2
「いいじゃん別に、キスぐらい」
ごちそうさまと手を合わせて、侑ちゃんはお弁当箱を片付け始める。長い黒髪を耳にかきあげるしぐさがすばらしく様になる彼女に、あたしは今までいろんな相談をしてきた。
いろんな分野で経験豊富な侑ちゃんだからこそ、普段言えないようなことまで訊くことができる。彼女の答えはちょっと冷たいけど、下手に遠まわしに言われるより全然良かった。
「押し倒されたわけじゃないんだしさ、しちゃえばよかったじゃん、キス」
「いや、そうなんだけど……」
「お互いのことなにも知らなくて初々しいカップルならまだしも、綾音たちなんて付き合うのも時間の問題だっていうぐらいの仲だったじゃん。付き合って一ヶ月までキスはだめだとか、そういうふうに決めてるわけ?」
「いや、別に……」
牛乳をかけたばかりのコーンフレークみたいなざくざくした言葉に、あたしはただ口ごもることしかできない。お昼ごはんのパンはほとんど口に入らなくて、手持ち無沙汰にすすっていたコーヒー牛乳もついにずずずずとしかいわなくなった。
「展開的にも、綾音の理想そのものだったんじゃないの? 誰もいない放課後の教室で、夕陽を浴びながら好きな人とファーストキスとか、あんたが私に読めっておしつけた漫画のシーンそのまんまだったじゃん」
「それは、そうなんだけど……」
侑ちゃんはあたしの恋愛経験を知っている。今まで誰とも付き合ったことがなくて、キスなんてもちろんしたことのない、いつも少女漫画を読んでは夢を膨らませていた妄想乙女だってことは言わなくてもすっかり見抜かれてしまっていた。
「敦司のことが嫌いなわけ?」
「ううん、違う」
「好きなんでしょ?」
「うん」
敦司が好き。その気持ちに嘘はない。好きじゃなかったら付き合おうって言われてOKしないし、手をつなぐとかそういうこともできなかったと思う。別にあたしは男子が苦手なわけじゃなく、ただなんとなく、今までそういう色恋にご縁がなかっただけだった。
敦司のことは好き。一緒にいて楽しいし、気疲れもしない。友達よりも大きな存在で、つないだ手のあたたかさとちょっと意地悪だけど優しいところが大好きだった。
「じゃあなんでキスしなかったの?」
「それは……」
あの時の自分が、今の自分にはよくわからない。
でも、もし今のあたしが昨日と同じように敦司とキスしそうになったら、やっぱり拒んでしまうと思う。キスする、と思った瞬間、頭の中が真っ白になって逃げてしまうと思う。
「だって……やりかたとか、わかんないんだもん」
「やりかた?」
普段は冷静なはずの侑ちゃんの声が、見事に裏返った。
「なに綾音、そんなこと考えてたの?」
「だって……わかんないんだもん」
「それこそ全部敦司にまかせちゃえばいいじゃん」
長いまつげが縁どる目をまんまるに見開いて、侑ちゃんは全身で信じられないと語っていた。たしかに侑ちゃんには、あたしの考えていることなんてちっぽけなことかもしれないんだけど。
「だってさ、キスするときって、どうしてたらいいの? 息とかとめるの? 首はそのままでいいの? したときってどうすればいいの? 味とかはするの?」
「味って!」
こらえきれなくなったらしく、侑ちゃんがふきだした。
「綾音、そんなことまで考えてんの? いっとくけど、ファーストキスはレモン味なんて絶対嘘だよ!」
「わかってる! でも、やっぱり気になるんだもん!」
「だから、してみればいいんだって! 一回やったらわかるから!」
はははは、と、侑ちゃんが豪快に大きな口をあけて笑う。その声にクラスの視線が集まって、あたしは顔が熱くなった。
「だって、だって……!」
頭がいっぱいいっぱいになって、だってしか言えなくなる。だってだって。だってさぁ。繰り返すあたしに、侑ちゃんが手を伸ばして乱暴に頭を撫でた。
「悩め、乙女。漫画でも映画でも見て、思う存分研究してなさい」
結局侑ちゃんは、あたしが知りたいことをほとんど教えてくれなかった。