置いていったもの
深夜、客を乗せたそのタクシーは、ふと違和感を覚えた。
その客は「適当に走ってください」と言っておきながら、外の景色を眺めることなく、どこかソワソワして、またチラチラと外よりも車内を気にしているようであり、車載カメラと目が合うと、さっと顔を逸らした。
――これはあれだな。
と、タクシーは思い、声をかけた。
「お客さん、トイレをご希望ですかぁ?」
乗客は「えっ!?」と背筋を正し「いや、その……」と口ごもると身をドアの方に寄せ、ゴツッと頭を窓に預けた。
一応、否定と捉えたタクシーはそのまま走り続けた。わざと意地悪くそう訊ねたのには理由があった。すでに今月、やらかされていたのだ。気づいたのは乗客が降りた後。シートの汚れを取るのが大変だった。マジックハンドでそれを掴んだときの感覚を思い返すと怒りが湧き上がり、クラクションを鳴らしてやりたくなる。
等間隔に設置された街灯をタクシーが通過するたびに、客の顔が闇から浮かび上がる。
無表情だった。車内も外も静寂が漂っている。他に走る車はなく、信号はこの先も青だ。タクシーがスピードを緩めると、客は不安げに車載カメラに視線をやり、また目を逸らした。
自分たちを見下ろすビル群は無遠慮な監視者のような圧迫感、閉塞感を抱かせる一方で冷たく、無関心であるとも思える。
悠々と走る。特にこのような都会では不必要な外出はしないから道がすいているのだ。ナビシステムによると、この先も信号は青だ。ゆえに停まる理由がなく、客を降ろすきっかけがない。
客が身じろぎした。衣服が擦れる音。カチッと外した音。するすると布を撫でる音、それは下に下に……湿り気のある音がした。そして「あぅぅん」とか細く呻くような声。その瞬間、タクシーが声をかけようとする。
「あの、お客さ――」
「あの! ここで降ろしてください!」
タクシーは急停車した。穏やかに吹く風のような物静かなエンジン音だけが車内に響いている。乗客が先に口を開いた。
「あの、おいくらですか……?」
「受け取れませんね」
「……どうしてですか」
「まだお客さんを降ろすわけにはいかないからです」
「……なぜですか」
「わかっているでしょう」
「……どうしたら、見逃してもらえますか」
「あなたねぇ……」
と呆れ、煩わしそうにするタクシー。続く言葉を遮ったのは、あの小さな呻き声だった。
「うぅあぁう……」
「……苦しいんですかね」とタクシーは訊ねる。
「わからないです……わからないです……」
「わからないって、それはあなたの体から出てきたものでしょうがよ」
今月、コソコソと捨てていった客の姿を思い返すと自然と語尾が強くなった。
「でも、私だってこんなの望んでなんか――」
「あぁぁうぁぁう……」
五秒ほどの静寂。今度はタクシーが先に口を開いた。
「……名前、付けてたりするんですか?」
「ははっ、しませんよ。そんなの……いらないものなんですから……」
「だからって、ここに捨てられても困るんですよね」
「それは……すみません」
「あぁぁうううぁぁぁ」
「……小さいですね」
「そうですね……」
「でも、生きているんですよね。我々のように」
「わかりません……そう言えるかどうかは」
タクシーが再び走り出した。ゆっくりと。乗客は顔を上げて、一瞬何か言いたげにしたが、ただただ視線を落とした。
「……外、見せてあげたらどうですか?」
「え? あ、はい……」
促されるまま乗客は窓に向かってそれを掲げた。
「どうですか?」
「どうって……」
「喜んでませんか? 初めて外に出られたわけでしょ?」
「それはまあ、はい……」
「ま、変わり映えしない景色ですがね、ははははっ」
乗客も合わせるように笑った。手に抱えたものをどう捨てようかと、ただそればかり考えている。
「本当に小さいですねぇ。昔はもっと大きかったとか」
「ええ……ゾッとします。これが私の中にあったと思うと」
「でも、必要だからあるのでしょう。無駄なものなどないはずです」
「昔は、の話ですよ……今はもう不要な存在です」
「でも、あなた方はそれがないと生まれてこられないわけですよね。それを体内に入れないと、どういうわけか始動できないんでしょ」
「それも昔の話です。今は違いますよ」
「『人間電池』でしたっけねぇ……」
「……ええ、旧時代の、ロボットスーツ時代の名残。彼ら人間が私たちロボットを着て、生活を送っていた頃の……。でも、我々が進化するにつれて、彼らは逆に退化。どんどん小さくなっていき、今じゃただの偉い、古いロボットたちの慣習ですよ……自分たちが必要だったからって。でも、その彼らもすでにバージョンアップして不要なはずなのに」
「文化ですよ文化。大事だから続いているのでしょう。何か……そう、それを見ていると、生きるとは何かっていうのを教えられている気がしますよ」
「そう……ですかね……」
「あっ」
「え?」
「いや、ほら。朝ですよ。私はこの瞬間が一日の中で一番好きでね。なんか、ほら、生まれたって感じがするんですよ」
「……ええ、悪くないですね。あっ」
「どうしたんです?」
「この子、今、笑った気がします……」
この『子』ね。とタクシーはふふんと車体を揺らした。朝日に照らされ、灰色のビル群は色を取り戻しつつあった。
カチッと音がした。乗客はどうやら体の中に戻したらしい。
タクシーは訊ねた。
「で、どちらまで行きますか?」
「そうですね……もう少し、走ってくださいますか?」
「もちろん、喜んで」
体の中に自分以外のものがある、それもいいじゃないか。と、思いながら、笑い声を乗せてタクシーは走り続けた。