ノーライフ
私は「死のう」と思い立った。
いまさら後悔もない。もう少し我慢してみろと誰かに言われる筋合いもない。私はこれまで十分に忍耐を重ね、出した答えをじっくり吟味してきた。その結果が「自殺」だっただけのことである。
朝六時に起き、いつものように学校へ向かい、いつものように蔑みの対象として甘んじる。しかし延々と繰り返されてきた日常も昼休みをもって終了だ。私は独り黙々と弁当を平らげながら脳裏に死後の解放を思い描いた。
そして午後十二時三十分現在。
私は最後の一歩を踏み出そうか否か、いまだに迷っていた。
変だ。ついさっきまでは死ぬ気がみなぎっていたのに。いざ屋上へ昇り地を見下ろした途端無意識のうちに息を呑み込んだ。どうやら渾身の覚悟は咀嚼した玉子焼きとともに胃袋へ落ちてしまったらしい。
おかしいな。去年からずっと、そして先月からはことさら「死んだ方がマシだ」と心を黒く塗りつぶすほどいじめ抜かれてきた私が、死を恐れているのだろうか。
たった一歩進み出るだけでいいのに。そうすればこの苦しみを捨て去ることができる。どうしたというんだ。平日は夜から、そして休みには日がな一日私を癒してくれた、電脳世界のパラダイスではない本当の意味での現実から逃れることができる。
だがもし仮に失敗でもしたら?
学校中の騒ぎとなり、病院へ送られた後に待つ風評を思うと足がすくんだ。失敗は許されない。万一命が助かれば、それこそ今のような程度の辱めを受けている方がよっぽど楽だ。やるなら全力でやらねばならない。
凍りついた足をどうにか慣らし、再びフェンスに手を掛ける。死ぬにはもってこいの晴れ模様だ。
今日は習慣となっていた購買への使い走りを初めて放棄してきた。元から私にあとなどない。ちらりと出入り口横の時計を見る。予鈴まであと三分。
背中を押されるような高揚感が私を襲った。しくじるものか。
喉を鳴らす。再び芽を出す覚悟を両手に握りしめ、上体を浮かせた。
行こう。家族よ、人世よ、いざさらば。
勢いのまま大空へ飛び込もうとしたそのときだった。
眼下に広がる、校舎前の道路に老婆を見た。
直進の路。腰を曲げた背後へぐんぐんと迫る白いスポーツカー。緩まぬスピード。運転手は見えていないのか。
あれでは、ぶつかる。
「あぶない!」
私は聞こえるはずもないのに強く叫んでいた。車は平然と脇をすり抜けて行った。
地面に倒れ込む老婆を呆然と眺める私の耳に、午後を知らせるチャイムが響く。一昨日から調律がおかしいのだそうだ。間の抜けた旋律を背に、糸が切れたようにその場へしゃがみ込んだ。
そうだったのかと思い知らされた。
拭いきれぬ恐怖は真実であったこと。老婆の無事に心底安堵し、その嬉しさは実は自分にも向けられていたこと。そして死を恐れる私は、つまりこんなにも、生きたがっていたのだということを。
午後の時限が始まっている。
私は袖口で顔を拭い、ただがむしゃらに階段を駆け降りた。
「なんだ小林。遅刻か? あんまり急ぎ過ぎて転ぶなよ」
階下の踊り場で資料を抱えた担任とすれ違う。にこやかな笑みへ会釈を返し、ひたすら走った。
元から私にあとなどない。
矢面に立たされているのなら、もう前へ突っ込むしかなかろう。
「だいじょうぶですか!」
私は走った。
昇降口の先へ、いまだに倒れたまま動けずにいるかもしれぬ老婆のところへ。