五話
足元も手元も良く見えるほどには明るいというのに、見上げれば重くのしかかってくる暗い灰みの青と薄墨色の粘土を不細工に重ねたような空が、気持ち悪いという視界情報を与えるように蠢いている。濁流のような北風が、屋敷の薄ら霞の窓ガラスに雪玉を当て、さらに潰すように圧力をかけている。
子爵邸は決して古くないが、新しくもない。嵌め硝子の窓は風の寒さに震え、建物も我慢できず僅かばかりに揺れている。中にいる者達としては慣れたものではあるはずなのだが、それでも若干の不安と憂鬱感は拭えない。
休み明け、野外の仕事も大したことなく、手持ち無沙汰になったフィロを見つけたのは、普段よりも暖かそうな冬仕立てのカーディガンの袖を使わずに着ているセルマだった。
「お久し振りです。数日振りですね」
「ああ、サルマ様。お久し振りでございます。ご機嫌はいかがでしたか?」
比較的気軽に話しかけてきたサルマに対し、フィロは型に倣ったお辞儀を返す。
「ご機嫌も何も無いわ。この冬の間、機嫌が良くなることなんてあるのかしら。野菜とかも保存がきく物ばかりで代わり映えがないもの」
「仕方ありません。この国の厳冬期は毎年こうですから」
「それもそうね。それで、この後暇かしら。良ければ少し話をしたいのだけれど」
フィロは眉に皺をよせ、烏の行水程の時間考えてから答えを出す。
「あとは報告だけです。行くなら使用人の休憩室ですか」
「ええ。では私は先に行って待ってるわ。報告の時間と、もう少しくらいなら待てるわよ」
「ありがとうございます」
どこの屋敷にでも、使用人専用の休憩室はある。調理場に近いところで、男女問わずに居ることが許されているが、基本的に居るのは女性が多い。調理場の近くで働くのはそもそも女性ばかりで、男性は居たとしても非力な少年程度。そしてこの屋敷に少年の使用人は居ない。男性たちは持ち場の近くで適当に煙をふかしていたり、温いビールを飲むために外に出てしまう。
ロノウェ子爵邸の休憩室は十人程度が楽に椅子に座って休める程度の広さで、調理場の熱を持ってくることで冬でも温かい。窓が二か所あるので、夏場でも風は通り過ごしやすい。単なる休憩室なので大した家具も無く質素な造りだが、メイドが手慰みに作った縫物や織物などで飾り付けられており、肌で感じる以上の温かさを感じる部屋だ。
この時間、三人の休憩者がいる。いずれも女性で、比較的若い。内二人は同じ席で話に花を咲かせている。男に関する内容だとは思うが、詳しい所までは聞こえない。もう一人はサルマだ。木の椅子に深く腰掛け、藍色のカーディガンの中で丸い木枠に取り付けたハンカチーフに、針と糸で刺繍をやっている。いつから始めた物なのかはわからないが、枠の大半は終えているようで、とても可愛らしい兎が跳ねている。
「意外ですね」休憩室に入り、サルマの下へと近づいたフィロは声をかける。
「あら、そんな安い感想よりも、レディに言う言葉があるのではなくて?」
サルマは刺繍をする手元から目を離さずに答える。
「遅くなり申し訳ございません」
「ええ、そうね。待ったわ。思ったよりも時間がかかったように感じるのだけれど」そこでようやくフィロへと視線を向ける。
「衛兵長の愚痴が始まりまして。中々離してくれなかったのです」
「まあ、いいわ。それより、座って」対面の席を指す。「話しましょ」
奥にいた二人はフィロ達を気にすることなく話を続けている。窓はやはりカタカタとカスタネットのように音を奏で、天井近くの通気口から良い香りが運ばれてくる。昼食の時間はもう間もなくだ。複雑な旨味が重なっているように思える。
「それで話とは何でしょうか」
「急かすのはいただけないわね。まあ、早いに越したことは無いから手っ取り早く済ませるわ」サルマは手元の物を、椅子の背もたれに引っ掛けてある大き目なバッグに適当に仕舞い込む。「チューレリア様の事よ。貴方これからどうするつもり?」
「どう、とは」
「平民の貴方にとっては分からないでしょうけど、貴族の、それも婦人ともなると平民とは接点はないわ。それが今、貴方はこうして何度も逢瀬を重ねている。ケラニスコ様に知られた時には、貴方の命は無いわ」
「ええ、まあそうでしょうね」
「そうでしょうね、と気軽に言ってくれるわね。私にとっても命がかかっている問題なのよ」
「分かり切っている問題です。それが本題ですか?」
フィロは溜息と共に背もたれに深く体重をかける。そしてサルマに気だるげな、その程度の話題で呼び止めたことを責めるような視線を向ける。
「チューレリア様は男性との接点がほぼありません。今まであったとしても、一度だけ参加したダンスパーティーだけよ」
「その話は聞きました」
「ええ。これまでの逢瀬の中で分かってもらえているかと思います。ですが、まだわかっていないことがあるわ。チューレリア様の男性経験の無さは非常に危険です。最早、既に遅いかもしれません」
深く鼻から息を吐き、その真意を測るようにサルマの発言を促す。
「はっきり申し上げましょう。チューレリア様は少なからず貴方を想っています。こういう事は本来、当人同士で解決するべきなのでしょうが、立場があります。私としては後悔はありません。ケラニスコ様のご趣味の所為で日々憔悴していくチューレリア様を見ているのは非常に辛かった。きちんとした恋をしたことが無く、小説に書かれている恋物語に焦がれるばかり。貴方と会わせるだけでこうなるのは想像がついていた。けれど、それでも耐えられなかった」
「私は今」フィロは険を籠める。「何を聞かされているのでしょうか。懺悔?」
「それは少しあるかもしれないわね。だからこそ聞きたいの。これからもこの秘密の逢瀬を重ねるのか、それともやめるのか。貴方がリスクをきちんと理解して、その上でどう考えているのか聞きたいの」
フィロは眉間に皺を寄せる。
「私は巻き込まれた方ですよ。愛人紛いの立場として通わされて、もてなさせられ、挙句どういうつもりかと聞くのですか。答えましょう。どうするつもりもありません。私に何か思惑があり、貴方がいない環境で迫っているならばともかく、私は完全な巻き込まれ。答えられることなんてありませんよ。それこそ立場的にね」
「そう、ですね」サルマは表情に影を作る。「今日も会ってもらいます。今回は迎えに行きませんので、お好きなタイミングで来てください。チューレリア様の為と言う観点で言えば、出来る限り早く来ていただけると喜ぶと思います」
フィロは諦めたように視線を落とす。「わかりました」と言い、そのまま振り返らずに休憩室を退室する。
白い前掛けを両手で握りしめる。様々な後悔などが綯い交ぜになった内に潜み始めた感情を警戒するような震えがセルマの肩に表れる。精神状態を現すように、そのまま俯くのだった。
チューレリアの部屋。以前に比べてかなり雰囲気が違う。少しづつ飾りが増えていき、元の無味な部屋から年齢相応の女性的な部屋へと。
チューレリアは鏡に向かい、その栗色の髪をゆっくりと梳かしている。白と黒の斑点の毛皮を使ったガウンの隙間から見える、赤の下地に時折黒のラインが入っているネグリジェが覗いている。緩んだ頬にほんのり紅も付け、外の雪と同じ色の肌に映えている。
四度のノックが響く。チューレリアの心と足取りが弾んで、冬に似合わぬ表情で客人を迎える。
「さあ、中に入って。寒いでしょう。中は温かいわ」
いつも通りの逢瀬、ではなくサルマがいない逢瀬は初めてだ。チューレリアはいつも以上に自分の鼓動が鼓膜の内側で響いている事に戸惑いながら、初めてフィロの見ている前で紅茶と茶菓子の準備を進める。
「思ったよりも早いから、着替えが間に合わなかったわ」
「申し訳ありません。今からでも出ましょうか」
チューレリアの手元が動揺を示すように震える。
「いいわ、このままで」笑顔でフィロの方へ振り向く。「待ってて」
いつも通りのセットがテーブルに並び、ぽつぽつと会話が始まる。
「今日はどんな話を持ってきてくれたのかしら。前回は色んな髪の編み方だったわね。その前の時と合わせて、私なりの髪結びも考えたの」
「そうですか。今日は話と言うよりも、お土産を持ってきました」
フィロから袋を受け取ったチューレリアは、開けて良いかと視線でフィロに確認してから、袋の口を縛る桜色のリボンを解く。中に入っていたのは、鮮やかでやや光沢のある組紐をベースに、白練色の玉が付けられている髪紐だった。
「素敵」チューレリアはそれを手に取り良く眺める。「ヒヤシンスの香り。そして、この石は何?」
「白薔薇水晶です」
「白薔薇水晶? そんな仰々しい名前の石なら聞いたことがあるはずだけれど」
チューレリアは脳内の記憶探るように目を閉じるが、紐先が見つからない。
彼女の様子に少しだけ待ち、フィロは口を開く。
「宝石ではありません。そこらの村の畑で見つかるような、ただの石です。しかし、そんな中でもたまに、非常に綺麗なものが見つかります。その石は水晶の仲間ですが、ミルクのような色味で可愛らしいものです。それを売っていたのは幼い少女でしたが、チューレリア様に似合うと思い、その石をアクセサリー細工の店に持ちより、加工してもらいました」
「とても可愛らしいわ。でもこんなものを買ってきてくれるのであれば、髪結びを考えたのは無駄だったかしら」
むすっとした表情でフィロを見るチューレリア。ほんの少し膨らんだ頬袋に暖炉の火の光が当たり、白い肌を橙に染めている。
「そんなことはありません。チューレリア様の新しい髪型は、それはそれで見たいものです。しかし、その可憐さに少しでもお手伝いが出来ればと思ったまでです。もしも気に入らなければ私の方で処分しておきます」
チューレリアは一転して不安げな、寂し気な表情になる。
「妹さんにあげるの?」
「一度女性に振られてしまった可哀そうなプレゼントは一人で泣かせておこうと思います。その内どこかへ行くでしょう」
「遠まわしだけど、捨てるって言いたいのよね?」
「端的に言えば」
少女は何かを考えるように瞳を右へ左へ、波に揺蕩う浮きのように動かしながら、細い指先をテーブルの上で広げようとしたり、テーブルの下に隠して組んだりしている。
「ねえ」ぼそっと「結んで?」
か細い声でフィロに頼みを言う。彼女は恥ずかしそうに俯く。頬の色は橙から桃色に代わっている。
「畏まりました」
フィロは立ち上がり、断りを入れてからチューレリアの背後に立ち、彼女の柔らかな髪をそっと手に取る。
僅かに感じた感触に彼女は僅かに肩を跳ねさせ、更に俯きを深くする。この角度では青年に見られないと思った彼女は無遠慮に、その胸中の感情を顔に表し始める。うなじの部分に指が触れられると肩の筋肉が収縮する。自らの体温の上昇を悟られていないか、それを考えるだけで椅子を立ち上がりたくなる。
頭皮を引っ張られる間隔がまるで、俯いているのを正そうとしているかのようで、それでも彼女は恥ずかしさを隠す為に逆らう。抵抗をするたびに僅かな痛みは生じるが、今の彼女には気にならない。するすると自分の髪が纏め上げられているのがわかる。青年の手慣れた雰囲気に僅かな寂しさを感じながらも、流れに身を任せ、贈られた髪紐が結ばれるのを待つ。
「完成しました。気に入られると良いのですが」
チューレリアはフィロの顔を見ようとはせず、静かに立ち上がり化粧台の鏡の戸を開き、そこに映る自分を見る。正面から、横から、そして少し頑張って後ろを見ようとしていると、小さな鏡を持ったフィロが近付いてきて、チューレリアの後ろに立つ。
「とても、素敵。こんなの初めて」
「ありがとうございます」
「あの、フィロ?」
「はい」
「私、貴方と話していると、とても楽しい」穏やかに笑う。「貴方にお相手がいることは聞いているわ。そして、私は貴族の妻。それでも、初めて芽生えたこの感情を言わせて」
「チューレリア様」
フィロは若干表情を硬くする。
「私、小説が好きなの。ヒロインが男の人と幸せになる話。だから、今のこの気持ちを一言で言える。これが」
「チューレリア様、そろそろお時間でございます」
サルマのやや大きな声が部屋に響く。その声に驚いたチューレリアは思わず言葉を飲み込んでしまい、気持ち悪そうである。
「フィロ様。お戻り願えますか」
「はい」
フィロは複雑な思いを全身で表している女性を背に、部屋を後にする。
残ったサルマは片付けを始める。粛々と行うその行動はあからさまに硬いもので、彼女の主人との間には暗い時間がゆっくりと流れる。
「サルマ。貴女がこういった事をするなんて思わなかったわ」
「何故そうしたかはわかるでしょう?」
サルマは普段とは違う、友人としての言葉遣いになっている。それについてチューレリアは怒るでも驚くでもなく会話を続ける。
「分かるけれど、あんまりよ」
「それでも、私は貴方を守りたいし、巻き込んでしまった彼に対して責任は取るつもりよ」
「私は彼の事が好きよ」
チューレリアは、はっきりとそう述べる。サルマに対する表情は真剣そのものだ。
「先ほどまでの初心な少女はどこにいったのかしら」
「あれは、別に演技ではないわ。彼を前にすると、どうしてもうまく言葉に出来ない。それは本当」
「まさか、ここまで本気になるとは思わなかったわ」
「どうしてよ」
チューレリアは不満げだ。
「貴方が気になった人の中でも一番不愛想な男を選んだつもりだったのだけれど、まさかそれが好みだとはね」
「この気持ちは説明なんかできない。私だって最初はこんな気持ちになるなんて想像してなかったわ。けれど結果こうなった。最早奇跡だとしか思えないの」
「いつから?」
「さあ? もしかしたら、初めてここに呼んだ時からかもね」
「冗談じゃないわ」
「もう我慢しないわ。私はあの人を愛するわ。これからもよろしくね、親友」
自分の部屋に戻るフィロ。彼はゆっくりとした足取りで考え事をしていた。
さて、どのようにするべきか。ここも一つの山と捉えなくてはならない、と。
フィロの意識は中空に漂っていた。その為、正面から来る人物に対して注意が疎かになっていた。
「おや、衛兵がこのような夜更けに何を?」
シャルトは険しく眉をひそめている。
フィロは突然話しかけられたにも関わらず、表情や態度を特別変えず対応する。
「シャルト様こそ、普段はケラニスコ様にべったりだというのに、珍しいですね」
「ふふ、面白いですね。貴方とはあまり話したことがありませんでしたね。いつ頃この屋敷に?」
フィロは話を続けようとするシャルトを訝しく思う。
「一年前です」
「そうですか。もう慣れましたか」
「ええ、まあ」
「そうでしょうとも。こう何度も遊び歩けるのであるのですから」
シャルトは何かを探るようにフィロの瞳を真っ直ぐ射貫く。
「遊んでいるわけではありません。男手がいると言うので手伝っているのです。衛兵長には許可を得ています」
「何もこんな夜中に。一体何を?」
「小さな小屋を建てています。元々その作業を担当していた者が怪我をしたので、代わりにです」
「そうですか」
シャルトはにこりと笑い、一枚の板のような、タキシードに包まれた体を軽く畳む。
「お疲れの所すみませんでしたね。どうぞ」
シャルトは廊下の先を促すように脇に寄り、フィロを通す。
フィロは一礼し、そのまま立ち去っていく。
シャルトもまた反対方向にその場を立ち去る。彼は歩きながら考える。何やら面白い事が起きそうだと。彼の鼻がひくつく。かつて大量に嗅いできた鉄と炎の香りを思い出すように。
夜が明けた。この寒さでは朝露も凍り、雪の中でも葉を出す逞しい草の表面に透明の化粧を施す。屋敷の奴隷たちの一日の始まりは早い。だが、それは奴隷だけではなく、彼らを監督する立場にある者は彼らよりも早く起き、今日一日の仕事の流れについて考えを巡らせなければならない。
ボルテ・ナーシュと言う男はあまり好かれていない。軽薄と言うわけではないが、はっきりと人を選ぶ笑い方は、この屋敷のメイドたちには選ばれなかった。常に麦酒の香りを口周りから漂わせ、酒の摘まみのこってりとした油の焦げた香は落とす気も無いと雄弁に語る服を纏っている。気だるげで、無精ひげを生やしている姿は、およそこの屋敷に相応しくないようだが、誰も文句は言わない。
「やあ、エルガー」
彼が親し気に挨拶を交わすのは衛兵長エルガー・ワット。彼にとっては上司に当たる人物で、決してこのような態度を取るべきものではない。
「最近調子はどうだ」
「最悪だ」
「なんだ、どうした。そんなんじゃ仕事が捗らんぞ」
エルガーは面倒くさそうに眉間に皺をよせ、ボルテの事を指差す。
「髭、服、匂い。お前の不愉快なこれを見せつけられて調子を挙げろと言うのが無理なのだ」
ボルテは脂分の多い髪をわしゃわしゃと掻く。不潔な雪がエルガーの許まで跳ねていく。
「やめろ、いい加減にしないか」
「いや、いや。いいじゃないか。俺とお前の仲じゃないか。大目に見ろって」
「そんなんだから、いつまでたっても屋内警備なんだ。それも人のいない地下牢のな」
「あそこはじめじめして敵わんね」
ボルテは困ったように笑いながら、シャツの裾から右腕を突っ込み、脇を掻き始める。
「いかんせん、虫が多い」
「体を清めて、酒を控えて、与えた給料で服を買い直せ。そうすればもう少し別の場所に転属させてやらんこともない」
「エルガー、そんなことは言わないでくれよ。一年やそこらじゃないんだぜ。人のいない老で一人過ごす寂しさがあんたにわかるかい」
ボルテは喜劇役者のような大仰な手ぶり身振りで訴える。
そんなボルテの様子に思わず自分の肩に手を伸ばし、揉み始めるエルガー。
「体を清める。これはいい。女を口説くには必須だな。これまでいない所に閉じ込められてきたからな。鈍っちまうってもんだ。服もまあ、いいだろ。だけど酒はなあ。まけてくれねえか」
「少しでも苦情が来たら戻すからな」
「それでこそ親友だぜ」
「いつ親友になった。そもそも友人ですらないってのに」
「ん? そらもう、今この瞬間からだぜ、ボス。いやあ、解放は嬉しいものだねえ、何事も」
「次は檻の内側の方が良いか?」
「いや、いや。これは少し調子に乗ったみたいかな」
「そう思うなら自重しろ」
まったく、と疲れたように息を吐くエルガーは立ち去ろうとする。しかし、ボルテの方の用件は終わっていないようだった。エルガーの凝り固まった肩を掴むボルテに不快感を隠そうともしない。特に、自分の肩に置かれているものが右手であることが彼を苛つかせる。
「俺のいない間に何人か新人が入ったみたいじゃないか。俺は恥ずかしがり屋で臆病な兎だからな。紹介してくれねえか」
「何が兎だ。この醜悪なスィルクめ」
「なんだ、しばらく見ないうちに口が悪くなったな、随分。鼠はないだろ」
「で、全員を紹介する暇はないんだが?」
ボルテはニカッと笑う。
「夫人の部屋の方に出入りしてる奴、気になるなあ」
エルガーは心底嫌そうに顔を顰める。
「フィロの事が気になるのか。確かに、あいつとお前は面識がなかったな。あいつは外回り専門でな。去年、いや一昨年だったかな。春ごろに入ってきたのは覚えているんだ。あんまり喋らない奴だが、仕事はいたって真面目。門番に抜擢したのもすぐの話だったと記憶しているな。新人も何人か任せているし、腕も立つから槍の指導もやらせている。評判はいいみたいだぞ。最初はとっつきにくいが、慣れてしまえば案外付き合いやすい人って印象らしい」
「俺のいない間に随分と優秀な奴が入ったんだな。なんでそんな奴がここで働くんだ。もっと良い給料のところあるだろうに。平民なんだろ。出身は?」
「うん、ブラスティボ伯爵領の中の端っこにある町出身だとか言ってたな。あまり大きくないらしくて、俺は聞いたことが無かった」
「なんだ、怪しいな。ブラスティボ伯爵領なら仕事はいくらでもあるだろうし、何よりお前の知らない町出身ってところがな」
ボルテは無精ひげをポリポリと掻く。
「いや、勿論調べたさ。立場上怪しい奴を入れるわけにはいかないからな。で、町は実際にあったし、彼が住んでいたことがあるっていう情報も掴んだ。それ以外に怪しいところが見つからないしな。金ももったいないし、優秀な人材は歓迎するべきだ。だから、入隊を許可した。他に文句はあるか」
「ないさ。お前の真面目っぷりにはいつも舌を巻くな。時間取らせて悪かったな。で、なんだっけ。風呂に入りゃいいんだっけ?」
「とぼけるな。服と髭も整えろ」
ガハハと笑うボルテに体力を取られたエルガーは逃げるようにその場を後にする。エルガーの背中を見守るボルテはにやけた顔をやめ、今着ている服の臭いを嗅ぎ始める。
「そんなに臭いか」