帰ってくる家
アパートメントの一室の黴臭いタイルの感触。
魂の牢獄に閉じ込められていた黒い笑顔のあの人。
ぷちぷちとシシャモの卵を噛むと魚の頭に含まれている苦みがやっと薄まり始める。
「本当にもうどうかしてるよ」
キキは愛読している三島由紀夫のペーパーブックを置いた。
キキはバルコニーに出て手をかざす。
まだ降っていない雨が体をすり抜けて地面に打ち付けられる。
そこからは、新聞屋さんが乗ってきたベージュ色のフレームの自転車が見える。
雨水を流す為の排水管は、まるで私達の血管のようだとキキは思う。
鉄の手摺りは錆びついた緑青。
叫びだしたい慟哭を抑えつつ、あの人の帰りを待ち続ける。
一度思い始めたら止まらない。
もうずっと待っているのにむこうから連絡の一つも寄越さない母。
最後まであの人を恨み軽蔑していられた母は幸せだ。
キキにとってはそれすらも難しい。
少しだけ瞼が重いけれどキキは眠る事はできない。
食卓には豌豆色とカーキ色のマグカップ。
誕生日にあの人から貰ったものだ。
つるりとした表面を撫でると、愛おしさが込み上げる。
大きすぎるYシャツはあまりにも綺麗だったので捨てられずにとってある。
長い間お客様が来なかったのであちこちが埃にまみれている。
染みついた嫌な匂いもどうやったって消せやしない。
二度と塗り替わる事のない壁紙は煤けて剥げかけている。
ただ一言、おかえりなさいと言えたならもうそれでいい。
いつかまたこの家で暮らせたら幸せだろうか。
その為にはどう考えたってこの体は邪魔だ。
キキの眼はまったく絶望などしていない。
いつか帰ってくると信じている。
毎日、単調なオルゴールのメロディーが繰り返されているとしてもそこに苦痛はない。
キキは気分がいいと鼻唄を唄う。
随分前の流行りの歌であの人もこの歌が好きだった。
キキはあの人の前では恥ずかしくて歌う事はなかったのだけれど。
リコリスの唄はあの可愛い曼珠沙華の赤を思わせる。
あの人がお気に入りだったドリフのテーマ曲も大好きだ。
手足は硬直していて痺れたように動かない。
爪先は眠っている。
しかし、意識はハッキリとしている。
眼を閉じる事はできる。
眠る事はできない。
苔むした橙色の植木鉢の中で腐った花々を雑草が蝕んでいる。
夏になって、いつの間にか蔦に犯されたキキの家は、おばけ屋敷などと呼ばれていた。
随分と昔に建てられていたので耐震性にも不安がある。
住人達はもっと新しくて安全な住処を求めて出ていった。
もう数える程しかここに住む人はいない。
キキはまだ本物の幽霊というものに出会った事がない。
気配すら感じたことはないのだから幽霊など居ないのかもしれない。
ただ淡々と過ごす日々に今日が何月何日の何回目の夏なのかを忘れる。
眠れなくなってから昼夜の逆転が激しく、キキはいつも唐突に眠気に襲われる。
朝日の中で、さっきまでの覚醒が嘘のように夢の中に落下する。
「ねぇキキ、夏になったら必ず帰ってくるよ」
耳の奥でこそばゆい声が聞こえる。
頭の中ではあの人は、父は子供じみた手で私を笑わせる。
そこでは母も穏やかに微笑んでいた。
楽しかった記憶が本当の事なのかどうかもう確かめようがない。
会話が無い日が続くと自分でも表情も暗くなるのが分かった。
母が食事を作らなくなったので、父はコンビニ弁当を買ってきた。
そのうち、父が帰らない日が増えて、まだ中学生だったキキは勝手に何かを作って食べた。
母はずっと、床や浴槽を磨いていた。
父が通った跡は、チリすら残らない程に、綺麗にしていた。
食器や父の使ったものだけでなく、父の触れたすべてのもには指紋の一つさえ残さない。
父は、ますます帰らなくなり、別の女の人の家に行ったという。
相変わらず母は、洗面台や台所の汚れを拭き取っていた。
そんな風に何かがゆっくりと壊れていく様子を見ながらキキは何もできないでいた。
母は父の事をあの人と呼ばせた。
だからキキにとってもあの人といった方がしっくりとくる。
均一に汚れに支配された家はもう長い事、母が居ない事を証明していた。
濁ったステンレスに写った顔は、母が言うようにあの人に良く似ていた。
だから耐えられなかったのだろう。
食べ物を汚いと言い、私を醜いと言いながら、だんだんと衰弱していく。
触るものをすべてに徹底して清潔さを求めた母。
今はもうそんな言葉すら口にできない。
病院のベットで私を罵りながら死んでしまった。
それでもキキはあの人が帰ってくると信じていた。
数分後にけたたましい目覚ましの音。
現実に引き戻されたキキの瞳は潤んでいる。
「会社にいかないと」
自分に言い聞かせる為に呟く。
熱いシャワーを浴び、化粧をすると真っ青な顔が和らぐ。
キキの勤めるコールセンターまでは車で1時間程だった。
渋滞さえなければもっと早く着けるかもしれない。
タイムカードを押して同僚たちと会話を交わす。
仕事中は、主任と呼ばれる。
そして、彼女はキキではなく帚木明日香になる。
仕事中は何もかも余計なことをいっさい考えずに済む。
電話の応対と取次、その報告をまとめるのは決して楽ではない。
その熱心さを会社は評価していた。
帰宅するといつもの習慣で郵便物を確認する。
ダイレクトメールしかないと分っていても、あの人の名前を探す事をやめられない。
いつものように靴を脱いで、扉を開けるとそこにはあの人が立っていた。
表情のない顔には無精ひげが生えていて、けれど間違いなくあの人だとキキには分った。
「帰ったんだ」
「おい、誰だお前」
「誰って、娘の顔も忘れたの? 」
「娘? 俺の娘はまだ5歳だ。君江はどこだ」
錯乱している訳ではなく本気でそう思っているように見えた。
だからキキはそれに合わせた。
「奥さんは出ていったのよ、貴方に愛想を尽かして」
「なんだと」
「娘さんも連れて行ったんじゃないの」
「馬鹿な、ばれていたのか。あいつが君江に何か言ったのか」
目の前にいるキキをあの人は見ていない。
「私も連れてって」
「どこに? 」
「そっちに」
キキには分っていた。
父はもうこの世には居ない。
「またその話か」
「またって? 」
ずっとそう願っていた。
「あの女もそういっていた」
「そうじゃないの」
「あの世なんてものはないんだ」
「じゃあどうして、どこにいたのよ」
「どこにもいない。消えてなくなる」
「そんなの酷い」
飽和した空が決壊して、雨が降るようにキキの中で何かが壊れた。
「行かないでよ」
腕を掴もうするが、上手くつかめない。
ゆらゆらとハンガーにかかった黒い背広が揺れる。
揃えられた革靴が外側を向いている。
初めてその瞬間に見捨てられたのだと知った。
「なぜ死んだの? なぜ私を殺してくれなかったの? 答えろ馬鹿親父」
「妻と娘が待ってるんだ」
そういうとあの人は霞になって消えてしまった。
部屋の中は散らかり放題で、キキは途方に暮れた。
太陽が沈み始めていた。
思い出せない。
待つ事は耐え難かったが、悲しくはなかった。
地縛霊のようにキキは家に憑いていた。
今はもう帰ってくる人はいない。
ただそこには薄汚れたカーテンと壊れた家具があるだけだ。
母は帰ってくるだろうかとキキは考える。
けれど信じることができない。
何度夏を迎えた頃に、もしくはこの柱が腐って朽ちた頃に。
そうして待っているうちに消えてなくなるとしたら。
それはキキ自身の肉体と存在するかどうかも疑わしい魂の方だ。
揺れながら影を作る太陽がキキの頬を真っ赤に染める。
手を伸ばしたら届きそうな距離にそれはあって、窓を開ける。
繁茂した蔦が隠した壁がゆっくりと闇に中に溶け込んでいく。
待ち続ける意味を失ったキキは、どこか遠い所に行きたいと思った。
そしていつかこの家に帰ろう。
誰も待っていてはくれないけれど、この家が待っている。