんの教室でも。
全開になっている扉をわざわざ叩いて、すみませーん、と小声で呼びかける。でも声が小さすぎたのか誰も振り返ってはくれなかった。四年生の教室にはぎゃーと叫ぶような声や、上履きで床を叩く音が響き渡っていた。
「カ、カナちゃーん……」
教室の端っこで女子が三人固まっている。もう十一月なのにミニスカートにくるぶしまでの靴下。膝がうっすらと赤くなっていて、寒くはないのだろうか。
「えー、じゃあ三人兄弟なんだ、すごいね。うち一人っ子だから兄弟がほしいんだあ」
「別にすごくないよ。弟なんて毎日部屋を走り回って、ぎゃあぎゃあうるさいだけだよ。どうせならお姉ちゃんがほしかったな」
「そういえばカナちゃんはお姉さんがいるんでしょ、六年生に」
「え、初めて聞いた。何組?」
「三組だよ。前にカナちゃんが風邪でお休みしたとき、連絡帳持ってきたのを見たよ。カナちゃんとは全然似てなかったけど」
「同じ学校にお姉ちゃんいるのってうらやましいなあ」
あの二人はよくカナちゃんと一緒に下校している女の子たちで、たぶん仲良しの友達なのだと思う。たぶん、というのは私もよく知らないからだ。カナちゃんはうちに友達を呼ぶことはほとんどなかったから。いつもお菓子を持って遊びに行くばかりだった。
黙って聞いているだけのカナちゃんは小首を傾げた。片足で壁を小さく蹴る。眉を下げて「そんなのじゃないって」と短く笑った。
「姉なんて思ってないよ。だってダサいし。お風呂あがってもドライヤーしないんだよ?」
カナちゃんは肩までの黒髪をさらりと撫でてから耳にかける。それは歩美さんがおしゃべりをしているときによくする仕草で、親子は癖まで似るらしかった。
今さらになって私に気が付いた男の子が「吉永さーん、体操着届けに来たって」と大きく声を張り上げた。ガヤガヤとした教室にその声がやけに響いた気がして、私はびくっと肩を揺らす。
カナちゃんは反射的にこちらを振り返った。薄く開いた唇が一瞬動いて、けれど半開きのまま固まっている。確かに視線は合っていたはずなのに、やがて静かに俯いてしまった。
困ったなあ、と私はゆっくりと瞬きをした。大変困ってしまった。
さすがにここで「お姉ちゃんですよ」なんて名乗り出られるほど面の皮は厚くないが、かといって「実は血がつながっていないんです。連れ子同士なので」と弁明しながら近づいていくのもおかしな話である。
それでもカナちゃんが友達に冷たいなんて言われるのはもっと悲しいと思ったから、私はへらりと笑って「預かってきただけだよ。ここに置いておくね」と近くの机に乗せてそのまま立ち去ることにした。
土曜日の朝、ぱちっと目が覚めてしまったので目覚まし時計を手繰り寄せる。部屋の中はまだ真っ暗で、蛍光の針がぼんやりと五時五十分を示していた。
いくら身体を丸めても眠気がやってこなかったので、諦めてリビングへ行く。すると常夜灯だけがついていて、オレンジ色の光が家具の輪郭をうっすらと照らし出していた。
「お父さん、起きていたの」
ベランダの窓が大きく開いていて、薄いカーテンがひらひらとなびいた。右手には煙草、左手にはコーヒーの入ったマグカップを持っているお父さんは「子どもはまだ寝ている時間だろ」とぼやいた。
「健康的な子どもならもう起きる時間だよ」
「今、何時だ」
「たぶん六時くらい」
「ふーん、じゃあ健康的で立派だな。俺もおまえも」
「煙草は肺ガンのリスクを高めるんだよ」
私はソファにかけてある上着に腕を通す。お父さんは寒くないのだろうか、マグカップからあがる湯気はあんなに白いのに。カップに口をつけたお父さんはそのまま手を止めて、それから思い出したように私を見た。
「コーヒー……いやココア入れてこいよ。棚に缶がある」
「でもあれ、歩美さんのだよ」
「歩美の物は俺の物だ」
「そんなことはないよ」
「じゃあ歩美は俺のもんだ」
「それはそうかもしれないけれど」
粉が何グラムか減っていただけでバレるかよ、と呆れたように言うお父さんは相変わらずだ。私はポメラニアンの描かれた自分用のマグカップに粉とお湯を注いで、ベランダのすぐそばで三角座りをした。両手で包むようにして持つと指先がじわじわと熱を帯びる。
リビングはしんと静まり返っていた。テレビの音も、食器をカシャンと鳴らす音も、スリッパが床を滑る音も聞こえない。私はぽつりと呟くみたいに言った。
「ねえ、お父さん」
「なんだよ」
「私ってダサいのかな」
お父さんは盛大にむせた。煙が変なところに入ったのか、顔を背けながらげふんげふんと激しく咳をしている。マグカップが大きく揺れて黒い水滴がぱたぱたと落ちた。灰色のスウェットにしみができる。
珍しく肩を上下させているお父さんは口元を隠したが、目元を見れば笑っているのが丸わかりだ。若干震えた声で訊いてくる。
「誰に言われたんだよ」
「それは……内緒」
「なるほど、カナちゃんか」
ち、違うもん、と私が身を乗り出したのにも構わずお父さんは深く頷いた。一昨日からカナちゃんに話しかけられずにいることもバレているようだ。
「俺はまどろっこしいことが嫌いなんだよ、昔から。だから結論から言ってやるが、おまえはダサい。それも致命的にダサい」
「えっ」
「おまえここに干してある自分の服見てみろよ。なんでボーダーTにストライプのシャツなんだよ。線が交差しちゃってるだろうが」
洗濯物を指さしたお父さんがまくしたてるので、私は「嘘だ」と首をぶんぶんと振った。
「柄がある方が可愛いくておしゃれだよ!」
「おしゃれは掛け算じゃなくて引き算だろ」
私は衝撃のあまりココアを床にぶちまけてしまいそうになった。私の人生トップ三に入るくらいの驚きだった。ちなみに現在の一位は肘が顎につかないことである。
「じゃあなんで今まで言ってくれなかったの。お父さんが教えてくれればよかったのに」
「おまえがダサかろうが俺には一ミリも関係がない」
お父さんは真正面から堂々と言い切った。
ちなみにこれは娘ならどんな格好でも可愛いという意味ではなく、言葉通り、私の見た目はお父さんの人生に何の影響も及ぼさないということである。あまりにも直球すぎる。
お父さんはベランダ用のサンダルを足先に引っ掛けたままぶらりと動かした。
「それで、カナちゃんと喧嘩でもしたのか」
「そんなことはないよ。でも」
「でも?」
「……カナちゃんは私のこと、お姉ちゃんだとは思っていないんだって」
へー、とお父さんが呟いた。こういうときお父さんは慰めてくれるタイプではない。
「別になんだっていいんじゃねえの。日本には、姉妹は仲良くしなくちゃいけないっていう法律はない」
「それでも私カナちゃんのことが好きだから」
「変わってるな、おまえ」
もう湯気が上がらなくなってしまったココアを見下ろした。私はなんとなく知っているのだ。この会話がここでぷつんと途切れて終わってしまうことを。
私が何も言い返せなくて、お父さんもそれ以上何も言わなくて、煙草を吸い終わったら寝室へ戻っていくのだ。
だというのにお父さんは「しんどくねえの?」と続けた。
「え?」
「自分のことを嫌いだって言う奴を好きでいることほど、不毛なもんはないだろ」
私はゆっくりと顔をあげる。どうして会話が続いているのだろう──私はこの先なんて知らないのに。お父さんは火のついていない煙草を指に挟んだまま、三角座りをしている私を静かな目で見下ろしていた。
「俺は俺を好きだって言う奴のことしか好きじゃない」
「大人げないよ」
「大人だからだよ」
なに、それ。
やっと絞り出した声もあっさりと上書きされる。目を伏せて笑うお父さんは、壁に背をつけてもたれかかった。
「遠くないうちにわかる、千鶴も」
そんなことない、と私は言った。
「そんなことないよ。私は大人になっても、何歳になっても、カナちゃんのこと好きでいるよ。だって」
だって二十歳になっても私はカナちゃんのことが好きなままだ。ずっとずっと好きだ。
あの子にお願いされたらなんだってしてあげたいと思う。たとえどれだけ酷いことを言われたって、カナちゃんが私を嫌いだって、私はカナちゃんを嫌いになれるはずがない。
言葉に詰まってしまった私を見てお父さんは鼻で笑った。サンダルを脱いでリビングに上がる。私のそばを通り過ぎるときにぽんと頭に手を置いて、それから大きく動かした。手に髪が巻きこまれてぐしゃりと乱れる。
「だったらおまえの好きにしろ」
後悔するなよ、という低い声はどこか穏やかだ。
お父さんに頭を撫でられたのなんて久しぶりだったから、私は目を細めた。お父さんの手はすごく温くて大きいのだ。「もうちょっと」と呟いたら、お父さんはあと数回だけおまけしてくれた。
高校生になったカナちゃんはますます可愛らしくなったと思う。そのころには私たちの関係はつかず離れずという感じになっていて、あの子は私を「お姉ちゃん」と呼んでいた。
もともと呼び方が安定しなくて、お姉ちゃんのときもあれば、千鶴ちゃんとか、千鶴さんとか、そもそも呼ばないとか、いろいろな経緯があって最終的にそこへたどり着いたのだ。
そしてカナちゃんからのお願いごともずいぶん増えた。たぶんお互いにスマホを買い与えられたからだろう。
化粧水がなくなったから買っておいてと言われたらドラッグストアへ寄り、夜に友達とカラオケに行くから適当にごまかしておいてと言われたら、歩美さんへの言い訳を必死に考えた。しょうがないなあ、なんて思いながら。
だってしょうがないのである。カナちゃんにお願いされたら私はとても断れない。
そんな私がどうして実家を出て、都内の大学に進学したかといえば、それもまたカナちゃんがきっかけだった。一言で表すならものすごく気まずくなってしまったのである。
「お姉ちゃんはなんとも思わないんだ?」
あのときカナちゃんは吐き捨てるみたいにそう言った。侮蔑、は言い過ぎかもしれないけれど、心底呆れたような顔で。
最初で最後の家族旅行は伊豆だった。
海岸沿いのホテルで一泊するだけの短い旅行だ。お父さんが知り合いからもらってきたというホテル宿泊券がちょうど四枚だったのだ。
思えばそのときからカナちゃんは不服そうな顔をしていた。テニスの県大会が近いのに部活を休まなければいけなかったから。
海沿いを散歩してくるから、と言って出ていったカナちゃんは夕食の時間になっても戻ってこなかった。「私見てくるね。お父さんと歩美さんは先に食べに行くといいよ」と送り出す。
スマホには一件の通知がきていて、「晩御飯はいらない。適当に言っておいて」と淡泊な連絡があったのだ。
ホテル裏から繋がっている海沿いの道を小走りで駆け抜ける。石を積み上げて作られた低い塀に腰かけているカナちゃんは一人きりでスマホをいじっていた。
日が沈みかけていて、あたりはくっきりとしたオレンジ色に照らされていた。目が眩むほどに光るそれは、自分の終わりが近いことを悟っているかのようだった。
「カナちゃん。ねえ、カナちゃんってば」
「……何」
一瞬だけ顔をあげた彼女が小さな声で返した。「何じゃないよ」と私は駆け寄った。
「晩御飯、どうするの。もしかして体調悪い? お薬なら持ってきてるよ。カナちゃんがいつも飲んでいる頭痛薬もあるし」
「別に、そんなのじゃないから」
「ならどうして。お父さんも歩美さんも待っているのに。せっかくみんなで旅行に来たんだから、カナちゃんも一緒に食べに行こうよ」
「みんなで?」
カナちゃんはフリック入力する手を止める。そしてうつむいたまま乾いた声で笑った。
「家族ごっこなら勝手にやってればいいじゃん」
今になって顔をあげた彼女は私の表情を覗きこむみたいに首を傾げた。真っ黒なボブヘアがさらりと風に流れる。
そんな言い方ってないじゃない、と私は思った。思ったけれどそのまま口に出すには強すぎる言葉のような気がして、呼吸とともにゆっくりと嚥下していく。
「ごっこなんて思ってないよ、私は」
カナちゃんは「ふーん、そうなんだ」と冷ややかな視線を投げかけてくる
「母親が新しくなっても平然としていられるなんて、お姉ちゃんってすごく変わってる」
私は口ごもりながら「歩美さんはいい人だよ。私にも優しくしてくれるし、お弁当だって毎朝持たせてくれるし」と言う。けれど今のカナちゃんには火に油でしかなかった。
「私のお父さんは煙草なんて吸わない」
カナちゃんがひとり言のように零した。思わず私が聞き返すと、鋭く睨みつけてくる。
「昼まで寝ていたりしない。競馬中継を見ない。思いつきで行動したりしない。忘れっぽくない。他人を振り回したりしない!」
私のお父さんは、と一瞬言葉を切ったカナちゃんは確かに私の顔を見ていた。
「私のお父さんは優しくて真面目で、ちゃんとした人だったの。死んじゃう日までずっと。あんなろくでもない大人じゃなかった」
カナちゃんが言い終わるよりも早く、顔のあたりにカッと熱が集まるのが自分でもわかった。目の奥とか耳のあたりが熱くなって、全身がぶるっと震えて、私は息を吸いこんだままに吐き出した。
「お父さんのことを悪く言わないでよ!」
私は何を言われたっていい。でもそれはカナちゃんの言葉だとしても許せない。たとえカナちゃんの方が正しかったのだとしても。
道の向こうまで響くような声が出て心底驚いた。けれどカナちゃんはもっと驚いていて、わずかに背をのけぞらせたまましばらく黙りこくってしまっていた。それから早足で歩きだす。私にくるりと背を向けて。
待って、という声は上ずってかすれた。
私は覚えている。あの日あの時、私は動けなかったのだ。代わりに少し泣いたと思う。悔しさとか悲しさとかが上手く言葉にならなくて、私たちはしくしくと泣くだけだった。
結局カナちゃんは夜になるまで戻ってこなくて、その日以来、私たちは今まで通りではいられなくなった。
怖くなったのだ。いつか取り返しがつかないくらい、あの子を傷つけてしまう瞬間が来るかもしれないこと、それがほかでもない私かもしれないということ、その全部が。
私は眉を下げて少しだけ笑った。
これが私の未練だったんだ、と気付いてしまったから。
だって、ねえ、もうとっくに気が付いているでしょう? これが私にとって都合のいい走馬灯だってことくらい。
なんとなく、私の時間は残り少ないと悟っていた。クライマックスのあとにはエピローグしか待っていないのだ。とても名残惜しいことだけど。
私はこの夢幻のなかではとても自由だった。私は右足をゆっくりと持ち上げる。ビーチサンダルが砂の上を滑る。走り出して彼女の背中を追いかけた。白くて華奢な手首を掴んで衝動的に強く引き寄せる。
彼女が振り返った。まん丸な瞳がうっすらときらめいている。傷つけられたのは自分だとでも言いたげな被害者面で。そんなはずがないのに。
だから私はきちんと言わなくてはいけないのだ。ほら、震える喉で息を吸って。
「いい加減、私に甘えるのはやめにして」
風が凪ぐ。海のにおいがする。
「あなたの言うこと、あなたのすること、全部は許してあげられないの。だってそうでしょう。私たちは他人なんだから」
離してよ、とカナちゃんが言った。言ったけれどその声は少し震えていて、手を振り払おうとする力はひどく弱々しい。彼女は自分の足元ばかりを見つめていた。そこからは二人、沈黙の平行線だった。
道の向こうまで伸びた影がうっすらと薄くなっていく。
私は不意に顔を背けて海を見やった。「ほら見て、もうすぐ日が沈んじゃうよ。キラキラしていて綺麗だね」と言えばカナちゃんはようやく口を開いた。
「……そうよ、私たち最初から最後まで他人だった。しつこく付きまとってきたのはそっちじゃない」
「迷惑だった?」
「迷惑だった」
「どうして」
「勝手に踏み込んできて、勝手に優しくして、なのに見返りなんていりませんみたいな顔でへらへら笑って。何がしたいのか分からない。いつも気味が悪くて仕方がなかった」
「ごめんね、あなたに優しくしたいって思っちゃったから」
「どうせ誰でもよかったんでしょ。たまたま妹になったのが私だっただけで、他の誰でも良かったんだ。それじゃただの自己満足じゃない」
私は小さく笑って「違うよ」と呟いた。
面倒くさい子だな、と思った。この子は昔からひどく面倒くさくて、手のかかる女の子だったのだ。それを愛しちゃったのは私だけれど。
彼女の手首から手を離して、一歩下がる。思えばずいぶんと大きくなったね。出会ったときのあなたはあんなに背が低くて、私がしゃがまなければ視線も合わなかったのに。
「小さいあなたがすごく不安そうな顔で私を見ていたの。それなのに私の服の裾を掴んだまま離さなかったでしょう。だから私、あなたのために何か──何でもしてあげたかった」
私があなたにしてあげられる最後のことがこれだったというのなら、私は一つも後悔していない。後悔していないよ、ねえお父さん。
それから私たちは海沿いの道を並んで歩いた。水平線の向こうに沈んでいく太陽を眺めながら。群青色がにじんでいく空で一番星のきらめきだけが増していく。
ざぱん、と波打つ音が繰り返された。たっぷりの水が押し寄せては引いていく。
私は立ち止まって遠くに止まっているバスを指さした。カナちゃんはあれに乗らなくちゃいけないのだ。一緒に立ち止まろうとする彼女の背を強く押して突き放した。
「私たちここでさよならしましょう」
カナちゃんが目を見開いて、首を横に振る。
「なんで。一緒に行けばいいじゃん」
「カナちゃんは私がいなくたってもうどこへだって行けるでしょう。大丈夫、だってあなたはもう十七歳になったんだから」
もう一度カナちゃんの背を押した。あなたはいつまでもここに居ちゃいけない。
「あなたの言うこと、あなたのすること、全部は許してあげられないけれど、それでもいつまでだってあなたのことが大好きだよ」
これだけ言えたなら私はもう充分だ。不思議なくらいに心が穏やかで、この先を想像したって怖いとは少しも思わなかった。
カナちゃんは駄々をこねるみたいにかぶりを振る。小さいときみたいに黙ったままぐすぐすと泣いていた彼女は、私の目を見てどうにもならないことを悟ったのか、やがてゆっくりと歩き出した。
その背がだんだんと遠ざかっていくのを見ながら、私はずっと、ずっとずっと、手を振っていた。
さようなら、どうかお元気で。あなたがいつまでも幸せでありますように。そんな祈りをこめながら。
遠くでサイレンの音が響き渡っていた。焦げ臭いにおいと、じくじく痛む額の傷。ひしゃげた車のそばで、寝そべったまま動かないお姉ちゃんの肩を小さく揺さぶっていた。
ねえ早く起きてよ、みんなに見られてるじゃん。それに雪の上じゃ冷たいよ。
「お姉ちゃんってば」
柔らかな目元はいつもみたいに私を見つめていた。その視線が好きだったって、まだ私、言えていないのに。




