表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

蒼空の風

作者: 藤江ワイン

 そろそろ着く頃だろう。そう思って改札の奥をしばらく見ていたのに、微笑みながら歩いてくる女性が緑子みどりこだと気づいた時には彼女はもう改札口を抜けていた。


「待たせたかしら」


「いや、少し前に着いたとこ」


「よかった。それじゃ行きましょう」


 彼女の後をついて駅のコンコースから二階下の地上出口に降りると、五月にしては強い日差しが駅前広場のタイルを真っ白に光らせていた。思わず目を細めた自分を見て緑子がくすりと笑う。


「日差し、強いでしょう。こういうところなの。空気が乾いてるせいね、きっと」


 言われてみれば空気が軽い。肌にまとわりつく東京の重たい湿り気を振り払うようにして特急に乗り込んだのは数時間前のことだ。ちょっと別世界に来た気分になる。

 そう思わせる別の理由もあった。緑子はこの季節の東京では、ふくらはぎまでかかる白いフレアスカートを好んで穿いていた。下ろしたロングヘアにふわりと乗せた白いハットとの組み合わせが晴れた日には眩しくて、街を歩くには輝きすぎではと心配したくらいだ。少し前を行く緑子は七分丈のパンツを穿き、キャスケット帽の後ろではポニーテールが揺れている。なにかしっくり来ないな、と思いながら顔を前に戻す。向こうから登山帰りらしい外国人カップルが歩いてくる。この街は登山基地でもあるそうだ。それでパンツか……そう自分を納得させて、二、三歩早足をして並ぶようについて行く。

 昼下がりの陽光にあぶられた肌の火照りも、日陰に入ればすっと引く。それでも少し喉の渇きを感じたとき、道端に


(この水は飲めません)


と書かれた噴水のようなものを見つけた。当たり前だろ、と思った自分の表情を読んだのか、


「この街、地下水がたくさん湧いてるの。この先、お城までの間にもいくつかあるわ」


と彼女が言った。そう、久しぶりに会うというのに、今日は〈お城〉に行くことになっている。城と言えば修学旅行先のひとつ、というくらいの関わりしかない自分とは違い、この街で生まれ育った緑子にとってその〈お城〉は何かなのだろう。土曜だからかもう開いているパブの前に立つビールの看板を横目で見ながらしばらく歩くと、果たして湧き水があった。


(大手の井戸)


とある。柄杓ひしゃくんで一口飲む。冷たくてやわらかい水だ。


「おいしい」


「でしょう。私も」


 なるほど、ポニーテールなら髪を押さえなくていいのか。柄杓を伏せ、ハンカチをしまった彼女は道の先に顔を向ける。


「もう少しよ。あそこ、石碑があるとこ」


 この大通りが終わった先が目的地らしい。冷たい潤いを喉に感じながらまた歩き出す。

 堀を渡ったところに、〈桐山城〉と刻まれた大きな石碑はあった。城の敷地が広い公園になっているようだ。足を踏み入れてすぐ、左側の視界をさえぎっていた松の立ち木の横から高い建物が姿を現した。


「あれがお城の天守てんしゅよ」


 城と言えば見上げたところに建つものと漠然と思っていたので少し意外だった。奥にある堀――内堀だろうか――の向こう岸となる石垣のすぐ上、ほぼ自分の足下と同じくらいの高さに建っている。手前の岸には堀に沿って木が植えられ、高く連なった山々がその上に遠く見える。桐山平きりやまだいらと呼ばれる、四方を山に囲まれた広い平地のほぼ中心にこの街はあるそうだ。今どの方角を向いているんだろう。ふと前に目を戻すと、緑子はもう内堀にかかる橋を渡って城門を入るところだった。

 城門の先にある券売場でチケットを買い、さらに大きな門をくぐって進む。本丸の敷地に入ったようだ。遺構に芝が敷かれた広い庭園の奥に、さっき見た天守がそびえている。次々と中に入っていく観光客がその足下に見える。


「上まで登りましょう」


 今日は妙に引っ張られている気がする。苦笑しつつ、真っ直ぐ入口に向かう緑子の後に続いて靴を脱ぎ、よく磨かれた木の床板に一歩踏み出す。足裏のひやりとした感覚。階をぐるりと巡る廊下に並ぶ火縄銃や出土品などの展示を見ながら階段を次々と上がっていく。外から見た感じでは六層くらいだったか。中には段差がきつく狭い階段もある。


「先に行って」


 フレアスカートでこれは無理だと思いつつ、ほぼ梯子かと思わせる階段をよじ登る。

 そうこうするうちに天井の高い広々とした階に出た。最上階だ。四方に窓が設けられた明るい空間。登り切った達成感からか、一休みしている人々の表情も満足気に見える。走り回る子供たちの足音が響く。

 そんな中、緑子は窓のひとつに足を進め、何も言わずに外を見ている。ゆっくり近づいて同じ窓の前に立つ。すると彼女は横顔で言った。


「これが私の街の眺めよ」


 窓の外に顔を向けると、真っ青な空を背景にした白い峰々のきらめきが目に一気に飛び込んできた。はっと息をのんだ瞬間、さーっと吹き抜けていく涼気。それは雪の山頂を渡る初夏の風だった。


「明日は車で山のほうに行きましょう」


 声の方を見ると、髪を後ろになびかせた緑子のいたずらっぽい目がこっちを向いていた。


「明日はスカートを穿くわ」


(了)


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ