6. 離陸妄想
彼に導かれるまま中庭を歩いた先には、背もたれのない小振りなベンチがあった。
木製で、手触りがよい。わたしと彼は、そこに腰を下ろす。
陽のよく当たる、過ごしやすい場所だった。
周りにはいろんな年頃の男の子や女の子がいて、わたしをちらちら見ては去っていった。
翼のないわたしが、よほど異常で奇妙な存在のようだった。
「この『病気』の治療法の話って、聞いた?」
彼は言った。わたしは頷く。
「いちおう」
「三つの方法がある。在宅と長期入院と、手術。この辺にいるおれぐらいの翼を持った奴らは、ほぼみんな長期入院療法。ここに何年も閉じこめられて、何にも出来ないまま十代を終える、かわいそうなだろ」
彼は疲れた目つきのまま、そう話した。
「でも、ほとんどの子は手術で済ませるよ。おれはここに入って四年ちょっとになるけど、手術による短期治療が失敗したなんて話は一度も聞いたことない。みんな手術の後、二週間もすれば無事に退院してく。だから怖がる必要なんてない」
淡々と話す彼の視線の先には、張り出した木の枝があった。
そこには、一羽の小鳥が留まっておどおどと辺りを見廻していた。
彼は続ける。
「そう弟に伝えればいいんじゃないかな」
「でもたぶん、わたしが言ったら信じてくれないので」
わたしは俯いて応えた。いつだってそうだ。
わたしが中学校に通っていた頃も、いや、小学生の時ですら、わたしの言うことをまともに信じてくれた人なんて一人もいなかった。
実際不思議なくらいだった。どうやら、わたしが発言すると、どんな事実でもまるで嘘のように聞こえるらしい。
ユウくんは深々と溜息を漏らすと、さらに話を続けた。
「というか……治らない人なんてほとんどいないんだよ。医者は脅かしてるだけ。長期療養って言うけど、おれらだってここで安定した状態で放っておかれているようなもんなんだから。多少のケアはしてもらえるけど、それだけ。収容所みたいなもんだよ。街中に翼付けた人間がうろうろしてたら迷惑だから、ここに入れられてんの。大半の人間は、処置しようがしまいが、そのうち自然と『解脱』するんだ」
「解脱?」
「翼が取れること」
かさぶたがなくなるみたいに翼が取れる日がそのうち来るんだ、ここはそれを待つための施設、と彼は一息に言ってのけた。
「だから普通なら、よっぽどの手違いがなければ翼は取れる」
「よっぽどの手違いがあると、どうなるんですか?」
そこでわたしは本当に何気なく、そう尋ねた。
さっきから彼の言葉には、端々にやたらと条件が付いていて気になったのだ。
「ほとんどは」「大半は」「普通なら」。
だったら、その例外はどうなるというのだろう。
彼はわたしの言葉を聞いて、わずかに苦い表情を浮かべた。
「……マコトみたいになる」
「マコト?」
「こないだここに来たとき聴いただろ? あの大きな音。あれは、マコトが墜ちた音だ」
ユウくんは正面を向いたまま、そう言った。わたしは身を固くする。
あの時聴いた鈍く重い音が、耳に蘇る。
「……マコトは、おれと同じ長期入院療法だったんだけど、この間から『最終段階』に入ってた。『最終段階』っていうのはつまり、翼が最大化して羽も生えそろって、身体的な変化が完全な状態になると、次のステップとして、心が変化することをいうんだ。医学的には、翼の形成過程で出来た副産物が脳神経系に作用して思考力・判断力の低下を引き起こす、ってことらしい」
「……」
「すると、『ひょっとしたら自分は翼を使えば空へ飛び立てるんじゃないか』という気持ちになってしまう。これを専門用語では『離陸妄想』って呼ぶ。結果として何も考えず、何も見ず、その場から走り出して、高い場所から空へ向けて飛び立つ。でももちろん人間の体は本来翼で飛べるようには出来ていないから、少しの間くらいは滞空できるかも知れないけれど、たちまち墜ちて、死ぬ」
ユウくんは大した感情も交えず、そんな話をした。
「とにかく翼人症候群は、そういう『異常』を引き起こすから、『最終段階』に入るとその間は専用病棟の病室の中に完全に閉じ込めて、場合によっては拘束着とかを着せて、一切動けない状態にするんだよ。そうして乗り切る。その間は尋常じゃない苦しみがあるらしくて、たまにここではその段階に至った患者の叫び声が、病棟から響いてくることもある」
――でも、ごく稀にそんな拘束に失敗すると、患者は飛び立つ。
そしてマコトはそれだったんだ、とユウくんは相変わらずつまらなそうに言った。
わたしに言えることなど何もなかった。




