蟋蟀
俺はカマキリを飼っている。カマキリと言ってもそこら辺にいる緑色のカマキリではなく、ハナカマキリと呼ばれる蘭の花そっくりの、インドネシア産のものである。
カマキリは完全に肉食で、しかも餌が動いていないと捕食しないため、生きた餌を与える必要がある。そのため必要に応じて近所でモンシロチョウなどを捕まえ、餌として与えることになる。ここで気を付けなければいけないのが、トンボやカゲロウなど、幼虫期を水中で過ごす虫を与えてはいけないということだ。可能性は低いが、そんなことをすればハリガネムシと言う恐ろしい寄生虫に寄生され、産卵能力を失ってしまう。
しかし、大食らいのカマキリは1日に1匹のペースでチョウを食っていく。天気の悪い日もあるというのに、郊外とはいえ緑の少ない我が家周辺で、それだけのチョウを捕まえるのは容易ではない。
そこで、餌コオロギの出番である。大きなペットショップでは大型の熱帯魚や爬虫類などの餌用に、「チャイロコオロギ」または「イエコオロギ」などが売られているのだ。幸い、我が家から歩いて行ける郊外型ショッピングモール内に、扱っているペットショップがある。
これらは寄生虫の心配もなく、また確実に入手できる生餌として重宝する。野生では良く跳ねる虫だが、ペットの餌用として繁殖されているものはほとんど跳ねず、歩くだけである。まとめて買えば1匹¥10以下だし、設備があれば殖やすことも簡単だ。もっとも飼育の手間を考えれば買ってきた方がはるかに楽なので、生まれたてのカマキリに、やはり生まれたてのコオロギを与えたい場合などを除き、殖やすために飼育することはないが。
しかし、餌用に生かしておくだけなら飼育も簡単で、ふやかしたカメの餌と野菜くずでも与えていれば1週間ぐらい平気だし、餌がなくとも死んだ個体や弱った個体を食べたり、濡れた新聞紙さえ食べて生き延びることが可能だ。あるときなど、開いていたフタの隙間から台所の嫌われ者の虫が侵入したらしく、コオロギの飼育ケース内でバラバラ……というか、粉々になっていたこともある。つまり、丈夫で何でも食べるのである。
そんな丈夫で何でも食べるはずのコオロギだったが、先日、異変が起こった。
2週間ほど前、義兄夫婦が我が家に遊びに来た。遊びにと言うより、うちの女房は義兄にとって同年代の唯一の身内なのでいろいろ相談事もあったようだ。その時、夕食に女房が近所のスーパーで買ってきた刺身の盛り合わせを出した。粗方食べ終わった後に義兄が刺身のツマというのか、刺身の下に敷いてあったニンジンの千切りをもしゃもしゃと食べているのを見て、俺もその千切りを一塊貰い、部屋のコオロギの飼育ケースに放り込んだ。単にそのまま残りを捨てるのももったいないし、たまには奴らに野菜も食わせてやるかと思っただけである。
翌朝、飼育ケースを覗いてみると、コオロギはすべて死んでいた。
濡れた新聞紙をインクごと食べても、台所から迷い込んだあの虫を食べても平気なコオロギが、すべて。
刺身と異なり、刺身が載っているツマの部分に原産地表示義務はないが、おそらくそう言う野菜だったのだろう。
その衝撃による俺の悲鳴で、泊まっていた義兄夫婦を早朝に起こしてしまったのは悪かったと思っている。
お詫びに、女房に義兄夫婦を駅まで車で送って行ってもらった。俺が行っても良かったのだが、俺は大急ぎでペットショップに向かうことにした。コオロギは何でも食べるが、カマキリは生餌しか食べないのである。
女房によれば、車内では普段の食材をどこで買っているかとか、和やかに会話が弾んだと言っていた。
来た時は少々深刻な顔もしていた義兄であるが、昨晩電話で話した時は、最近夕食に好きな刺身が増えて嬉しいと明るい声で言っていた。我が家での会話が何かの役に立てたのなら良かったと思う。