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神魔の王

神魔の王 収章

作者: 矢崎大輔

 橋の上を渡る人々の多くは、異様な恰好をしている。中世ヨーロッパの貴公子・貴婦人のごとく豪奢(ごうしゃ)な正装・ドレスを身に着けているのは、本物の金持や貴族たちだ。白や黒、青や緑やオレンジなど、カラフルな衣装の上には金や銀の刺繍が輝いている。ドレスは肩幅の三倍近くあるものばかり。頭飾りは頭の五倍以上、それと同じ大きさの扇子を優雅に揺らす貴婦人まで歩いている。

 そんな彼らの、しかし顔を見ることはできない。彼らはみな仮面を被り、見せびらかすように町を散策する。同類同士で会話を楽しみ、ときにはベンチに腰かける。

 貴族たちの豪奢な姿に魅せられて、街の住民や観光客たちは歩みの速度を緩める。カメラを構えて、記念の一枚を求める者も大勢いる。貴族以外の彼らもまた、仮面を被ったり、顔にペインティングを施していたりする。

 いまこの街ではカーニバルが行われていて、土産屋(みやげや)だけでなく、露店でも多くの仮面が並んでいる。広場のほうでは、顔にペインティングを受けている人の姿もある。

 カーニバルは二月の頭から二週間かけて行われる。貴族たちは厚手の衣装を、他の人たちもマフラーやコートを着込む中、響彩(ひびきさい)だけは普段通り、春先にでも着るような黒の上下。防寒といえそうなのは両手を覆う白い手袋くらいだが、それも冬用ではないので、あまり意味をなさない。

 彩は観光に来ているわけではない。日本の観光客もちらほら見受けられるが、彩は橋の上、他の路上販売店と同様に、広げたシートの上で仮面を並べている。東洋人の店員が珍しいのか、これといって呼び込みをしない彩の店にも、何人か立ち止まっていく。

 仮面を手に取るとすぐに買っていく客もいれば、長々と彩の身の上を訊いてくる人もいる。バイトかなにかか、こっちに来て長いのか、普段はどういう生活をしているのか、等。英語で訊かれれば英語で答え、他の言葉で訊かれればその国の言葉で答える。あまりにも彩が流暢だから、相手も遠慮なしに話を続ける。質問だけでなく、単なる雑談、この街のことや、それこそ客の個人的な話まで。客はどこから来たのか、誰と一緒に来たのか、どこそこで素晴らしい仮装を見た、等々。

 彩としては相手のお喋りに付き合っただけなのだが、海外の人間でここまで話ができるというのは珍しいらしい。自然と人が集まってきて、仮面は次々に売れていく。お昼をいくらかすぎたところで、持ってきた商品は全て完売してしまった。彩は袋にシートを戻し、仮面の陳列用に置いた鞄を閉じていく。

 彩は気配に気づいて振り返った。背後一メートル内に置いておいた売上金を入れたケースが、なくなっている。視線を上げると、十メートル先に薄着の子どもの走る姿が見える。

 ――スリか。

 海外生活を始めた最初の頃は、すられたことに気づかず、帰ってからモノがなくなっていた、なんてことが何度かあった。そこから学んで、普段の生活でも彩は周囲に気を配るようになってしまった。

 橋を渡り終えた子どもは通りを横切って、路地裏に入ろうとしていた。この辺りは大通りを外れたところに路地裏が多く、一度入られると見つけるのは困難だ。

「…………」

 彩はすぐに走り出さず、眼鏡の上から子どもを、その足元を注視した。

「――――ッ!」

 路地裏に入る寸前に、子どもは盛大に転んだ。人々は道の真ん中を歩く貴族たちに夢中で、路地裏に消えた子どものことなど、誰も気にかけなかった。

 彩は走りだし、子どもが入った路地裏に向かった。子どもは路地裏の入り口で倒れており、道の先には彩の所持品であるケースが落ちていた。

 子どもは痛みに顔をしかめたまま悪態を吐いていた。この国の言葉で、彩にも理解できた。

 足音に気づいて、子どもは振り返った。もう、一メートルもないところに、彩が立っている。子どもは叫び声を上げながらも、走り出そうと身体(からだ)を起こし、前のめりで前に出る。

「あっ…………」

 だが、子どもは走ることができなかった。再びつまづいて、路地の上に倒れてしまう。

「…………」

 彩はすぐに子どもへの視線を切ると、子どもを追い越して道の上に落ちたケースを拾い上げた。鍵はかけておいたから、金は零れていない。衝撃で多少凹んだが、もともと傷だらけなので、いまさら気にしない。

「今日は見逃してやるから、もう帰れ」

 倒れた姿勢のまま、子どもが彩を見上げてくる。彩の視線に、子どもは青ざめて走り出す。大通りに戻って、そのまま人混みの中に消えてしまう。

 彩もまた大通りに戻って、駅へと向かう。この華やかな街には、そこそこスリが現れる。手持ちのケースはもう狙われないだろうが、財布が入っているポケットは鞄を盾代わりにする。街の賑わいはまだまだ続くが、用の済んだ彩は帰路につくことにした。


 電車とバスを乗り継ぎ、ほとんど登山に近い道を彩は歩いていた。これまで誰ともすれ違わなかったのは当然として、山の入り口まで人っ子一人見かけなかった。それくらいの、山奥。

 途中までは舗装された、人が歩くための道があったが、彩は道を外れて、もう三十分以上も道なき道、岩肌がむき出しの上を歩いている。

 彩は呼吸一つ乱さない。もう三か月近くもこんなアスレチックを続けていたら、いい加減慣れるというもの。いや、それ以前から、彩は様々な秘境を歩いてきた。

 ――いや、歩かされた、か。

 鳥の声でさえ、ここには遠い。霧が立ち込めてきて、普通の人間ならとうに引き返しているところ。だが彩は、さらに三十分近くかけて、そのコテージを見つけた。

 木々に隠れて、遠目でも見つけることは困難。そのコテージは雪対策のためか、屋根の傾斜は急で、地面から一メートル離れている。階段を上って、彩は扉をノックする。

 返事はない。しかし彩は決められた手続きのように数秒待って、それから扉を開ける。鍵はかけられていない。土足のまま、彩はコテージの中へ入っていく。

 入って目の前にテーブルがあり、奥には同じテーブルが置けるだけの空間がある。彩に与えられた場所はそこで、寝袋や旅行バッグが置いてある。その空間の隣にバス・トイレがあり、テーブルの左手には簡素な台所、そして二階に続く階段がある。

 階段の手前まで進み、彩は二階に向かって声をかける。

「響彩だ。帰ったぞ」

 二階には上がらない。ここの家主――そして、いまの彩の雇い主――に禁じられているからだ。

 彩は鞄とシートの入った袋を階段の傍、売上金の入ったケースをテーブルの上に置くと、部屋を突っ切って外に出た。洗濯物を取り込むためだ。来るまでの道は霧が濃いが、コテージの周りは晴れの日が多く、風通りも良い。乾いていることを確認して、外に干しておいた洗濯物を部屋の中に入れていく。

 全てを取り込んで、彩が部屋に戻ると同じタイミングで、その老人は一階へと降りてきた。

「――早かったな」

 老人は彩に一瞥もくれず、まるで独り言のように口を開いた。低く、はっきりとした声だ。そこに弱弱しさはなく、どこか威厳めいた雰囲気すらある。

 その老人は、白かった。身に着けているモノも、髪も、肌でさえ、それはあまりにも白い。真冬の、こんな風通しの良い部屋の中にいるとは思えないほどの、薄手のローブ。そのローブが老人の足元を隠し、手も半分近くを覆っている。その(かす)かに見える手と、そして顔は血の気を失ったような白さだが、しかし固く引き結ばれた口元、そして意思の強そうな瞳によって、老人の存在感は否応なしに引き立てられている。まるで枯れ木のような肌なのに、触れればこちらが傷ついてしまいそうな、そんな印象を与える。一部の隙もない髪は滝のように、老人の膝裏近くまで伸びている。まるで雪山に()まう幽鬼のような老人だ。

 凍てつく老人の雰囲気に、しかし彩は一ミリとて気遅れせず、彩の寝袋を乗せているベッドの木枠まで、洗濯物を運ぶ。

「ああ。もう売り切れたからな」

 そうか、と老人は特に感慨もなく、椅子に腰かける。

 彩は洗濯物を畳む手を止めて、老人に振り返った。

「もう飯にするのか?」

「そうしよう。おまえも昼を抜いているだろう」

 彩は内心で口の()を曲げたが、表情には出さない。そのつもりが、老人の瞳にもそう映っているかは、自信が持てない。修験僧(しゅげんそう)のごとく苦悶の表情から放たれるその眼光は、どんな隠し事をも暴きかねない。

 彩は冷蔵庫から食材を取り出して料理を作る。生野菜のサラダにドレッシングをかけ、パスタにホワイトソースをからめたアサリをかける。白ワインをグラスについで、テーブルに並べる。

「ほら、できたぞ」

「それでは、いただくとしよう」

 いままで微動だにしていなかった老人が、ようやく動き出す。白ワインを一口飲んでから、パスタとサラダにそれぞれ口をつける。

 彩もまた食事にする。夕食には少し早いが、昼食には遅すぎる時間。昼がまだの彩は、しかし空腹など感じていなかった。いつものこと、感覚を遮断し続けた彩には、そんな感覚は無縁だ。

「響彩――」

 食事の途中、老人は視線をテーブルに落としたまま彩に話しかける。

「また『破壊』したな」

 詰問ではなく、事実を確認するような声。

 彩は、今度こそ苦虫を噛み潰したように顔をしかめる。……こういう勘の良さは、本当に嫌になる。

「悪ガキが売上金を盗んでいったんだ。足止めするのに必要だった」

「おまえの破壊は日に日に強くなっている。このままその性質を乱用し続ければ、いずれその手袋も、儂がやった眼鏡も、無意味になるぞ」

「乱用じゃない。必要なときに使っただけだ」

 老人は目を閉じて溜め息をつくと、諦めたように食事を続行する。彩のほうも、これ以上この件には触れない。

 この老人は、音儀玄定(おとぎくろさだ)という。自称魔術師であり、彩の破壊の性質を見抜き、彩に眼鏡を渡した人物である。昔から感覚するモノを破壊してしまう彩だったが、最近は触れるだけでなく、()たモノさえも破壊してしまうくらい、その威力は強くなっている。玄定の眼鏡を通すと、確かに破壊は起こらない。しかし、あくまで眼鏡越しだから、少し視線を上に向ければ、それだけで破壊はできてしまう。

 老人の自称を、彩は信じることにしている。眼鏡のこともあるが、玄定が()み出すモノは、確かに魔力を放っているように思える。

 そもそも、彩が玄定に出会ったのも、彼が作っている仮面や人形がきっかけだ。

 アメリカの大学に入った彩は飛び級を重ね、複数の学科で卒業条件をあっという間に満たしてしまった。高校一年の時点で大学の教養レベルを終えていたのだから、当然といえば当然。

 そこで彩は、残りの学校生活を留学や海外旅行で費やすことにした。アメリカ全土を回り、アジア、アフリカ、ヨーロッパなど、主要な場所は一通り巡り、彩のやるべきことがほとんど尽きかけていた、そんなときだった。

 手狭な雑居ビルの中に、工芸品を扱ったフロアがあった。個人の出店ばかりで、中国の提灯や先住民のトーテムポール、モアイ像、ナスカの地上絵を模した絨毯など、様々なものが無秩序に詰め込まれた場所だった。

 その中で、彩は音儀玄定の店に足を止めた。そこはほとんどが仮面で埋め尽くされていた。人を模した形に、様々な色、模様、装飾が施されている。一方で、奥にいけば球体関節がむき出しの人形が飾られていた。頭や手など、一部パーツが天井から吊るされ、衣服を身に着けていない完全体がロッキングチェアの上に横たわっている。

 彩はその作品群に見入った。一種異様な、強烈な美。陳列台にも、壁にもかけられた、無数にも上る仮面たち。彼らは眼球の無い眼窩(がんか)からじっとこちらを見つめている。それは誘い。ダンスのパートナーを待ちわびるように、彼らは手に取ってくれる相手を待っている。その強烈な視線に、彩は目を逸らすことができなかった。

 その店の店主――音儀玄定――は、日が暮れる間際になって、姿を現した。それから二三、言葉を交わし、彩は玄定のもとで働くことを申し出た。募集はしていないらしいが、玄定はいくつかの確認を()て、オーケーを出した。

 確認事項の一つが、頻繁に仕事場が変わること。アメリカ、ヨーロッパ、アジアなど、行き先は様々。その全ては、玄定の気分次第。制作のイメージが合わなければ、その日にでも移動を始める。

 へたをすれば数日のうちに世界の端から端まで移りかねないため、彩は玄定とともに生活している。だから、雇主と従業員というより、芸術家とその弟子という様相。だが、彩は玄定の工房には入れない。もちろん、作品作りにも関われない。

 それでも、彩はかまわなかった。玄定の作品を売り歩き、あるいはテナントの交渉などの裏方でも、彼の作品を近くで見られるなら、それで十分だった。

 ――仮面や人形たちは、一体なにを見ているのだろうか?なにを感じているのだろうか?

 人の形を模したモノたち。彼らに意思はないはずなのに、まるで生きているみたいに、生々しい。

 ……視線がある。……目を離せば、囁き声が聞こえてきそう。……じっと黙っているはずなのに、その口元には含み笑いが浮かんでいる。……闇の中、吊るされた腕がこちらを手招きしている。……夜の中で、彼らは退屈そうに足をばたつかせている。

 そんな、生々しい仮面や人形たち。彼らを作るこの老人は、一体なにを視ているのだろうか。どこから、彼らを呼び寄せるのか。傍にいて、それを見届けたい。――世界の放浪を、彩が中断するまでに。


「――おまえはいつまで、儂のもとにいるつもりだ?」

 食事が終わり、彩が食器洗いをしているときだ。玄定はお茶を飲みながら、彩には一瞥もくれずに話しかけてきた。

 いつもなら、食事が終わればすぐに二階に戻って、作業を再開するのに。彩の立ち入りを禁止している二階は全て玄定の部屋で、そこで彼はほとんど一日中、制作に勤しんでいる。

 彩は玄定を一瞥し、洗う手を止めないまま口を開いた。

「俺の気が済むまでだ」

「大学はいいのか?」

 相変わらず、玄定は彩を見ない。滅多に口にしないお茶の水面を繁々と眺めている。

「必要単位は全部取ってある。卒論は、あんたと世界中を回っている間に書いたものがあるし、学会の論文に多少手を加えたものを出してもいい」

 玄定が彩の私生活について触れるのは、珍しい。必要最低限のことしか口にしない彩だが、玄定もその同類だ。彩が玄定の作品を売りに歩くその行き先や移動のこと、彩自身の破壊のことを口にすることはあるが、それ以外は会って以来、話題に上ることなどなかったのに。

 彩は気にせず、いつも通りに平静に言葉を継いだ。

「玄定と一緒でも、俺は一向にかまわない。あんたには、なにか問題でもあるのか?」

 自身の破壊の性質のために、普段から人付き合いを嫌う彩だが、玄定だけは不思議と気にならない。彩と近い雰囲気があるからだろうか。三樹谷(みきたに)夫妻のように、無理に関わらないようにしている様子もない。

 適度な距離をとっていた玄定が、今日は珍しく饒舌だ。

「おまえは、儂などの傍におらずとも、十分に世界が()えている」

 溜め息をつきながら、玄定は小さく首を横に振る。消えてしまいそうなほど小さく「才能というやつか」と漏らしたのを、彩は聞き逃さなかった。

「儂ら魔術師は、世界に到達するために多くの犠牲を払ってきた。人間の器で至れぬというならば、人間(ヒト)そのものを破壊することさえ厭わなかった」

 魔術師が目指す世界というのは、いわゆる、この世全ての智、全知全能――。科学がこの世の全てを暴こうとするように、魔術もまた、この世界を解き明かすために生まれた学問だ。

「だが、おまえは最初から世界の外側にいる。この世のあらゆるものを客観視することができる。もちろん、外から触れることもできる。ゆえに、響彩の破壊の結果は、全て外へと向かう」

 洗い物を終えた彩は、椅子に座ったままの玄定へと振り返った。眼鏡越しに見る玄定が、ようやく彩の視線と対峙する。苦悩を色濃く宿す、険しい瞳で。

「おまえなら、容易く世界に到達できるだろう。魔術師どもが求める、とっておきの異端。しかし――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――破壊を続けるならば、おまえは世界そのものを破壊するだろう」

 玄定の眼光に対抗するように、彩は受ける。ここまで直截(ちょくせつ)な警告は、これが初めてだ。

 ……彩も気づいている。

 高校を卒業してから、彩の破壊はさらに強くなった。触れるまでもなく、観るだけで、彩は破壊してしまう。長年の感覚遮断のおかげで、意識の強弱で破壊はコントロールできるが、しかし、手袋をつけた状態でも破壊できてしまうのは、無視できない。

 玄定との出会いで、彩は再び湧き上がる(おそ)れから救われた。この眼鏡があるから、彩はまだ、生きていられる。

 それでも……。

 彩は、目を逸らすことなく、玄定に告げる。

「俺は世界を破壊しない。俺が破壊するのは、それが必要なときだけだ」

 その決意は、いまでも変わらない。

 ――この世界に存在しているものには、必ず意味があるの。

 十五年前の事故以来、彩の破壊は顕著になった。彩の意思に関わらず、ただ『感覚』という一点だけで。

 彩は自身を呪った。なにもかもを破壊し尽くしてしまう自分は、この世に存在するべきではない。そんな害悪は、己の業で破壊されてしまえばいい。

 入院していた病院の近くにある丘の上で、夜毎、彩は自身を呪い続けていた。そんな彩の前に、彼女は現れた。季節は、いまと同じ真冬。自分の破壊のせいで崩れかけたシーツ一枚の彩に対して、彼女は厚手のコートとマフラーをまとい、大きな旅行鞄を転がしていた。

 彼女は、彩を抱きしめてくれた。感覚するあらゆるものを破壊してしまう彩を、優しく包み込むように。

 ――わたしは、君に、壊されない。

 不思議な感覚だった。すぐ傍で触れられているはずなのに、その感触は遠い。この世界の果てから触れられているような、遥か彼方に吹き飛ばされる風のような、触れられない感覚。

 その女性と、彩は約束した。――自分が存在する理由を見つけるまで、自分を手放してはならない、と。

 だから、彩はまだ生きている。そんな簡単に、自分自身を手放すわけにはいかない。

 ――必要なときだけだから。

 彩が呪った破壊にも、きっと意味はある。

 ――もしも遊び半分でその性質に頼ろうとするなら、きっと君はとんでもないことをしてしまう。

 破壊は、年々ひどくなっている――――彩の望まないままに。

 彩は、約束を守る。むやみやたらに、この感覚に頼ったりはしない。必要かどうか、ちゃんと彩は見極める。……これまでも、これからも。

 両者の睨み合いは、一分以上も続いた。意志の強さは、お互い変わらない。しかし、その拮抗は永遠には続かない。この拮抗の終わりを告げたのは、玄定だった。

「…………そうか」

 席を立ち、玄定は彩のすぐ隣を通り抜けて、二階へと上がっていく。玄定の背中を、眼鏡越しに彩はじっと追った。いつものように、足音一つ立てずに階段を上るその姿は、いつもと違って小さく見えた。


 洗濯物をバッグの中にしまい終えて、彩は一人、論文執筆で時間を潰した。山奥にあるコテージなので、いまから街に降りたら戻ってくるための電車やバスがなくなってしまう。それ以前に、玄定から追加の商品を渡されていない。

 実験器具を用意できないので、彩が取り組んでいるのは数学の理論だ。多次元、微積、統計……。すでに学会に出した論文をまとめるのはつまらないからと、一から起こしているが、一週間もあれば書き上げてしまう。

「これも終わりだ」

 これまで書き溜めていた論文(もの)が一つ書きあがって、彩は息抜きに読書で時間を潰す。移動が頻繁で買いに行く時間は得られないが、タブレットに購入したデータをダウンロードするようになったため、すぐに手元にくる。さらに、百冊近く買っても厚みはタブレットのままだから、かさばらずに済んでいる。

 それから、数時間。途中でシャワーを済ませてから、彩は別の論文に取り掛かった。シャワーや入浴のときだけは、手袋も眼鏡も外す。が、脱衣所に戻れば、身体を拭いて、真っ先に手袋と眼鏡を身に着ける。

 眼鏡に度は入っていない。あくまで、彩の破壊を抑えるのが目的だ。なにか魔術的な処理が施されているらしいが、魔術師ではない彩はその原理を理解していない。

 ――興味もないがな。

 魔術師は、自分の子孫にしか魔術を継承しない。だから、玄定が赤の他人である彩に魔術を教えることはない。彩も魔術を必要としていないので、魔術師としての玄定を、彩は知らない。

 魔術は、遥か昔から存在していたが、科学の存在とともに表から消え、一部の家系がひっそりと継承するのみとなっている。

 ――その魔術師たちが目指すものは、世界への到達。

 その目的は、現代の科学とも近いところがある。ようするに、この世の智を追究し、世界の始まりを、終わりを、過去も未来も現在(いま)も、その全てを知りたい。そのために生み出されたのが、大昔の魔術であり、現代の科学だ。

 彩はタイピングの手を止めて、ディズプレイ隅の時計に目を向ける。そろそろ、丑三(うしみ)(どき)になろうとしている。

 彩は振り返って、階段の入り口に目を向ける。明日の商品は、まだ来ていない。

 ……まだ、準備が整っていないのか?

 いつもなら、前日のうちに商品を詰め終わった鞄が階段のすぐ隣に置かれるものだ。この生活も一年近いが、この時間になっても鞄が置かれないのは、これが初めてだ。

 彩は階段の先、二階のほうへ視線を向ける。壁の陰に隠れて、その先は見通せない。階段の傍まで近寄る必要があるが、結局、彩はそうしない。玄定との約束だ、彩は二階――工房――に近寄ることはできない。

「とはいえ、もう時間だ」

 夜の散歩に出かけるときでも、彩は丑三つ刻を超えないようにしている。これまでの習慣通り、彩は明かりを落として寝袋に包まる。

「『わたしは、君に、壊されない』…………」

 その言葉を記録から引っ張り出すのは、実は初めてだった。

 彼女のことは、いまでも覚えている。いや、彩の場合は記憶ではなく記録だから、忘れるなんてありえない。

 なのに、その言葉だけは、いまのいままで、記録の奥底に沈んだままだった。彼女と触れた、きっかけの言葉――。

「…………また、()おう」

 手袋も眼鏡もつけたまま、寝袋の中で、彩は感覚を落とすように、すぐに意識を手放した。


 白い闇の中で、彩は丘の上に腰を下ろしていた。丘の頂上、一本の木を背にして見下ろす先には、病院があった。彩が十五年前に入院していた病院が。

 立ち上がって視線を上げると、向こうには町が見える。その景色は、確かに病院の傍の丘の上から見た景色(もの)と同じだった。

「夜にしか、見たことはなかったがな」

 彩は手元に視線を落とす。彩の両手には、白い手袋がはまっている。レンズ越しに見えるから、眼鏡もかけたままのようだ。

 ――十五年前の丘の上に、現在(いま)の彩が立っている。

 彩が座っていた場所だけ草がなく、そこだけ地面がむき出しになっている。吐いた息が白いから、季節もあのときのままなのだろう。わずかに感じた寒さも、彩はすぐに遮断する。

 コロコロと、草を踏む音。なにか、車輪のついたものがこの丘を登っている。

 ……ああ、やっぱり。

 彩は驚かなかった。むしろ、声をかけられなかったのが不思議なくらい。

 だが、そういうことだ。これは記録ではない。彩は振り返る。十五年前の丘の上に、大学生の彩がいる。だから、ここでは彩だけが特別。だから、彩の目の前には、十五年前のまま変わらない彼女がいた。

 厚手のコートにマフラー、手袋をはめて、彼女は大きな旅行鞄を転がしている。記録の中の彼女はずっと大きかったはずなのに、いまは彩より頭一つ分、小さい。単純なことだ、彼女は変わらず、彩が成長したのだ。

「また逢えたな」

 立ち止まった彼女に、彩は声をかける。距離は、十五年前よりも離れた二メートル。屈んで見下ろしていた彼女が、いまは彩を見上げるようにしている。

「言ったでしょう。『また、いつか逢おうね』って」

 この再開を楽しむように、彼女は微笑する。

「あなたのほうからわたしを見つけてくるなんて、思ってなかった。これは、わたしの見立てが甘すぎたわ」

「音儀玄定、っていうのは?」

「わたしのおじい様。音儀家の生粋(きっすい)の魔術師」

「どうして、あいつの姿をしているんだ?」

 彼女は困ったように眉を下げる。

「家庭の事情、かな。いろいろ、理由(わけ)はあるんだけど」

 ごめんなさい、と彼女は苦笑する。

 いいさ、と彩は気安く応じる。響の家だって、他人(ひと)には話せない様々なものを抱えている。彼女が話せないというなら、無理には聞かない。

 笑顔に戻って、彼女は再び口を開く。

「彩に会えたことは、素直に嬉しい。だって、あなたはちゃんと、生きることを選んでくれたんだから」

「あなたのおかげで、俺は自分を見放さなかったんだ。感謝してる」

 彩は頭を下げた。柄にもないことをしているというのは、重々承知だ。だが、彼女には本当に感謝しているから、それを伝えたかった。

 ――命の恩人。

 彩にとって、彼女はそういう存在――。

 ふふふ、と彼女の微笑が聞こえる。

「どういたしまして」

 ねえ、と彼女は言葉を続ける。

「生きてみて、あなたの存在する理由は見つかった?」

 彩は頭を上げて口元をつり上げる。

「さあ、どうだろうな」

「まだ、見つからないの?」

 彼女の()は真剣だった。これまでの軽い挨拶、簡単に流せる雑談ではない。再び出逢ったときに、彼女が彩に訊かなければならない質問(ことば)。確かめなければならない、彩の返答(ことば)を。

 だから、彩も口元を引き締める。笑みをさげた、まじめな表情で応える。

「いろいろなことがあった。俺がいままで知らなかったようなことが。……そのために、人の死に関わったりもした」

 それは、きっと異常な体験。人が普通に生きていく中では、決して知りえない、世界の裏側。

「気づいたら、そういうことに関わっていた。ただの偶然、ではないと思う。なにか、俺の気づいていないところで、俺はそういうことに関わろうとしているんだ」

 彩は夢を見た。その悪夢(ゆめ)に、何度うなされたかわからない。

 しかし、それが真実だということにも、彩は気づいた。それこそが、世界の裏側の真実。彩が関わる物語の真相。

「だから、そういうところがわからないんだ。――俺は一体、何者なのか、って」

 彩は巻き込まれたのではない。知らず知らずのうちに、その道を歩んでしまう。まるで、自ら事件を引き込むように。

「人の死に関わったとき、あなたはどうしたの?」

 苦悩はあった。葛藤があり、なにより恐怖もあった。

 ――そう。

 失ってしまう、恐怖――。

 その恐怖があったから、彩は誰とも関わらなかった。誰かと関わることで、接することで――触れることで――破壊してしまうなら、彩は誰にも近づかないようにしていた。

 しかし、それだけでは駄目だった。彩が関わらなくても、誰かは(うしな)われてしまう。彩が破壊しなくても、別のなにかが、誰かを傷つける。だから……。

「助けたよ。その事件の中心にいる人を」

 見過ごせなかった。無視できなかった。なぜなら、それが彩の恐怖だから。その恐怖の重みに、彩は自分自身の破壊を(ねが)ったのだから。

 そんな彩が、成し遂げたのだ。破壊しかできない彩が、なにも得られないはずの彩が、確かに、誰かを救うことができた。

「完璧だとは思っていない。だけど、その人を助けることはできた。そう、思っている。だから、俺が存在する理由は、そういうことなんだと思う。――他の人にはできない、俺だけの人助け――」

 この破壊は、世界を破壊するためのものではない。世界中の人たちの救済はできなくても、片手に収まる人を救うことはできる。――それだけで、響彩の存在には、意味があった。

 そうね、と彼女は微笑を浮かべる。

「それは、とても素敵なことね――」

 自然、彩の口元も緩む。彼女のためにやったことではなく、これは彩自身の選択だけれども、それでも、彩の在り方を認めてくれる人がいるのは、嬉しい。このときばかりは、彩も素直にそう思う。

 それ以上、彼女は追究してこなかった。彼女の得たいものは、どうやら得られたらしい。だから、今度は彩の番だとばかりに、彩は口を開く。

「あなたは、どうして俺に手袋をくれたんだ?」

 毎晩毎夜、孤独の丘で呪詛をまき散らしていた彩を、なぜ彼女は助けたのか。それまで、彩は彼女に会ったことなんてなかった。見ず知らずの赤の他人。失敗していたら破壊されていたかもしれないのに、彼女は彩を抱きしめてくれた。――そして、この手袋をくれた。

 ……おっと、この眼鏡もか。

 よっぽどの自信があったのか。だが、それだけでは彼女が彩に手を差し伸べた理由にはならない。

 彼女は、すぐには答えなかった。葛藤しているのだろうか。果たして、どこまで話していいものか。

 一分近く()っただろうか。ようやく彼女は顔を上げて、彩を見上げる。

「…………確かめたかったの。わたしにも、償いができるのかどうか」

 そう、彼女は口にした。

「わたしは、家のために大切な人を壊してしまったの」

「壊した……?」

 ええ、と彼女は頷く。

「魔術師の家系の大義のために、その人を(ないがし)ろにした。人の姿を取り戻すことはできたけど、でも…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………人の領域から、はみ出してしまった」

 彩は言葉を失った。普通の人なら、彼女の言っていることは理解できないだろう。だが、彩には理解できる――できてしまう。世界の裏側を()ってしまった、彩だから――――。

 沈みかけた彼女はキッと目を上げ、決意表明をするように、告げた。

「だから、わたしは仮面や人形を作っている」

「あれは玄定の、じいさんのやっていたことじゃないのか?」

 ううん、と彼女は首を横に振る。

「違う。あれはわたしが始めたこと。……おじい様は、壊すことにしか興味がなかったから」

 後半は彩から目を逸らして、言葉も沈んでしまった。

 なにがあったのかは、彩も聞き出せない。家庭の事情と言って口にするのを避けた彼女がここまで話してくれたんだ、むしろ無遠慮に触れてしまって申し訳ないくらい。

 沈んだ空気を切り替えるように、彼女は目元を鋭くして彩を見上げる。

「わたしは、その人を助けなければならない。人の領域からはみ出てしまった、その人を。あなたに手袋を上げたのは、あなたも外れかけていたから」

 だから、と彼女は微笑(わら)った。なんの憂いもない、心からの微笑で。

「人として生きることを選んでくれて、わたしはとても嬉しい――――」

 彩は、しかし彼女のように笑えなかった。

 ……もしも遊び半分でその性質に頼ろうとするなら、きっと君はとんでもないことをしてしまう。

 もしかしたら、彩は人の領域から外れていたかもしれない。過ぎた力は身を滅ぼす。破壊を抑えきれなかったら、きっと彩は全てを壊していた。……助けられた人も、無関係な人も全て、巻き込んで。

 だから、いまの彩があるのは、一つの奇跡なのだろう。選択の中から最良の一つを選べたなら、それは奇跡と呼んで()いはずだ。

 目元を険しくしたまま、彩は彼女に問うた。

「その人は、助けられそうか?」

「わからない。必要なモノは揃っていると思うんだけど……。あとは、居場所を突き止めるだけかな」

「行方不明、なのか?」

 ええ、と彼女は頷く。

「家から出て、姿を(くら)ましているの。わたしのこと憎んでいるだろうから、なかなか逢ってくれない」

 彼女は哀しげに目を伏せる。自分のせいで、人の道を外れてしまった人。その人のことも事情を知らないから、気休めの優しさを、彩は口にすることができない。

 ……だったら、(おれ)が言うべきことは決まっている。

 肩の力を抜いて、彩は彼女に訊いた。

「でも、あなたはその人のこと、助けたいんだろ」

 それは、ただの確認だ。あなたは、まだ諦めていない。彩が壊れてしまうのを食い止めた彼女が、そう簡単に諦めるなんて、彩は思っていない。

 彼女は驚いたように目を瞬かせる。そんなに、彩の言葉は意外だったろうか。だが、彼女は応えるように口元に笑みを浮かべる

「ええ。諦めるつもりはないわ。あの人を助けることが、わたしの存在する理由なんですもの」

 彼女の決意を耳にして、彩は一度頷いた。

 ――そうだとも。

 彩を救った彼女は、そうでなくては――。

 と。

 白い闇が急速に濃さを増す。町が消え、病院も白に呑まれてしまう。彼女の背後にぼんやりと見えていた森も、もう見えない。彼女の姿さえも、闇に溶けて消えてしまいそうだ。

「そろそろ、行かないといけない」

 当然のように語る彼女に、彩も異を唱えない。彩だって気づいている。これが、別れになってしまうことを。

「あなたの名前、まだ聞いていないんだけど」

 些細な誤りを注意するみたいに、彩は肩の力を抜いたまま口を開く。

 彼女も、冗談を聞いたみたいに口元を(ほころ)ばせる。

「わたしの名前を識ったら、響彩にわたしの魔術(ちから)は効かなくなる。おとぎ話にも、他人に名前を呼ばれると力を失ってしまう、という(もの)があるでしょう」

 彼女は忠告しているのだ――彼女(わたし)の名前を識ってしまったら、二度と逢うことはできない、と。

 その忠告に、彩は感謝する。しかし、その感情は表情に出さない。

「もう半分バレてるんだ。いまさらだろう」

 それに、と彩は微笑(わら)ったまま、告げる。


「俺はもう、あんたに頼らなくても生きていける――――」


 時間がかかってしまったが、これが巣立ちのときだ。いつまでも、親鳥にしがみついているわけにはいかない。……これからは、自分だけの力で生きていく。

 彩の決意を、彼女はどう感じているのだろうか。表情は笑ったままだが、その細めた瞳の奥に、どんな想いを抱えているのか。

「――――音儀真音(まお)

 その音が、世界に波紋を打った。瞬く間に世界は白い闇に覆われ、彩の視界を塞いでしまった。


 彩が目を開けたとき、天井の様子が変わっていた。黒く汚れた天井は所々に穴が開いていて、暗い木の板をむき出しにしていた。

 身体を起こして周囲を見回しても、その変わりようは明らかだった。床や壁、椅子やテーブルに至るまで黒く汚れ、引き戸のガラスは汚れがひどすぎて庭の様子も見通せない。

 彩は寝袋から出て、すぐに靴を履く。寝袋や靴は綺麗なままだ。彩が歩くと、その部分に足跡が残る。しかし、それまで床の上には、誰の足跡もありはしなかった。

 彩は風呂場を覗き込んだ。こちらの汚れもひどい。その中で、彩が使っているシャンプーやボディソープは綺麗なまま、割れたガラスの下に並んでいる。

 台所も同様、昨晩、彩が洗った食器や調理器具はどこにも見当たらず、戸棚を開けると埃の積もった食器や調理器具が乱雑に放置されている。さらに、水もガスも通っていない。

「二階は…………とても上がれる状態じゃないか」

 すぐ背後の階段を覗いてみると、踏板は経年劣化で穴だらけ、人を支えられるとは到底思えない。そもそも、二階の床も穴が開いて一階から見えるのだ、二階にはとても行けない。

 どうやら、電気もきていないらしい。空の冷蔵庫はただの箱と化し、明かりのスイッチも反応がない。

 彩は荷物をまとめ始める。風呂場のシャンプーやボディソープを袋に詰めて、昨日の洗濯物と一緒にリュックへ押し込む。寝袋を丸めて袋にしまい、別の鞄にタブレットとキーボードを入れる。

 朝食は、街に降りてからになりそうだ。生活費を払っていたのだから損した気もするが、いくらかの取り分はちゃんと手元にあるから良しとしよう。

 荷物を担いで、彩はコテージの外に出る。玄関の扉は、もはや扉としての意味をなさないくらい、簡単に開いてしまう。

 外から見ると、その老朽具合がよくわかる。二階は半分近くが崩れて、家の塗装はほとんど剥がれている。何年も人が通っていないのだろう、昨日まで彩が歩いていた道の上には枯れ葉・枯れ枝が堆積して、道という原形が跡形もない。庭に回ると、物干し竿の名残があるだけで、とても洗濯物を干せる状態ではない。

「もう、行ったのか」

 確認するまでもなく、彩は理解した。――ここには彩しかいない。――他の誰も、この場所、この地にはいない、と。

 彩は自分の手元に視線を落とす。ガラス越しに見える、白い手袋。この手袋も、そして眼鏡も、すでに意味がなくなっているのだろう。彩は、彼女に触れてしまった。どんな存在か識ってしまった彩は、だから彼女の加護にも触れてしまえる。……感覚、できてしまう。

 だが、彩は感覚しない。長年、感覚遮断をし続けた彩だ、そう簡単には感覚しない。

 ――感覚を遮断するということは、あの人の温もりに包まれるということ。

 近くにいるはずなのに、その存在は遠い。触れるのではなく、触れられるという感触。その感触を、彩は記録している。これまでも、そしてこれからも、彩は忘れない。


「――いままでありがとう。音儀真音」


 それは、別れの言葉。

 子どもは、やがて親元を離れる。いつまでも、守られるわけにはいかない。自分の力で、世界に踏み出さなければならない、歩かなくてはならない。

 その決別に、自然、笑みがこぼれる。ここから、彩は踏み出す。放浪の旅も、もう終わりだ。大学に戻って、卒業の手続きを進めよう。飛び級だからと言って、いつまでも足踏みができるわけではない。

 ――響家(いえ)(いもうと)が継ぐのだから、(おれ)の仕事を決めないとな。

 なにをするかは、まだ決めていない。だが、なんとかなるだろう。このまま研究を続けてもいいし、研究成果を形にするために企業を起こしてもいい。

 荒れ果てたコテージに背を向けて、彩は歩き始める。コテージはあっという間に白い霧に包まれて、見えなくなってしまう。彩が通り過ぎた道も、次々と白い霧に隠されてしまう。

 そこは、人々から忘れられた山奥。誰も寄り付かなくなったコテージは、白い霧の中に埋もれてしまう。


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