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あの日は、金平糖の雨が降りましたね

 虹ヶ丘駅の改札を背にして、右手にある路地を線路沿いに歩き、三つ目のカーブミラーを見つけたら左に曲がる。もしそこで黒猫に遭遇することがあっても、手を出してはいけない。彼女は「カブ」といって、ここらで有名な野良猫だ。自分のことを女王様と思っているふしがあるので、むやみに撫でるとすぐに機嫌を損ねてしまう。

 でも、もしカブが君の後をついて来るようなら、名誉なお役目と思って寛大な心で道案内をよろしく頼みたい。きっと女王様の行き先は、ティル・ナ・ノーグ《常若の国》だろうから。





「遅くなりました」


「準備中」の看板が下げられたドアをくぐると、さっそく珈琲の香りが出迎えてくれた。好んで飲むことはないけれど、僕はこの香りが好きだ。すんすん、と息を吸って深く味わう。いつもと同じ、いや、それ以上に美味しい香りだった。


 ここ、ティル・ナ・ノーグ《常若の国》はアイルランド人が切り盛りする珈琲喫茶だ。もともと珈琲好きの父さんが偶然見つけた店だけど、今では僕のほうがほぼ毎日といっていいほど、入り浸っている。

 店は全体的に薄暗く、天井から吊るされたランプの灯りがぽつん、ぽつんと照っている。四人がけのテーブルが壁に沿って三つ並び、どれも角が磨り減っていて、色んな人の手を渡ってきたような旅慣れた感があった。窓にはステンドガラスがはめ込まれていて、絵本の世界にでも迷い込んだ気分にさせてくれる。


 僕は荷物を降ろし、さっそくカウンター席に腰掛ける。

 空の珈琲カップが四つ、目に止まる。持ち主の顔が、ぱっと四つ浮かんだ。

 あるとき常連客のひとりが陶芸教室で作った珈琲カップを持参したことがあった。それ以来、こうしてマイカップを店に預けておくのがちょっとした流行なのだ。


「あ、お帰り」


 カウンターの奥から、ぼさぼさ赤毛の若い女が顔を出した。テストはどうだったかと、鼻歌みたいに声で聞いてくる。それと同時進行で、後回しにしていたであろう仕事を慌てて片付けていく。

 いつ見ても忙しい人だ。つい、僕はいつものように彼女に手を貸してしまう。それから濡れ布巾を手元で小刻みに動かしながら、まずまずですと僕は答えた。


「じゃあ、また満点だね!」

 彼女は髪を結び直しながらそう言った。


 ウェーブのかかったその長い髪が、照明の下でオレンジ色に輝いていた。

 彼女はこの店の店主、シアーシャ・天宮・ローナン。

 どこかの女神さまみたいな名前だ。それも、西洋と東洋を掛け合わせたような。その姿も、名前に引け劣ることなく、女神さまのように美しい。街を歩いていたら、誰もが一度は振り返るだろう。以前、うっかり本人を前にして「歩く夕日」と言ってしまったことがある。もちろん褒め言葉だ。


 僕は今、この人に恋をしている。


「健さんたちは?」

「おじいちゃんたちは、二階でリハ中。早く行っておいで」

「そういえば、魔法の研究はどうです?」

「よくぞ聞いてくれました! でも、それは演奏会終わってからね。さあ、早く早く」


 そういえば、店の名前はケルト神話に出てくる地上の楽園からとったものだと、シアーシャが言っていた。なんでも、そこには妖精が住んでいて、歳をとることは決してない。それから、飲み食いしても尽きることのない林檎と豚肉とエール酒があるらしい。

 もっとも、僕にとってシアーシャさえいれば時と場所を選ばずとも常に楽園なのだけれど。


**


――夜七時。

 珈琲喫茶ティル・ナ・ノーグは、音楽家たちが創り上げる熱いステージへと姿を変える。

 本日も、メンバーの調子は良好。


 第一曲目として定番になりつつある「ダブリンへの岩道」演奏し終え、僕たちは気持ちのいい拍手を浴びた。今日集まったのはおよそ二十名ほどで、それぞれのテーブルにはギネスビールが置かれている。

 僕は頃合を見てティン・ホイッスルからアイリッシュフルートに持ち替え、次の曲に備えた。


 と、ここでシアーシャの司会が入る。


「さて皆さん、いかがでしたでしょうか。毎度お馴染みの方も、今日が初めてという方も、ぜひ我らがレッドナイツ《赤の騎士団》による夜の演奏会を引き続きお楽しみください。と、その前に! メンバー紹介からいきたいと思います」


 シアーシャはまず自分の名前を名乗り、それから順に五名の演奏家の名前を挙げていった。もちろん、簡単な説明も加えて。


 まずは、フィドル弾きの健さん。本名を天宮健といって、シアーシャの祖父にあたる人だ。

 そしてアコーディオン弾きのシゲさん。この人は普段、時計職人をしている。バウロンの真琴さんは、本場アイルランド仕込み。英語もぺらぺらだ。ハープを弾くのは健さんの兄の裕次郎さん。そして最後に、縦笛や横笛担当の僕。


 バンド名については諸説あり、Night《夜》とKnight《騎士》をかけていると言われている。もちろん「赤」はシアーシャの髪色からとったものだろう。ちなみに、健さんが孫のシアーシャを溺愛するあまり、変な虫を寄せつけないために結成された騎士団だという説もある。ここだけの話、僕はこれが最有力候補なのではないかと思っている。彼女に恋する僕としては、すこし複雑な気持ちだ。


 それからいくつもの曲をこなし、最後にアンコールを浴びると、僕は再びティン・ホイッスルに持ち替えた。

 裕次郎さんが僕に目で合図を送る。準備はいいかい?

 もちろん。これは僕のソロ曲だから。

 さあ、いこうか。


 僕の奏でる旋律に、宝石の粒のような音色が重なる。

 ティン・ホイッスルとハープでだけの、素朴なダニーボーイ。


「ああ私のダニーよ バグパイプの音が呼んでいるよ

 谷から谷へ 山の斜面を駆け下りるように

 夏は過ぎ去り バラもみんな枯れ落ちる中

 あなたは あなたは行ってしまう」


 おっと、これは想定外。

 塀を飛び乗る猫のように、唐突にシアーシャの歌声が重なる。


「戻ってきて 夏の草原の中

 谷が雪で静かに白く染まるときでもいい

 日の光の中、日陰の中、私は居ます

 ああ私のダニーよ、あなたを心から愛しています


 すべての花が枯れ落ちる中、あなたが帰ってきて

 もし私が既に亡くなっていても

 あなたは私が眠る場所を探して

 ひざまづき、お別れの言葉をかけるのです


 私の上を静かにそっと歩いても私には聞こえる

 あなたが愛してるといってくれたとき

 私は暖かく心地よい空気に包まれるでしょう

 私は安らかに眠り続けます

 あなたが帰って来てくれるその時まで」


 シアーシャの歌声は、まるで暖かい光の玉みたいだった。聴く人の心のなかを優しく滑り、悲しみや苦しみをすっとほぐしてしまう。観客の中には涙を流す人もいて、僕の涙腺も思わず緩んでしまう。


 再び拍手の嵐を浴びて、今夜の演奏会は無事に幕を閉じた。



**



「紅茶に砂糖を入れると雨が降るなら、金平糖を入れてみたらどうですか?」


 演奏会の余韻に浸っていたい僕は、いつもこうしてカウンターに座り、シアーシャの淹れた紅茶を飲む。父さんがここへ迎えに来てくれるまでの、つかの間のひとときだ。

 どこから入ってきたのか、野良猫カブがシアーシャの足の周りをうろついていた。


「その発想はなかった! さすが、亮くん。将来の弟子と認めただけあるね」

 カブを抱き上げながら、世紀の大発見でもしたかのような顔をするシアーシャ。そのそばからカブが、にゃぁと鳴く。


 シアーシャは珈琲喫茶の店主や歌手のほかに、魔法使いのたまごという、何やら怪しい肩書きを持っている。もちろんこのことは、将来の弟子である僕との間の秘め事だけど。


 雨降らしの魔法は、ついこの間、僕に紅茶を入れていて偶然発見したものだった。シアーシャいわく、魔法書なんてものは今の時代なかなか手に入らないのだそうだ。だから日常の些細な出来事から新しい魔法を生んでいかなくてはいけない。今のご時勢、どうやら魔法使いも地道にこつこつというのが主流のようだ。


「金平糖は常備してるのよ。ほら、夜空の魔法とかに使えるじゃない?」


 そう言うわりに、どこに保管していたっけと、なかなか見つからないようだ。ときどきカウンターに頭をぶつけながら、引き出しという引き出しをすべて開け閉めして、ずいぶん手こずっている。

 こんなとき、探し物が見つかる魔法があればいいのにと、僕は切実に思う。シアーシャの魔法は、残念なことにどれも使い道のなさそうなものばかりなのだ。


「あったー!」

「よかったですね」

「うん! それでは始めようか。まずは弟子の亮くん。魔法を始めるにあたり、フルネームと年齢を述べなさい」


 毎回思うのだけれど、この儀式は必要なのだろうか?


「金古亮、十四歳。魔法使いのたまごの弟子です」

「よろしい」


 シアーシャが紅茶のポットとカップ、ソーサー、ティースプーン、そして金平糖をカウンターに並べていく。


「わたくし魔法使いのたまご、シアーシャ・天宮・ローナン、二十一歳は……」

「待った待った。年齢のさば読みは禁止ですよ、師匠」

「おっといけない、今のはまちがい。シアーシャ・天宮・ローナン、歳は二十二。これより、金平糖を使った雨降らしの魔法を始めます」


 慣れた手で、シアーシャはカップに紅茶を注いでいく。

 アールグレイの香りが立ち込め、一瞬湯気でお互いの顔が隠れる。


「さあ、亮くん。好きなだけ金平糖を入れてみて」


 僕は甘党だ。瓶の中からピンク、黄色、そして緑の金平糖をこれでもかというくらい取り出した。

 きらきらゆらめく琥珀色の湖に、金平糖の花たちを浮かべていく。


「魔法使いのたまご、シアーシャ・天宮・ローナンの名において、金平糖の雨よ降れ!」


 え、あれ? ちょっと嫌な予感がして、僕の顔が曇る。


「あ、あれ? なんか違った?」

「いや、ええと、コミュニケーション不足ですかね」

「え、え、ええ? なに?」

「いや、その……金平糖も砂糖だから、雨が降るんじゃないかと思ったんです。金平糖の雨じゃなくて、普通の、水分を含んだ雨のことです」


 シアーシャの顔がみるみる引きつっていく。しまった、大変だ!

 そして嫌な予感は見事的中した。

 カラン、コロン。

 リスがどんぐりでも落としたかのような音が、頭上に響く。しかしそれだけでは済まなかった。直後、ものすごい数の、おそらく本物の金平糖であろうものが降り始めたのだ。


「亮くん、は、はやく紅茶飲んじゃって!」


 愛する師匠のためとあれば、たとえ火の中、水の中。

 僕は熱々の紅茶をひと口、ふた口と、ものの数秒で飲み干した。ちなみに、僕は猫舌である。


「亮くん、そ、外見に行って!」


 そして必要とあれば、師匠の尻拭いだってする。愛ってすばらしい!


 結局、シアーシャが魔法使いの「たまご」ということもあって、金平糖の雨は店の敷地内だけで済んだようだ。しかし、どうしたものか。金平糖がそこらじゅうに散らばっている。


「で、でもさ、失敗は成功のもとって言うよね。ね、亮くん」

「いや、どうなんでしょう。たまごのままで、いいような気もします」



**



 あれから僕は、相変わらずティル・ナ・ノーグに出入りしている。シアーシャも相変わらず新しい魔法の発見に明け暮れ、本人いわく、ときどき運がいいと成功するのだそうだ。魔法使いの「たまご」だからといって、運に頼らずを得ないとは、なんとも頼りない。弟子として、師匠の将来が少し不安である。


 そんな僕らが恋人同士になる可能性は、今の段階ではなんともいえない。なにしろ、シアーシャは僕の気持ちにまったく気づいていないのだから。





――あす 10月27日(火)虹ヶ丘町の天気――

 日中晴れ、夜になるとすこし曇るでしょう

 金平糖の雨が降りそそぐ確立は、今のところ0%

 ただしところにより、若い男女が急接近の予感!?




いつか長編も書きたいと思っております。

読んでくださり、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[一言]  葵枝燕と申します。  『あの日は、金平糖の雨が降りましたね』、拝読しました。  本当に金平糖の雨が降るなんて、何だか素敵ですね。でも、当たったら痛そうな気もします。  亮くんの想いは、シア…
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