『銘キ』
(9)
幻を見た。
小さい時の記憶だ。
彼の世界は全て白黒だった色など見たこともない。
「――」と彼は白黒の世界で男の顔を見あげた。
ひどく懐かしい顔のはずなのにまるで波打つ水の様に揺らいで輪郭さえ掴めないそれは誰だったのだろう?いつから自分は色を知ったのだろう?黒い闇が目の前を包んでフラッシュバックの様に写真が流れる。白い部屋と白いベッドに横になっている子供が見える。彼の瞳には何も映っていない。ただ、人形のように天井を見つめている。
次の写真は灰色に染まる空。
空以外に何もない。白い雲がわたあめのように浮いている。次は写真ではなかった彼はうつぶせでベッドに寝ていた。白衣を着た男がこちらに注射器を向けているその注射器の中には赤い液体と黒い液体。その液体だけリアルに色がついている。
男は彼の体にそれを打つ気らしい。「やめて―」と彼は呟いた。
彼にはそれが自分を化物にする薬だと知っていたから…必死に逃げようとした。しかし、体はおろか声すら出せない。
嫌だ嫌だ…彼は泣き叫んだ。しかし、声も体も動けない。彼の体にそれがいれられた。ひどい痛みがした。
いやだぁぁぁぁ…
と関根は飛び起きた。
「びっくりした!お兄さん…びっくりさせるなよ」とお茶を飲みながら早奈は関根にそう怒鳴った。
「名刀。関根が目覚ましたよ?」と早奈はお茶をすする。
「うん?ちょっと待て今、手がはなせない」と普通の日常的な言葉が返ってくる。
ここはどこだっけ?と思っていると早奈がお茶を眺めながら言った。
「ここは私の家、お兄さん意識朦朧としていたみたいだから覚えてなくてもおかしくないね」地下通路から抜け出し、見知らぬマンションまで車で移動したところまで覚えている。
ここがあの大きな高級マンションのようだ。「今日は何日だ?」ここに来たのは深夜だったはずだ。
「今日?4日よ。あれから3日たった」と早奈は左の頬に大きなガーゼを貼った顔でそう言った。彼女の顔にはたくさんの切傷が残っていて一瞬であの時、自分を守るために負ったものだと分かった。
「その傷…」と関根がそう呟いた瞬間、「ほれ、お昼出来たぞ」と赤い髪の男が部屋に入ってくる。
彼は関根を見るとエプロンを外し早奈に渡すと早奈の座っている椅子の隣にある戸棚から何かを取りだそうとして「まぁ、いいか」と呟いて戸棚を元に戻して言った。
「関根も食うか?」何を?と関根が聞く前に早奈が言った。
「お昼に名刀がとまとスパゲッティ作ったから食べるか?」なるほどと思った瞬間、関根が返事をする前にお腹が返事を返すようにぐぅと鳴いた。
「食べるみたいだよ」と早奈は名刀にそう返した。
「じゃあ、下に降りて来い。」と彼は面倒臭そうに用件だけを言うと部屋を出ていった。
「うん」と早奈は返事を返し松葉で体を支えながら立ち上がる。
関根も立ち上がった。3日も寝ていたせいか頭がクラクラする。
足元がおぼつかずよろめき傍にあった椅子に手を着くと早奈が言う。
「人って長く横になっていて突然起き上がると貧血起こすんだって気をつけて」はやく言って欲しかったと思いながら椅子にしがみつき頭に血がまわるのを待つ。
貧血が去った頃、早奈が尋ねた「もう平気か?」どうやら早奈は関根の貧血が治まるのを待ってくれていたようだ。関根がうなづくと早奈は関根に背を向けて部屋を出る。関根は彼女の後について行った。