最後の計画
夜明け前の世界は、音を飲み込んだように静かだった。だがその静寂は、鳴り止まぬ警報と通知音で一瞬にして塗り替えられる。
インターポール本部の巨大モニタに映るのは、白布越しの影と、歪んだ短い宣告――「一時間後、世界の顔が変わる」。通報は世界中に同時配信され、各国の司令室は瞬時に非常灯で赤く染まった。
モーガンはいつもの仮想の冷徹さを取り戻し、短く命令を出す。
「人命最優先。各国連携。SOはフランス統括のまま、我々は情報の真偽と優先順位を絞る。京野、君は日本の統合指揮を取れ。沙雪さん、イーサン、蓮はパリへ向けて動け。余計な動きは許さん」
だが、その口ぶりの端々に、硬い影が差している。河上が公に“亡くなった”と報じられてから、SOの現場は確実に変わっていた。かつて河上がそこに立っていたことで生まれた沈着と指示の力は、今は誰もが補い合っている——それでも、穴は見える。
沙雪さんはその穴を真っ先に埋めねばならない司令塔となった。表情は冷たく、だが声は確かだった。
「まずは人の密度と撤退困難度で優先順位を決める。メディアは中継を止めさせ、会場周辺は速やかに封鎖。民放各社には即時コンタクト。パリ、ロンドン、東京、ニューヨーク、ローマ、ドバイ……優先は“密集する象徴的地点”だ。イーサン、君は複数地点の機動隊と連携して救護隊を分散させて。蓮、君は断片データのスコアリングと“光の反射”パターンの突合を続けてくれ」
イーサンは穏やかな笑みを返しながらも、瞳の奥は戦場の覇者そのものだ。
「了解だ。動きは速い。封鎖ラインを四重にする。撤退誘導は目に見える標識と地上員で丁寧にやる。無闇な中断は二次災害を生む」
蓮は端末の前で数秒、固まる。指が画面を走り、同時に断片となった監視カメラ映像群を解析していく。彼の画面には、微かな“鏡面反射”のパターンだけが浮かび上がる。どれも数秒—ごく短い瞬間に見える光だ。狼奈の“ヒント”は、そこに刻まれていた。
世界は即時に反応した。ロンドンは川沿いのライトアップを切り、観光通りはシャッターを下ろした。ニューヨークは地下鉄の一部路線を停止し、横断歩道の信号を手動へ切り替える。東京は公共放送を通じて「落ち着いて避難」を何度も流す。どの国も“目立つ顔”を守るために動いたが、同時に混乱のノイズも生まれる。誤通報、パニックの拡散、いたずらの通報——蓮はそれらを冷たいフィルタで濾していく。
Tマイナス三十分。
沙雪さんはパリ現地の統括テントで若い警官に指示を出す。動線、避難経路の再確認、メディアの隔離、監視カメラの被写界深度調整。すべては「人を一箇所に留めない」ための作業だ。イーサンは都市の背骨を流れる脈を読み、救護班と封鎖の折り合いをつけて回る。蓮は、断片的に拾った反射パターンを優先度で並べ替え、SOの地図上にマーキングしていった。
Tマイナス十五分。
蓮が声を上げる。
「見つけた――。共通点は“強い光の反射”……でもここに集中している。ノートルダム周辺、旧市街の一帯。人の密集度も高い」
沙雪さんは即座に決断する。
「よし、ノートルダムを最優先。封鎖線を内側から二重に組め。観衆は順序立てて遠ざける。メディアは放送を遮断。ここに人が残っている時間はない」
命令は刃のように鋭く、だが無駄な小細工はない。SOは既に別働隊を世界中へ送り出していた——小規模の拘束隊、救護チーム、情報コントロール班。モーガンの一隅では、いくつかの内密な回線が開かれ、河上の“死”を利用した更なる工作の検証が進められている。だが現場にいる者には、そこは関係ない。目の前の人々を守るだけだ。
Tマイナス五分。
会場周辺のアナウンスは冷静そのものだった。群衆は指示に従い、スタッフは統制を保とうと懸命だ。世界中の中継は途切れ、各地のスタジオではアナウンサーが落ち着いて事態を説明している——しかし画面の奥行きでは、見えない恐怖と怒りが渦巻いている。狼奈の映像がもたらした精神的ショックは、瞬く間に世界の神経を逆撫でしていた。
そして、Tマイナス一分。
沙雪さんは無線で一声だけ言った。
「全員、最優先は人命。何があっても順序を守れ。小さな混乱を封じれば、被害は最小で済む」
世界は息を詰めた。
カウントダウンがゼロに近づくほどに、心の奥の緊張は高まる。だが、同時にあらゆる場所で“秩序を守る指揮”が発揮されていた。河上という不在の巨大な影は、誰にも見えないまま、彼が築いた基準として残り続けていた。人々はそれぞれの立ち位置で、彼の遺したやり方をなぞるように振る舞っていた。
Tゼロ。
世界の時計がいっせいに、振り切れたように動いた。
パリの空気が一瞬、凍る。ノートルダム近辺のスタッフ達が最後の指示を確認し、観衆は誘導路へと静かに流される。ロンドン、ニューヨーク、東京、ドバイ……それぞれの現場で人の波が秩序を保ちつつ動く様子がモニターに映る。画面の向こうの誰もが同じ一つの問いを胸に抱えていた──「本当に大丈夫なのか」。
蓮の端末が低いアラートを鳴らした。数千の画像から抽出した“鏡面反射”のパターンが、ある一つの共通項を示している。短く、明滅した“光”。それは単なる物理現象ではなかった。蓮は画面のラインを即座にハイライトし、SOの地図上で点を結ぶ。
「ここだ。分布はここに集中してる。ノートルダム周辺と、旧市街、そして北側の運河沿い。複数のポイントがクロスする交差点だ」
彼の声は震えていない。ただ、若い指先が早い。
沙雪さんは地図に視線を落とし、短く言った。
「優先は“密集と脱出困難度”。ノートルダムを最優先。イーサン、君は二つ目のホットポイントを抑えてくれ。京野、各地の司令には“最小限のパニックで秩序を保つ”旨、強く徹底するように」
イーサンは手早く笑って答えた。
「了解。封鎖と救護班を分けて走らせる。市街地の人流は僕らで管理する。蓮、君はそのデータを逐次更新してくれ。君の“目”が今夜の基準だ」
——蓮は頭を下げる。少年の肩には、世界の目が少しずつ乗っていた。
各地で決断が下され、実行される。中継画面は黒くなり、放送は一時的に沈黙する。それは狼奈の望むような“劇場”を奪う有効打だった。人の群れは整理され、出口ごとに誘導員が立つ。驚くほど冷静に動く民衆もいれば、涙をこらえきれずに子どもの手をしっかり握る父親もいる。彼らを守るために、世界中の警察・救急が同時に動いた。
Tプラス数分。
パリの裏通りで、若い警官がためらいなく小さなグループを手早く導く。ロンドンのテムズ沿いでは、老人を抱えて階段を降りるボランティアの姿があった。ニューヨークの路地では、ビルの管理者が避難ロープを手渡す。すべてが「人を出す」ことに向かっていた。
だが、試練は一瞬たりとも途切れない。偽の通報が紛れ込み、救助が錯綜しかける場面がある。あるモニター映像は、一見すると爆発の前兆に見えたが、蓮がよく観ると“反射の角度”が物語る別の真相であることを示した。彼はデータを即座に更新し、別行動を指示する。小さな判断が数十人、数百人の命を左右する──その重みが蓮の背筋を冷たくする。
Tプラス十数分。
世界各地で「ゼロ」はやり過ごされた。最も危険とされた地点は無事に人が遠ざけられ、混乱は最小限に抑えられた。だが、蓮は新たなパターンを見つける。先ほどの“合図”の中に、短いデータの断片――暗号化された小さなファイルが埋め込まれているのを検出したのだ。差出人は不明。だが中身は、サマエルの通信網の一部を示す痕跡だった。
「来た。小さなパケットが、最後の信号を吐いた。場所は——旧地下鉄線の跡地。複数の匿名IPがそこで集約されてる」
蓮の声は震えた。彼が指差す地図の一点に、SOの全員の視線が集中した。
沙雪さんは即座に判断する。
「封鎖、突入、同時逮捕。だが行動はSOP(標準作戦手順)通り。人質や巻き添えがないかを最優先に調査しろ」
モーガンの遠隔指示が入る。国際協力で抑止線が敷かれ、まずは現地の民間人を安全地帯へ移す。フランス内務省、パリ警視庁はSOとタイムラインを共有し、実動部隊が地下跡地へ急行する。イーサンは自ら率いる介入隊の先頭に立ち、沙雪さんは衛星回線経由で作戦を可視化する。蓮は解析室でコマンドを叩き、逃走経路の封鎖を数分単位で更新した。
地下への突入は息をのむ緊張だった。暗いトンネル、古いレンガ、そして鉄の匂い。照明が走り、闇の中に黒いコートの集団が浮かぶ。彼らはただ座している者、地図を囲む者、互いに声を交わす者。幹部たちだ──長年の影で動いてきた顔ぶれが、今、目の前にいる。
突入の合図は静かだった。閃光弾が空間を切り裂き、扉が開いた瞬間、SOの介入部隊が押し入る。短いが激しい混戦が生じる。銃声は低く、だが的確だった。イーサンの動きは流れるようで、幹部の一人が大の字になって床に倒れると、別の二人がすぐに手錠をかけられた。沙雪さんは冷静に司令を出し、蓮は無線で逮捕状と拘束の手順を叫ぶ。
「止まれ! あなた方は逮捕する!」
「誰が……狼奈の仮面はどこだ!」幹部の一人が叫ぶが、声はすぐに制圧された。
数分後、現場は制圧された。幹部たちは縛られ、机の上には大量の通信記録と、先ほど蓮が解析した“断片”の完全バックアップが確保されていた。世界中の捜査当局が逐次連絡を取り合い、逮捕状と引き渡しの手続きが紙のない速さで進められる。映像がライブで流されると、その場面はニュースの断片となり、政界や宗教界に衝撃を与えた。
しかし、歓喜は早すぎた。現場の端で、古い機械が一瞬だけ赤く点滅した。蓮のモニターが大量のログを吐き出す。彼は顔を青ざめさせた。小さなデータ片が、捕えた幹部の一人の携帯端末から離脱し、別の経路で飛んでいった。追跡を試みるが、ログはすぐに断たれる。
沙雪さんは短く言った。
「幹部は捕まえた。だが狼奈は、まだ見えない。これは途中の勝利だ──だが完全勝利ではない」
現場で捕縛された者たちの供述はまばらだった。幾人かは狂信的に笑い、幾人かは目の奥に恐怖を宿していた。だが、誰一人として「狼奈の居場所」を吐かなかった。彼女は常に一歩先を行き、影を残すだけで姿を見せない。
夜が明ける頃、世界のニュースは逮捕を大々的に報じた。市民は安堵のため息をつき、被害は限定的だったことが判明しつつあった。だが、蓮の端末はまだ震え続けている。彼はひとつのファイルを引き出し、画面を見つめた。そこには、幹部たちの会合のログと、狼奈の残した“詩句”が断片的に含まれていた。確信めいたものが蓮の胸に湧く。
「この断片……狼奈は“舞台”を変えたが、何かを見せようとしている。ノートルダムは守った。だが彼女は“次”を考えている」
沙雪さんは静かにうなずいた。疲労の色は隠せないが、眼差しは鋭い。
「我々は幹部を捕えた。国際司法で裁く。だが、狼奈を捕えるのは別だ。彼女は我々の想像を超える“舞台”を持っている」
モニタの片隅に、白布越しの影の映像が一瞬だけ重なった。世界のどこかで、まだ誰かがそのシルエットを見ている──それは陰影なのか、あるいは予兆なのか。蓮は小さく息を吐いた。彼らの仕事は終わっていない。狼奈はまだ、遠くで笑っているかもしれない。
そしてフランスの街中にあるでかいビルの上に一人の影があった。
「止めたか、まあ彼がいないのなら次は容赦しない…」




