三話
とある子爵家の家証を付けた二頭曳きの馬車がロノウェ子爵邸の門前で停まる。
「お待ちしておりました、子爵」
フィロはいつも通りに中を確認し、呼び出した従者に馬と馬車を任せる。同僚が呼びに行った執事とメイド数名がやってきて、子爵一行を屋敷に案内する。
「やあ、ブルネロ卿。最近はいかがかね」
ケラニスコは両手を広げ、応接間に通されたブルネロ子爵一行を迎える。
「いやはや、陛下の政策には、ほとほと困らせられる。陛下の頭脳についていけるだけの物は持っていないのだからね」
ブルネロ子爵もまた、皺が目立ってきた顔に笑顔を浮かべ答える。
「確かに、陛下は素晴らしい方だ。だが、周りが付いていけないのは問題だね」
ケラニスコは苦笑いする。
「出来ることをすれば、最低限構わんがね」
「さあさ、立ち話もなんだ。座ってくれたまえ」
二人は大きなソファに腰かけ、それぞれ後ろに騎士やメイドを控えさせる。
「寒くて敵わんね。今、温かいものを用意させるよ」
ケラニスコはメイドに指示をする。
「それは助かる。町中を少し移動しただけだが、馬車の中は冷えて仕方なかったからね。これが伯爵以上ともなれば、車内に暖房の魔道具を取り付けられるのだが。いかんせん維持費がね」
「ああ、あれは一度使ってみたが、良い物には必ず裏があることを学ばされたよ。いくら我々でも無視は出来ん金だ」
ケラニスコは苦虫を潰したような顔をして、顎髭を弄る。
「ああ、そうだ。今日来た目的なのだが」
「おや、こうした挨拶はもう終わりかね」
ブルネロ子爵は背もたれに体重をかけながら、でっぷりとした腹を軽く叩く。
「君も解っているだろうに。こういった挨拶は飽き飽きだからね」
「それもそうだ」ケラニスコは口角を上げる。「それで?」
「その前に」ブルネロ子爵はケラニスコの後ろに控える者達、特にメイドに目を向ける。「大丈夫かね」
「大丈夫だ。君の所と同じで、見た目通りではないよ。騎士以外は私の奴隷だ」
「それならば安心だね」ブルネロ子爵は二重顎を触る。「今度のオークションはどうするかね」
「勿論出るに決まっている、と言いたいところだが、今気に入っている子で手いっぱいでね。行っても買わないし、それならばあの子と一緒に居たい」
「ほう、君がそこまで気にいるなんて珍しい。大概はオークションの周期で売りに出しているというのに」
「実は、最近知り合った奴隷商から紹介されてね。かなり値が張ったが、良い買い物だった」
「ぜひ見てみたいものだ。今度の集会には連れて行くのかい?」
ブルネロ子爵は肉で埋もれ始めている目を細める。野獣のようにも見えるそれに、ケラニスコに親しみの念をしっかり感じていた。
「勿論だとも。あれだけの子を自慢しないわけがない」ケラニスコは、ぱんと一つ手を叩くと。「そうだ。あの奴隷商に君の事を紹介しよう」
「いいのかい? 私は嬉しいが」
「いやはや、彼の奴隷商にお願いされているのだよ。紹介すれば安くしてくれるというしね」
「そうかい。ならば頼もう」
ところで、と言いながら、ブルネロ子爵は紅茶を啜る。そして、胸元から一通の便箋を取り出す。
「これが今回の招待状だ。開催は明後日、会場は前回と変わらんよ」
「いつも済まない。これを受け取るには、ここの立地は不便だからね」
「心中察するよ。さて、今回は後ろにいる奴隷を連れて行こうと思うんだ」
ブルネロ子爵が親指で後ろで待機しているメイド一人を指す。指されられたメイドは黙って一礼する。
「ほう、卿らしく、とても可愛らしいメイド姿だ。本人のクオリティも素晴らしい」
「そうだろう」機嫌良く話を続ける。「偶々見つけたのだがね。調教には苦労したのだよ。ここだけの話、この奴隷はカリュガ人でね」
「なんと、それは珍しいものを手に入れたものだ」ケラニスコは驚きに目を見開く。「それも、この年の頃となると、値が張ったのではないかね」
ブルネロ子爵は、くつくつと笑う。
「確かに値は張ったが、曰く付きでね」
「ほう」
「檻で見た時は、まだ調教されていなかったんだ。調教師でも骨が折れるとか言っていてね。噛みつきかねん程の獰猛さだったから、買い叩いてやったのさ」
「それはなんとも幸運なことだ。調教如きで安くできるのであれば、さした問題ではないな」
「ふむ、この通り見事に成功してね。私の好み通りだよ。明後日のお披露目が楽しみだ」
ブルネロ子爵子爵が左手を頭の横まで持ち上げ掌を上にすると、カリュガ人のメイドはそこに顎を乗せる。満足そうにブルネロ子爵は笑いながら、カリュガ人特有の赤髪を右手で弄び始める。
「誇り高き種族で有名なカリュガが、部屋飼いの犬のように大人しいとは。お見逸れしたよ」
「そろそろ、君の奴隷を見させてもらいたいのだがね」
「ああ、勿論だ」ケラニスコは手元のベルを三度鳴らす。
入口とは別の、部屋と部屋とを繋ぐドアを開けて出てきた人物は、白いタオル生地のローブに身を包み、深く被ったフードから透き通った純白の髪を垂らしている。
「もったいぶらせおって。早く近くで見せてくれないかね」
ケラニスコは自信満々に、それはもう、相手の反応を楽しみにしている少年のような表情をしている。
「ルノ」
そう呼びかけられたルノは、彼の座っている横に歩みを進め、ブルネロ子爵へ体を向けると、フードを脱ぐ。そして、声が出る間も無く、空中を葉が落ちるように、ローブをするりと落とす。
「なんと」
ブルネロ子爵は言葉に詰まる。触っていたお気に入りのメイドの事も忘れているようだ。
「素晴らしい、素晴らしいよ!」ブルネロ子爵は手を叩く。
メイドはゆっくりと元の姿勢に戻っていく。自分への関心が薄まり、主人の邪魔をしないようにとの配慮だが、個人的には目の前の奴隷に目を奪われていることに悔しさを感じていた。
「悔しい、悔しいが今回は君の一人勝ちかも知れん。幸運なことに、私の趣味ではないから奪おうなどとは思わんが、他の輩は分からん。十分に気を付けた方がいい」
「ご忠告感謝するよ。勿論、会合には優秀な騎士を連れて行くつもりだ」
「はあ、それにしても美しい。かの有名な、夜街の主をちらと見た時と同じだけの衝撃を受けたよ」
ブルネロ子爵の言葉に、一瞬だけルノの表情が動く。それをこの場にいる誰もが気付かなかった。そう、誰一人として。
ブルネロ子爵は満足げな表情を最後に帰路に付き、屋敷内は緩やかに静けさを取り戻しながら、冷たい夜を迎え、それに備える。
応接間に居たケラニスコは一人、執務室で机に向かい、この日一日の書類仕事を淡々とこなしている。そして、彼は動かしていた地味色の羽ペンをピタリと止め、僅かに散らばる書類そのままに立ち上がり、部屋の横にある本棚の仕掛けを発動させ、開いた空間を進んでいく。
ほんの数メートル歩いた先には、流れる蕩けるようなアロマと、数本の橙揺らめく燭台だけの光源がテラス天蓋付きのベッドを認識させてくれる。そして、少し視線を上げていくと奴隷が居た。
「お待ちしておりました」
ルノは中性的な声で語りかける。「今宵は如何様になさいますか?」
ルノはまるで幽鬼のように見える。弱い光のなかで、ルノの白さは不気味さを醸し出しているのだ。纏うのは編み目の大きいシルクのネグリジェ。
「いつも通りだよ、ルノ」ケラニスコは歩み寄る。「いつも通りなのさ」
ルノはベッドから降り、甲斐甲斐しくケラニスコの服を脱がしていく。ケラニスコはそんなルノの様子を見る。足先から上へと視線を動かし、金属のチョーカーで止まる。ケラニスコの物であるという証に。
「ルノ。私はとても誇らしいよ。若かった私を導き、この道を教えてくれたブルネロ卿を驚かせることができた」
「ええ」ルノは、にこりと笑う。「僕もとても嬉しかったです。彼の方の驚き様と言ったら、今までで一番の快感でした」
ルノが服を全て脱がし終え、産まれたままの姿になったケラニスコは、服を畳むルノの肩を掴み、半ば強引にベッドへと押し倒す。ルノが手放しはぐったケラニスコの上質な服がベッドの上に広がる。それを邪魔だと言わんばかりに、ケラニスコはそれらを無造作に床へ放り投げる。
「ケラニスコ様」
シルクのシーツに皺を作りながら、四肢を広げ脱力しているルノが囁くように言う。
「良いのですか?」
「何を今更。もう戻れない所まで来ているのだ。それほどまでに美しく、魅力的な君と言う名の快楽の沼は深い」
地方を治め、戦争となれば武官として働くブルネロ子爵の家とはケラニスコの父の代からの付き合いだ。違う寄り親を持つ者同士だったが、とある小さな戦場で小役人として働いていたケラニスコの父と馬が合い、ブルネロ子爵は領地経営から学び取った文官の能力をケラニスコに教えることを約束した。
ケラニスコは、子爵の中では重要な仕事を任されるほどには優秀であり、ブルネロ子爵から教わった事もあり、領地経営する貴族の中でも、武官としての地位を持つ者からは好かれている。反対に、王城や大きな町での仕事をこなす宮廷貴族からは距離を取られている。
「お前は私の物だ」
「はい、御主人様」
ブルネロ子爵から夜遊びすらも教わった彼は、ブルネロ子爵の事を尊敬している。同じ子爵家とは言え、格が違う事をしっかりと分かっている。今日の会合での言葉遣いは親しみから来るものであり、決して貶す物はない。
「ああ、最高だ。いつまでたっても君は変わらず。こうして地に足を付けていてくれるんだね」
「はい。僕は変わらず、居ますよ」
ケラニスコは子爵として優秀だ。妻がいるにも拘らず行う夜遊びも、貴族では珍しくない趣味である。ただ一つ、彼の欠点を挙げるとすれば、ブルネロ子爵から教わった夜遊びの性質。彼は、貴族としての役目を一つ果たすことができない。彼の男性が女性に反応しないのだ。彼は今まで、男娼以外を抱いたことがない。
今日はフィロとチューレリア密会の日。吹き降りてくる風が小さな雪玉を運んでくる。日光がそれらを丸く照らす。
フィロは迎えに来たセルマと共にチューレリアの部屋へと向かう。
「そろそろ来るのかしら。そうよね、さっきセルマが出てから結構時間経ってるし」
チューレリアは化粧台の前で髪型の気に入らない所を直している。化粧台には数種類の香水の瓶が並んでいる。その中で、彼女がセルマに相談しながら決めた物の蓋が開いている。開けたままになっている鏡の下の小さな引き出しには、やはり数種類の紅があり、その中で二種類だけが放っておかれ、水分が飛び始めている。
「何だかここが気に入らないのよね」
油を手に取っては、気になる箇所に塗り、好みの髪型を作り出そうとする。しかし、その度に鏡に映る自分の髪に宿る照りを見て後悔を募らせる。しかし、決まらない髪型に業を煮やしたのか、髪を纏めようと髪紐を取り出そうとしたとき、いつも入れている所にそれがない事に気付く。
「あれ、おかしいわね。セルマがどこかにやったかしら」
どこにあるかと、化粧台の引き出しを開けて調べようとしたところでノック音が聞こえてくる。
「チューレリア様、お連れしました」
「あっ、えっと」
髪型も決まっておらず、化粧台の上の片付けも済んでいない状態でいれるのはまずいと、少し待つように言う。そうすると、何かを察したセルマが部屋に入ってきて片づけを手伝い、さして間を置かずにフィロを部屋に招くことができたのだった。髪紐の行方は未だわからず。
箱入り娘の気まぐれ。この出会いはそれに尽きるのだろう。フィロが選ばれたのは全くの偶然だったのだ。偶々目に留まっただけ。
初めてフィロを部屋へ招いた時、彼女の中で彼の印象は特に無かった。話し相手が増えたという認識でしかなかったのだ。しかし今日に限って言えば、それは覆させられる。それは決して思春期の少女のようなものではない。ただ、約束をし、時間通りに話し相手が来たというものに対して、彼女は友人ができたような錯覚に陥ってしまった。それはひとえに、普段の話し相手がセルマしかおらず、それ以外の使用人は窓から眺める他無かったところに起因する。
「あ、あの。いらっしゃい」
チューレリアは少しどもりながらも、きちんと微笑めていた。フィロの後ろに立つセルマに目配せし、僅かに頷き合う。
「お邪魔致します」フィロはチューレリアを一通り見る。「今日もお美しいですね」
フィロの言葉に、チューレリアは心動かさない。社交界に出ればまず初めに聞かされる言葉だ。慣れぬ方が難しいというもの。
「さあ座って。今日もお話ししましょう?」
「はい、失礼します」
席に着いたフィロを見て、視線が同じになった彼女は改めて彼をよく見る。比較的端正な顔つきで、冷静そうな瞳が白銀髪の下にある。平民らしい質素なシャツとズボンの姿は、夫人の部屋にいる人物としては違和感が強い。しかし不思議な事に、彼の雰囲気はそれを補っているのだ。
「今日はいい天気ね。この風景は何度見ても見ものよね」
「そうですね。雪を被っている山脈の麓にあるこの王都でしか見られないものですから」
「そうなのね。私は実家とここしか知らないから」
「知り合いに他の国出身の者が居ますので、良く驚く様子を見ます」
たかが天気の話でも、彼女にとっては楽しかった。セルマは彼女と同じ場所で同じように学び、同じように暮らしてきた。話題などとっくに尽きている。
「実はね、お気に入りの髪紐があって、それで髪を結ぼうと思っていたのだけれど、どこかに行ってしまって。恥ずかしいわ」
「チューレリア様は髪を下ろされていても、十分魅力的だと思います」
「そう言ってもらえると助かるわ」
「髪紐で結ぶのがお好きなのですか?」
チューレリアは少し驚く。何を当然なことを聞くのかと思ったのだが、目の前の人物はこれで二回目なのだと言い聞かせる。交流の狭さは様々なところに弊害を齎しているのだと、彼女は溜息を漏らす。
「どうかされましたか」
「いいえ、何でもないわ」
「そういえば、髪を結ぶことはされないのですか?」
チューレリアは目の前の少年が何を言っているのか理解できなかった。髪を結ぶこと即ち、髪紐で結ぶことだろうと。
「妹は紐がなくとも、様々な髪形を楽しんでいますが」
「妹さんがいらっしゃるのね。それに、紐を使わないの?」
新しい情報に心を躍らせる彼女は、言葉が少し早くなる。
「ええ、14になります。あの子は背中まで髪を伸ばしていて、それを様々な形に編んだりして遊んでいます」
「私もほら、これだけ長いでしょう?」チューレリアは自らの長い髪をさらりと撫でる。「普段は紐で結んでおくだけで、お客様の対応の時には油で固めてしまうし」
「チューレリア様、貴族としてはごく一般的だと思いますよ」
セルマは紅茶の準備をしながら、そう言う。
「ええ、けれど油は落とすのが大変なのよね。その後の手入れも大変だけれど」
「それらをしているのは私ですが? チューレリア様」
「自分でやるときもあるじゃない」
「私の記憶では一、二度ほどで諦めていたかと」
チューレリアは頬を朱に染めながら、言い返す言葉を探す。
微かに、フィロの笑う声が聞こえた。
「仲がよろしいのですね。まるで友人のようです」
「セルマは友人ではないわ」チューレリアはポットを運んできたセルマを見上げる。「幼馴染であり、親友であり、姉妹であり、そんな掛け替えのない存在。友人なんて陳腐な言葉に収まらない想いを私は持っているの」
「身に余る思いです」セルマは朗らかに笑みを浮かべる。「ですが、彼女が持つ想いと同じだけの物を持っていると自負しています」
「確か、チューレリア様は男爵家の御令嬢だったとか。珍しい御関係ですね」
「そうかしら」チューレリアは肩を竦める。「比べる相手がいなかったからわからないわ。でも、幼い頃に私付きのメイドとして、準男爵家のセルマが来た時は、こうなるなんて想像もつかなかったわ」
「本当です。まさか、自分よりも先にチューレリア様がご結婚なさるだけでなく、私まで行くことになり、今季を逃しかねません。この状況では希望がありませんがね」
「後悔してるの?」チューレリアは恐々と。
「聞かずとも察してください。何年の付き合いですか」
「でも」
セルマは気の弱い妹分に困ったような表情を隠さない。
「素直になってあげれば良いではないですか。言葉とは力が宿ります。それは相手へと伝わり、確かな熱になります」
セルマは溜息をつき、俯いているチューレリアの肩に手を添える。
「後悔なんてありません。むしろ、貴方を見送り、のうのうと暮らしていることを想像するだけで吐き気がします。私はまだまだ、妹離れができない身なのですよ」
チューレリアは花咲くように雰囲気を明るくし、嬉しそうにセルマの手を取る。
「ありがとう」
ポットの紅茶はまだ冷めない。部屋は暖炉の火によって暖められている。時折、薪の弾ける音が聞こえてくる以外は、全て雪の中に溶けていっている。ああ、風が窓を叩く音は例外として、三人の話す声は弾むように明るい。
「それでね、セルマったらお父様に出す紅茶の茶葉を間違えて、しかも砂糖じゃなくて塩を入れてたのよ。もうかんかんになったお父様に対して、もうしませんって涙を流すの。でも、すぐに舌を出していたのを私は見逃さなかったの。そこからかしら、他とは違うって思ったのは」
「ええ、ええ。昔話はさておき。夜も深まってきました。明日に障りますので、ここらでお開きにしましょう」
セルマは何かを気にするように片付けを行っている。
「万が一にでも、ケラニスコ様のお母上に知られては事ですからね」
「それもそうね。ねぇフィロ。もしよかったら、今度は妹さんのお話を詳しく教えてくれないかしら。私の妹たちとは殆ど会えず終いで、思い出が無いの」
「畏まりました。髪の編み方も一緒に聞いてきましょう。連れてくるのは難しいので、私が覚えてきます」
「ありがとう。楽しみにしているわ」
セルマがフィロを送っていくのを座って眺めているチューレリア。少し淋しそうな視線は幾方へと動く。しかし両手を揉みながら、口元は弧を描いていく。再会の約束を取り付けた、そんな子供のようなことが、彼女の心を支配している。暖炉の薪がまた一つ弾ける。
フィロのブーツのかかと部分が石畳を叩き、浅く積もった雪に黒い後を残していく。風が肌を刺す。フィロはフードを深く被り直し、胸元で腕を組むようにして寒さを凌ごうとする。音が早くなる。一度だけ別のリズムが混じったが、特に寒くなるこの時間帯。人はいない。
小一時間過ぎて、やがて足音が響かなくなる。王都と言えど未だ全てが石畳と言うわけではない。花屋の横の道を抜けていくと、所々崩れているところを木の板で張り付けたような家々が現れる。その中の一つ、特別酷い外装というわけでもないが、良い物とも言えない家の戸を開ける。
「お帰りなさい」
中から少ししゃがれた女性の声が聞こえてくる。中に明かりは無い。段々と暗闇に慣れてくると、一間しかない家の奥に簡素なベッドがあり、その上に短い髪で痩せの女性が座っている。
「テーブルに少しですが、食べるものを作ってあります。よろしかったら食べてください」
「そうか」
「フィロさん、今日はいかがでしたか?」
フィロは答えることなく、着ていたものを脱ぎ、壁に掛けていく。
「今日はゆっくりできるのですか?」
女は縋るように、羽音の如き声を出す。
「どうして欲しい?」
「温もりが欲しいです」
「準備は?」
「既に」
行為の最中、女は幾度も嬌声を上げた。それは悲鳴のようにも歓喜の声にも聞こえたが、それは本人にしかわからない。週に一度帰ってくる夫を待ち続け、一人で出歩けぬその身では淋しさが募るばかり。この日この時間は、彼女にとって唯一暖炉に火が灯る。家に帰ってこない夜、夫が何をしているのか彼女は聞かされていない。聞いても教えてくれない。しかし、彼女は不満を訴えたりはしない。週に一度でも、こうして幸せなひと時を過ごせるのであれば、この人を夫と呼び、妻として振舞えるのであれば、この欺瞞に満ちた襤褸家も豪邸に思える。凍えて死にかけた道端の娼婦にとって、この嘘は大した罪にならないのだ。