七話
いつ見ても酷い有様の小屋。今日は特に寒い。それなのに、小屋の壁の板は風に揺れている。隙間風どころではないだろう。ここら一帯はそんな家ばかりだ。他はもう少しマシなのだが、ここは直す人が居ない。隣の家同士助け合う事もしない、社会の爪弾き者たちが集まっているここで、良い暮らしなど夢見ることもおこがましい。
彼はそんな家でも必ず帰る。週に二、三度ではあるが。帰ると出迎えてくれるは妻一人。足が不自由でも、光が弱くても妻は妻。待っている者が居るところに変えることは当然だろう。
「お帰りなさい、あなた」
この家の夫婦に会話は無い。妻から話しかけることはあるが、夫から話しかけることは滅多な事でもない限り無いというのが日常だ。
かた、かたと板が板を叩く音がする。壁の隙間から見える外は雪が斜めに流れている。
「今日も冷えますね」
女はパッチワーク状の薄布を二枚ほど重ねて、汚らしいベッドの上で包まって座っている。
「今日は隣の子供がうるさくてですね」小さく咳が挟まる。「少ししたら男の子が入って来たんですよ」
フィロは女を一瞥してから、木戸で閉まっている窓の近くの椅子に座り、腰に付けていたポーチをテーブルに置き、中身を広げる。
「中には誰にもいないと思っていたらしくて、私を見て驚いていました。でも帰る様子がないのでどうしたのかなって思っていると、外から他の子供の声が聞こえたんです。だから、その子を近くまで読んでお話ししようって言ったんです。そしたらですね、その子は虐められているらしくて、子供たちの間でお化け屋敷って言われているこの家の様子を見てくるようにって言われたんですって。可哀そうなので、少し抱きしめてあげたらとても喜んでくれました。その子、お母さんもお父さんも居なくて、遠縁の親戚の所で世話になっているのだそうで。そこの家の子供から、そうとう嫌がらせを受けているんですって。可哀そうに思い、こうやって手招きしたら、子犬か子猫のようにゆっくり近づいてきたのです。そして抱きしめてあげたら、わんわん泣き始めちゃって。私のおっぱいが似ていたのでしょうか。顔を埋めて、お母さん、お母さんって小さく叫んでました。大きい声も出せなくなってしまったんでしょうね」
女は胸元で両手を擦らせている。
「ついさっきまでいたんですよ。ほら、私の服こんなに濡れちゃて。帰る暇も無かったです。今はちょっと寒いですけど、あの時はとっても熱かったんですよ。私、もしも子供がいたら、こうやって抱きしめてあげたかったんです。あんな小さな子が、私の願いをまた一つ叶えてくれました。つい、欲張っちゃいそうになりますね」
枯れすすきに隣火が近付き、陰火がちろちろとしているかのような女に、フィロはつい目をやってしまう。そして枯れすすきは風に揺れる。
「本当に感謝してます。本当ですよ? 時折お話ししに来る男性とか、向かいの奥さんも良くしてくれますし、何より痛くないんです。寒く、なくなりました」
「しばらく、帰らない。飯の用意はいらない。食材は向かいに頼んだ」フィロはぬらりと立ち上がる。「今日は欲しいのか?」
女は床の木目をなぞるように目を泳がせ、それから痛ましく微笑む。
「はい、お願いします。今度は私を温めて」
小型犬の遠吠えごとき甲高いホイッスル音が屋敷に木霊する。それは一ヶ所から始まり、次第に音は増え、幾条もの光が入り乱れるように、人が行き交っていく。
「侵入者を必ず捕まえろ!」
「子爵様の警護は万全か!」
「奥様の身元の安全を報告します!」
衛兵達の野太い声が飛び交う。ブーツが石床を叩く音、カーペットに吸い込まれない分が、彼らの緊迫した様子を伝える。
「おい、フィロはどうした?」
エルガーがその場にいた部下に尋ねる。
「引き続き門衛として立っているかと」
「呼んでこい。代わりにお前が立ってこい」
やがてフィロがエルガーの前に現れると、エルガーの質問が始まる。
「何も見なかったのか?」
「ええ。今日はランシーではなく、先輩でしたので確実な確認ができます」
「何か感じなかったか?」
「いえ、特に何も」
「そうか」エルガーは立ち上がり、フィロと目線を同じにする。「白昼堂々、貴族の屋敷に賊の侵入を許した。これは由々しき事態だ。わかるな?」
フィロはこくりと頷く。
「たった一人とは言え、恥ずべきことだ。被害が出ないうちに捕まえる」
「生死は?」
「生きたまま連れてこい」
普段の穏やかなエルガーが牙を剥く。
「出来るだろ?」
「やれと言われればやるだけです、衛兵長」フィロは姿勢を正す。「命令を」
「行け」
フィロが行くのを確認すると、エルガーは表情を戻し考えに更ける。
「この時間の侵入者。動きから察するに素人。だが計画性も感じる。即ち、手引きした者がいるということか。なんとも」
彼の元の顔は一瞬だけだった。
「実に、私好みの展開ではないか」
元盗賊の長で、元騎士でもある彼は、嗤った。
屋敷の中は騒然としている。メイド達は数人の衛兵に囲まれ身を隠し、奴隷達は小屋に籠っている。貴族の屋敷とは言え、所詮文官の子爵。衛兵の数は多くなく、たった一人の侵入者に苦戦しているようだ。しかし、エルガーの予想通り、犯人は素人だった。犯人が捕まった時の、あまりの呆気なさに衛兵の多くが深い溜め息をついた。
貴族の屋敷への侵入に対する罰則は、その屋敷の主人に任されることが多い。これは慣習であり、法ではないのだが、貴族としての面子を保つために、己で裁いたという事実が必要になる。
暗く湿った尋問部屋で、エルガーは縄で捕らえられた犯人に向かい合う。
「さて、名前を聞こうか」
「お、俺は雇われただけだ! 何も盗っちゃねぇし、な?」
エルガーは微笑む。犯人が出来るだけ安心できるように。
「そうか、そうか。雇われただけなのか。それは、ようくわかった」ふふ、と。「さて」
「な、いいだろ? 雇った奴の事喋れば良いか? いいぜ、何でも話す!」
「そうか、そうか」
「デブな女だ。服はあんま良くなかったな。香水臭かったのをよく覚えてる」
「へぇ、それで?」
「小袋に銀貨一杯に詰めてくれたんだ。それで、この屋敷に侵入しろって。何故かは知らんが、門から入れると言われて、正面から入ってやった!」
エルガーは相変わらず微笑み、話を聞いている。
「なあ、いいだろ? 何も盗ってねえ。そりゃわかんだろ? なあ、逃がしてくれよ。さっきの金で酒を呑みてえんだ」
「いや、よくわかったよ」
エルガーは立ち上がり男の元へ行く。
「それで」彼は微笑む。「名前は?」
「どうだったんだい、エルガー衛兵長」
執務室でケラニスコは尋問の結果を尋ねる。
「本人は何も盗っていないと言っていますが、確認を進めている所です。子爵の方で何かございましたら探しますが?」
「いや、いい。執事にでも任せるさ」
「差し出がましい真似を失礼いたしました」
「騒動の原因はどうしたのかね?」
「異常な性癖を持つ部下に預けてきました。後一時間もすれば、欠片になった彼に出会えますよ?」
「それは勘弁させてもらいたいね。いやはや、今回は随分とご立腹だね」
「それはそうです。子爵様より言い付けられた事も守れず、私としては、こうして御前に立っている今、恥ずかしさで腕を切り落としたいほどです」
「それはやめてもらいたい。カーペットが汚れる」
ケラニスコはエルガーに清々しく笑いかけ、退出を促す。素直に出て行った彼を見送ってから、ケラニスコは執事のシャルトを近くに呼ぶ。
「なあ、シャルト。私は少し外す。少しの間、ここに客を入れないようにしてくれないか」
「畏まりました。誰一人として通しませんよ」
「頼りにしてるよ」
ケラニスコは例の隠し通路へと消えていく。そんな彼を見送りながら、シャルトは身支度を整え、窓と扉が見える位置に広背筋を膨らませるようにして立つ。
ケラニスコが最初に訪れたのは、秘密の寝室。そこに窓はなく、鼠程の大きさの空気孔が四か所あるばかりの、蝋燭の灯り揺れる部屋。
「いかがいたしましたか。もう、そんな時間でしょうか」
ルノは壁際にある歯車時計をちらりと見る。それは、まだ夜には早すぎる時間を示していた。
「いや、君の顔が見たくなってね。仕事を放りだして来てしまったよ」
「それは珍しいですね」ルノは微笑む。「それで、どうします。僕の顔を見てお終いですか?」
「なんだね、誘っているのかい。私はこれからやらなくてはいけない事があるのだがね」
「僕は構いませんよ」
ルノは悪戯な少女のように笑いかける。
「僕はご主人様の物ですから。どのようになさっても」
ルノは言い切る事が出来なかった。何故ならば、その華奢な肢体を押さえつけるようにしてベッドへと倒され、唇を唇で塞がれてしまったからだ。
ケラニスコは数秒の後、ルノから顔を離し、生暖かい呼吸を繰り返す。
「お前は誰の物だ?」
ケラニスコは奴隷の耳元で尋ねる。
「僕はご主人様の物です」
ルノは腕をゆっくりとケラニスコの束縛から解き、そのまま彼の後頭部へと回す。
「お前の主人は誰だ」
ケラニスコはゆっくりと、じわりと弛緩させるように体重をかけていく。
「ケラニスコ様です」
「そうだ。ルノ。お前は私の物だ」
かくして、まだ陽の高いうちから、貴族の公表できない遊びが始まる。激しく情熱的で、真冬だというのに、暖炉で温められた部屋がインモラルにじっとりとする。時折薪の弾ける音がするが、すぐにかき消えてしまう程に男の情念は熱い。それは何かを確かめるようなものであり、求めるようなものではなくなっていた。
「遅いですね」
シャルトは元の位置から動かずに数時間待機していた。その間、何人かケラニスコに謁見を求めてきたが、扉を開けることすらせずに断ってきた。主人が何故遅いのか、何をしているのかまで理解している彼は、断固として扉を開けるつもりはなかった。
「このまま、夜になってしまいますかね」
やや手持ち無沙汰の気分が出てきたものの、こういった時こそ警戒しなければならないのだという過去の経験を思い出し、ジャケットの裏地に隠してある指のサイズ程のナイフを取り出し、点検を始める。
ノックが三度。
「エルガー・ワットです。報告に参りました」
「申し訳ありませんが衛兵長。また後にしてくれませんか」
シャルトは扉越しに答える。
「もうこれで三度目ですよ。中で何かあったんですか」
「いいえ。しかし、ケラニスコ様のご命令ですので」
「こちらも仕事なのだが。報告が出来なければ終われないのですよ」
「申し訳ありません。あと少しで終わると思うのですが」
「そこにケラニスコ様は居られるのか」
「ええ、居ます」
「であれば、返事だけでも良いのです。いただけませんか」
「話す暇もないほどに忙しくされております。こうして問答している時間も煩わしそうにしています」
「それは申し訳ないのだが」
「お引き取り願います」
「分かった。半刻立った後、また尋ねます」
そう言ってエルガーは去っていった。
シャルトは疲れが籠った息を肺から絞り出すように吐く。このくだりを何回繰り返せばよいのか、それを思うだけで彼は憂鬱になる。まだ時間は早い。窓から見える景色も明るいものだ。
冷風が足元をなぞる廊下を切りながらエルガーは歩く。カチャカチャとなる鉄の音は細かく、すれ違う使用人たちが思わず肩を反応させる程だ。
「どうしたんですか」
やや年配の使用人が話しかけると、エルガーは歩調を緩める。
「ままならないものだ」
「何かあったのですか」
「酒を飲んだ時」
エルガーは足を止める。
「ええ」
「酔っぱらうよな」
「そうですね。エルガー様は悪酔いしますよね」
「ああ。少しするとすぐに気持ち悪くなるんだ。そんな時、どうすればいいと思う?」
「素直に厠に行って、吐いてしまえば良いのでは?」
使用人は不思議そうに首をかしげる。
「どうしたんです。まさか仕事中に飲んだのですか」
「いや、そうじゃないんだが、まるでそんな気分になったという事さ」
「飲みたいんですか」
「いっそ飲んでしまえば楽なのかね」
エルガーは元の歩調を再開させ、使用人をその場に置いていく。調書を小脇に抱え、そのまま自分の執務室へと入り、扉に鍵を閉める。調書を机に投げ、膝から崩れるように黒革のソファに横になる。
静かな執務室でエルガーは静かに目を瞑り、眠る訳でもなく体を休めている。廊下から聞こえる話し声や足音を遠くに感じながら、間違って眠ってしまわないように、薄らと聞こえる自分の鼻息に集中する。
「ああ、きっついな」
ドアをノックする音がエルガーを覚醒させる。
「エルガー衛兵長、いらっしゃいますか」
休みたい気分のエルガーは、無機質ともとれる女の声を無視する。
「少々話したいことがあるのですが」
サルマの声は、中にエルガーがいることを確信しているもので、言外に嬌声を求める意思を織り交ぜているようでもあった。
億劫な彼はニ、三度起きるのを躊躇いながらも淑女を迎えにいく。
「おや、鍵が掛かっていたのですね」
「おいおい、可愛げがないぜ」
「ふふ、私にそれを求めますか。まだ私を好いているんですか」
エルガーはバツが悪そうに頭を掻く。
「もうあの時の事をからかうのはよしてくれないか。若かったんだ」
「若かっただなんて、何年も前の事ではないではないですか」
エルガーは眉を潜めながら溜息をつく。
「それで、紳士は淑女を立たせて待たせるものなんですか?」
「分かったよ。入れ。出せるもんはないぞ」
「ええ、ええ。大丈夫ですとも。話が出来れば、それ以上の事は期待してませんから」
「相変わらず毒が絶えねえな」
サルマは遠慮なしに執務室に入り、誘われるよりも先に客用のソファに腰を掛ける。それはまるで部屋の主の様で、不遜さが隠しきれていない。いや、隠そうともしていない態度だ。
「で、話ってのは何だね」
「そうですね、何から話したものでしょうか。まずは、ケラニスコ様はいかがされていますか」
「部屋で仕事中だとよ。何度か行っても駄目だ」
「本当はどうなっているか知っているのでしょう?」
「本当は、とはどういう事かな、お嬢さん」
「あまり時間が無いんです。はっきりしましょう。ケラニスコ様の性癖については知っているでしょう? 貴方はこの屋敷の中でも古株なんですから。ええ、どうせ今頃ご執心の男娼と、昼間から元気にしてるのでしょう」
「おいおい、あまり下手な事は言わないでくれよ。いくら何でも不用心すぎるぜ」
「鍵を閉めていたとはいえ、あなたが休んでいるのですから、この時間あまり人は来ないのでしょう?」
「まあ、な」
「最近、物騒ではありませんか。今日の侵入者騒ぎもありますが、ここ最近の人事の移動。秘密の来訪者。人の行き来が多くなってきています。どんな事があってもおかしくないですよ、これは」
「俺の部下を一人連れて行った奴が言う事じゃないな」
「正直言いましょう。彼の事も私は信用していません。チューレリア様が信用しているから、怪しみながらも部屋に案内しているんです。彼はあまりにも、お嬢様に都合がよすぎる男性なんですよ」
「都合が良い、とな。一体どういう意味かい」
「分かっているでしょう。若くて、話もできる。しかし軽々しい雰囲気ではなく、どことなく上品さがある。手土産のセンスも外れがなく、女性慣れしています。何より、あれで結婚しているというのがお嬢様の心を掴んでいます。互いにパートナーがいるにも拘らず、別の異性と仲良くしている。お嬢様にとっては、まるで小説の主人公になったような気分になっているんですよ」
「だから何だって言うんだい」
エルガーは呆れたように腕を組む。
「貴族の令嬢なら、無くはない話だろう。フィロに関してもだ。偶々、チューレリア様の好みだっただけなんだろ。実際呼んだのは婦人だろ?」
「そうですけどね。それでも、不自然な感じがするのよ」
「個人の好き好みを聞かされてもな。それで俺の貴重な休み時間を奪ったのかい」
「まあ、いいわ。それでも」ふぅ、と。「一応頭に入れておいて欲しいの。絶対何か起きるわ」
「君はチューレリア様の味方じゃないのかい」
「味方よ。私は死ぬまで、いいえ死んでも味方であり続けるわ。チューレリア様がどのような立場に立たれようと、そう間違えていてもね」
「盲目的だね」
エルガーは笑いかけ、サルマの近くに行こうとする。しかし、サルマは軽くいなすように躱し、扉の方へ向かっていく。
「盲目。そうね、その通りだわ。私は今、光が見えてないのかもしれないわ。だから、か細い蜘蛛の糸に騙されてしまうのかもしれない」
「なんだよ、馬鹿にしているのか」
「どうかしら」ノブに手をかける。「また、話せたら話しましょう。暇潰しにはなるわ」
「俺は暇なんてないんだが」
エルガーの返しにサルマは口角を上げて返し、去っていく。
サルマは居ない。これは珍しい事だ。チューレリアは本館で起きていることは何も知らない。普段から隔絶されてしまっている彼女は、やはり不憫と言わざるを得ない。
ぼっぼっぼ。隙間風にろうそくの火が揺らされる。彼女の視線が火から火へと移ろい、手元の日記へと落ちる。ざらざらとした加工がなされた獣の高級革の装丁を、産毛を撫でるようにして感触を脳へ伝える。
「今日は」指は左の白綿の袖へ。「来る、よね」
自分を冷やそうとする風に苛立ちを覚え、丸椅子から立ち上がり、途中日記を三段の小さな棚の上に置き、窓の前に立つ。相変わらず日当たりが悪い。故に、この部屋の蝋の消費は他に比べて多い。
この冬に日当たりの悪さが重なり、木の窓枠すら氷のように冷たく感じる。鍵なぞ、素手で触るに憚られる。ハンカチを使い、鍵を閉め終わった彼女は振り返り、日記の元まで戻る。日記の金具を外し、ぱらぱらぱらと半分以上捲ったところで止める。そこはまだ白紙だ。
コン、コン、コンコン。
「どうぞ」
と言い、入ってきたのは待ちわびた人。
「どうしたの。今更他人行儀するほどの間柄でもないでしょう」
少しつっけんどんに言いながら、フィロに背を向ける。服の隙間から、綺麗な背中がちらり。
「今日は呼んでないと思うんだけど。サルマはどうしたの」
「今日は、サルマはいません。個人的な理由で来ました」
フィロは閉じた扉の前から動かない。相手の出方を覗うように、チューレリアを見つめる。
「私ね。ずっと思ってた」ふふ。「どうしてこの人は私に優しいんだろうって。私は箱入り娘。だけど、言う程馬鹿じゃないって思っているわ。本もたくさん読むの。それでね、物語のヒロインに優しくする王子様が言うのよ。無償の愛なんてない。見返りのない優しさは欺瞞だって。貴方はどっちなの」
チューレリアはミルク色のスカートをくるりとさせ、フィロを真っ直ぐと見つめる。
「では、チューレリア様は私に何を求めますか」
「質問に質問で返さないで。今の私に、小説ほどの忍耐力は無いわ」
「いいですか」
フィロはゆっくりとチューレリアに近付いていく。ゆっくりと。
「貴女は愛を求めますか。求めるのならば、私はそれに応えましょう」
「言うつもりは無いってことなのよね。本当に、あなたはずるいわ」
目の前まで来た男性の胸に思わず、とん、と体を。
「フィロ。貴方の思う通りよ。私は寂しく飢えた兎。この寒さの中で一人震えている所に来た狼に温もりを求めてしまう程倒錯した、ね」
「果たして、本当に狼でしょうか。狼の皮を被った道化かもしれない」
チューレリアはにこっと笑う。
「その道化はどこまで付いてくるのかしら。地獄まで?」
「さあ、少なくとも」
チューレリアの髪を耳にかけながら、頬から顎のラインをなぞる様に指先を這わせる。
「快楽の果てまでは付いていきますよ」
サルマは扉の前で固まっていた。驚きではなく、入るべきか否かで悩んでいるだけだ。中から音が聞こえる。扉に耳を当てなくとも聞こえるほど、激しい声が響いている。しかし、彼女は入らなければならない。自分が決めたことを守るため。自分を守るため。
ノックをせずに入る。いつも彼女はノックしない。ここは自分の部屋も同然だ。主もそうするように言っている。自分の部屋に入るのにノックする人はいるのか。いたとしても珍しく、少なくとも彼女はそうではない。
まず彼女が感じたのは、締め切られた部屋に充満した重い湿度。自分が部屋を開けていた時間から考えて、眉を潜める。そしてベッドを見やれば、主人がぐったりと横たわっている。その隣に、煙管に火を点け、黄色い煙をくゆらせているフィロがいた。彼からの一瞬の視線を感じる。
「終わったのですか」
無機質な声だ。
「君が入って来た時に気絶した」
「そうですか」主に近寄る。「少し、離れていてもらってもよろしいですか」
「俺はもう帰るよ」
フィロは脇に小さく積まれた服を取り、着替える。
「疲れているだろうから、よろしく頼むよ」
「貴方は何者なんですか。他の貴族の回し者ですか」
サルマは少し大箪笥に寄り道してふわりとしたタオルを取り出してから、チューレリアにかかったシーツを丁寧に剥がし、タオルで汗を拭いていく。汚いものを触るような様子は見せない。かと言って、愛しいものを触れるようなものでもない。ただ、ただ。
「この際、何者でも構いません。構いませんが、私は。貴方を最後にここに連れてきたのは私です。責任は私にあります。私は、勝手ですが、チューレリア様の姉のような気分でいます。この子には少しでも幸せになってほしい。少しでも多くの幸せを味わってほしい。だからこそ、この子が一番求めていたものをあげたくなった。私には、これしかできなかった」
「懺悔、か」
サルマは、すう、として、ふう、と。
「私は貴方に、この子の隙間を埋めて欲しかった。ですが、貴方は想像以上にチューレリアを夢中にさせた。私は止めたくなった。得も知れない恐怖を貴方に感じた。このままこの子を任せて良いのかと」
「成り行きだ」
「随分口調が違うわね。そっちが素?」
サルマは手を止め、チューレリアに改めてシーツをかける。
「約束して」
サルマはフィロを睨む。
「この子を不幸にしないで」
じっと見つめた先の男は、どこ吹く風と煙管を弄る。
「幸か不幸か、決めるのは彼女だろう。俺はそこまで責任取れない。ただでさえ、不貞の行いなのだから」
「それでも。それでも約束して欲しいの」
「君の自己満足に付き合うつもりはないよ。君は自分に出来なかったことを俺に押し付けているだけだ」
フィロは煙管を置き、煙を出るままにする。
「チューレリアが寂しい時に出来た事。それを怠った自分。過去の過ちを俺に押し付けて、君は君自身が勝手に自分に植えた罪悪感の世話を放棄した。それでもその種は芽吹く。何年経とうとも、必ず。花咲いた頃にはどうなっているのかな」
「じゃあ、どうすればいいの」
言葉に怒気が混じり始める。
「さあ。眠り姫と泉に入って考えるのも手じゃないか」
「あまりからかわないで」
「さあ、お嬢様には帰ったと言っといてくれ。今日は、疲れた」
フィロはそそくさと出て行く。
フィロを視線だけで見送るサルマは、すぐに切り、愛しい妹分の寝顔を見やる。
「今日は、いい夢を見て良そうですね。チューレリア」
サルマはふらりとベッドから退き、窓へとゆらゆら。鍵が締まっているのを見る。開けて良いものか。逡巡し、彼女は素手で金属に触れる。痛いほどの冷たさ。きい、と言う音を僅かに感じながら鍵を開け、両開きの窓を指二本分ほど開ける。その瞬間、顔を叩く風が入り込んできて、彼女の後ろにある蝋燭の火が揺れる。ここからは本館が見える。本館の壁には太陽が夕焼け色を塗りたくり、それを見たサルマの横隔膜の辺りで水銀の塊が膨らむ。
風が染みる。涙が出てくるのはその所為だろう。寒いのに水銀の体積は小さくならず、むしろ体内で膨らんでいくようだった。背中の方から音が聞こえる。彼女が寒さに反応したのだろう。薄いシーツの下は産まれたままの姿だ。早く服を着せて差し上げなければならない。いや、その前に湯浴みが良いだろう。ここも貴族の屋敷。奴隷に一言命令すれば、体を芯まで温めることは難くない。
「サルマ?」
チューレリアは窓際で立つサルマを見て、何をしているのか不安になった。そして、自分の姿を思い出す。
「見た?」
サルマは振り返る。そして微笑む。
「ええ、見てしまいました。お楽しみだったようで」
「やめてよ。恥ずかしいわ」
チューレリアは火照っている頬を更に赤らめる。
「今更何ですか。貴女の裸なんて子供の頃から見ていますよ」
「そう言う問題じゃないでしょ。その、恥ずかしいものね」
チューレリアは上体を起こし、胸元にシーツを集める。
「さあ、私は経験がないので分かりません。とうとう妹分に先越されてしまいましたね」
「ごめんね」
「やめてください。みじめになります」
「思ってないくせに」
「で、どうでした。不貞の味は」
「不貞、ね。あの人に対して操を守る必要なんてあったのかしら」
「おや、何かを悟りましたか。急に生意気ですね」
くすくすと笑うサルマに、むくれるチューレリア。
思い出したかのように寒さを覚え窓を気にするお嬢様に、サルマはその姿を楽しみながら、名残惜しそうに視線を外さずに窓を締めに行く。
「急に意地悪になったのね」
「人は変わる生き物よ」
窓を閉めるとき、はじめて外に顔を向ける。
「何かあったの?」
「可愛いお嬢様に悪い虫がついてしまって、心苦しいんです」
「あら、その可愛いお嬢様は進んで虫を入れたのよ」
「その虫は毒を持っているのかもしれないんですよ。冷や冷やして」
サルマは振り返る。火が一つ消え、明度が落ちる。
「どうするんですか」
「どうするって、どういう事?」
チューレリアは肩を竦める。垢ぬけた少女のように。
サルマは何も言わない。じっと。
「これは恋なのかな。でもそうじゃない気もするし、どことなくそうなってしまいそうな気がする。彼は本気ではないし、なってくれることは無さそうよ。あのね、私ってきっと、ずっと前から手遅れなんだと思う。この館に来た時から、かな。どうするって言われても、彼の気分次第じゃない。私は彼が居続ける限り、彼の熱を感じたい。まだ、まとまらないよ。さっきの今で、割り切れるなら今まで悩んでないわ」
「私は貴女についていくわ」
チューレリアは胸元のシーツをくしゃりと。手の中の物を離して落としては拾い、そうして膝を立てぐいと抱える。
「そうね、貴女は最高の友達よ」