16. 腕や脚を失ったときのように
「遊びって?」
「バスケは遊びだろ?」
「……それは、そうだけど」
困惑するわたしをよそに、弟は肩をすくめた。
「いつまでもあんなこと、やってらんないじゃん」
「……」
「こうやってさ、入院して思ったんだよ、俺。普段俺ってだらだら時間過ごしてるけど、そういう自由な時間って、いつまでも続くものじゃないんだな、って。
バスケとか、そういうどうでもいいことやって遊んでられるのも、限りのあることなんだよ。そう思うと、身体が治ったからって前みたいに何にも考えずに遊ぶ気にはなれなくって」
「……」
「もちろん、バスケを辞めるつもりはないよ。でも、今までほどは力を入れるつもりはないんだ。あくまで運動、友だちとの付き合いのためというか。
もっと他に、今しかできないやるべきことがあると思うんだよ。そっちの方に時間と気持ちを使いたいなって、そう思うようになって……。
翼ってさ、生えてみると分かるんだけど、すごい重いんだよな。だから、取れるとその分すごく気持ちが楽になる。必要ない、余計なものまで翼と一緒に持ってかれたような感覚があるんだよ」
弟は優しげな目つきで正面を見据えながら、自分の気持ちを語った。とても落ち着いた、真摯な態度に思えた。
なのに――話を聞けば聞くほど、わたしは所在なく不安定な感覚に襲われていった。
どうしてなのだろう。ものすごく違和感がある。
弟の言っていることは筋が通っているし、正しいと思うのだけど、でも何か、強い違和感、もっと言えば――不快感、いや、一種の嫌悪感があった。
弟は微笑んでいる。ふわふわと軽く、浮き上がったような雰囲気を醸し出している。根もなく、内面もなく、ただただ善良な匂いを漂わせている。
「胸の辺りに澱んでた毒素みたいなものも、全部翼が取っていったのかも知れない。姉ちゃんも、一度生やしてみたら楽になるんじゃない?……どしたの、そんな変な顔して」
「コータ。あんた、そんな性格だったっけ?」
「はぁ? 何それ。俺は前からこんなんだって。でもまあ……翼がなくなって、少しは考え方が変わったかも知れないな。
とにかく、スッキリした感じなんだよ。腹の中のどろどろしたものが、みんななくなったみたいな。
それっていいことだろ? とにかくこれからは、もうちょっとちゃんとした人間になろうと思うよ」
弟が前からこんな人間だったか、正直わたしには断言することが出来ない。
ここ数年は週に一、二回、用があるときだけしか話していなかったし。
以前はもっと、静かで少し冷たいところのある子だった気がする。
でも――ひょっとしたら本当に前からこういう性格で、今度の手術をきっかけに、わたしに対しても普通に接してくれるようになっただけなのかも知れない。
本人が言っているように。わたしには分からない。
けれど、こうも思う。
たとえ病気がきっかけで生えた翼だったとしても、身体の一部であることに違いはない。大きさからすれば、腕や脚にも匹敵するぐらいの割合を占めているだろう。
それなら――そんなものを取り去ってしまったら、性格や心にも影響を及ぼすんじゃないか?
ちょうど、腕や脚を失ったときのように。
「姉ちゃん、ホントどうしたの? 深刻そうな顔して」
弟は再び、愛らしい表情で微笑んだ。
そのとき、わたしの背後から医者と父さん、母さんが戻ってきた。
まるで、わたしがいないみたいに弟のそばへ近寄った父さんと母さんは、弟に心から晴れやかな顔で話しかけている。
何を言ったかは分からないが、それを聞いて弟は頷くと、ベッドから身軽に降りてみせた。
薄いカーディガンを羽織り、立ち上がると、父さん母さんと一緒に部屋から出て行く。
弟は終始、にこやかに振る舞っている。
もちろん、今のわたしの妄想は、確かめようのないことだろう。人の心なんて、伸ばし過ぎた髪を切ったって変わる程度のものなのだから。
だから、わたしが心配しすぎているのかも知れない。
でも、少なくとも弟は確実に翼と共に、何かを失ったと思う。
「姉ちゃん、先行ってるよ」
弟の声に、わたしは振り返りもせず頷いた。そうしてみんなは、わたしを置いてどこかへ行ってしまった。
窓から射し込む陽を浴びながら、わたしは弟のいなくなったベッドを眺めている。
そして、ここへ入院する前、待合室で見た弟の背中の膨らみを、わたしは思い出す。撫でたくなる、なだらかで柔らかな形。
結局、弟の翼が何色になるかは、分からないままだった。