四季の女神
雪解けの音が、まだ遠くの山肌で小さく響いていた。凍りついた土壌の底、誰の目にも触れない深い暗がりに、小さな気配が蠢く。春の気配を纏った神使・サラマンダー達が、半透明の朱色の体を震わせて目を覚ました。彼らは新緑の葉脈の様な光のラインを体表に走らせ、凍てついた大地を内側からじわりと温め始める。冬の間に蓄積された冷気を和らげ、眠る種子へと最初の目覚めの熱を届けるための、繊細で確かな仕事の始まりだった。
その地表のすぐ近く、吹き抜ける冷風の中に佇む影があった。プラチナブロンドの髪を風になびかせ、白銀の鎧を思わせるコートドレスをまとった冬の女神――宇津姫である。彼女の瞳は磨き上げられた刀剣の様に鋭く、冷徹に世界を見据えていた。全てを凍てつかせる風の中、その従者である風の精霊・シルフたちが無機質な仮面を揺らしながら周囲を旋回する。
「……まだ、冬の規律は満ちていない。」
宇津姫の冷たい呟きは、誰に届く事もなく粉雪の中に消えた。然し彼女が手にする氷の剣と、スペードの刻印が刻まれた鏡の盾は、世界の理が次の局面へと移行する為の鋭利な緊張感を保ち続けていた。古い秩序や腐敗した構造を断ち切り、すべてを一度リセットしなければ、新しい命は芽吹かない。彼女の厳格さは、来るべき春へ向けた避けて通れない試練そのものだった。
その厳冬の気配が少しずつ緩み始める頃、人間の村里には一人の赤毛の村娘が姿を現していた。使い古したエプロンを身に纏い、そばかすを浮かべた彼女の名はサホ。其の正体こそ、冬を溶かし生命の萌芽を司る春の女神・佐保姫の仮の姿であった。
「うう、やっぱり人間界の朝は冷えるなぁ……。」
サホは凍えた手をこすり合わせると、急須で沸かしたばかりの、湯気の立つ熱いお茶をふうふうと息を吹きかけながら飲み干した。彼女の周りだけは、真冬の寒さの中でも妙に空気が温かい。村の農夫達が今年の作付けについて頭を悩ませていると、サホはひょっこり現れ、何食わぬ顔でアドバイスを落としていく。
「ねえ、其処のおじさん!今年の苗は、もう少し水はけの良い場所を選んで、種を蒔く前にサラマンダー……じゃなくて、ちょっとした温かい灰を混ぜてみるといいよ。きっと、すごい勢いで芽を出すからさ」
「おや、お前さんは……いつも変なところで鋭い知恵を授けてくれる旅の娘だな。有難く試させて貰うよ」
農夫が笑顔で振り返った時には、サホの姿は既に消えていた。彼女が去った足元からは、ほんのりと若葉の緑と暖かな陽炎の匂いが立ち上っていた。佐保姫は人間たちが知恵を絞り、大地を耕して生きる姿を、愛おしげに情熱的な眼差しで見守り続けていた。
春が深まり、軈て万物が鮮やかな緑に包まれると、世界は次なる豊穣の季節へとバトンを渡す。活気ある巨大都市の市場では、黄金色の美しい髪を持つやり手の女性商人・ツツジが、鋭い眼差しで帳面をめくっていた。彼女こそ、夏の女神・筒姫の仮の姿だ。
「帳簿の数字に妥協は禁物です。安かろう悪かろうの品で目先の利益を追えば、商いの信用は一瞬で崩れ去りますよ」
ツツジの言葉に、若手の商人は冷や汗を流しながらも深くうなずいた。彼女の足元や都市の地下道では、ずんぐりとした体型で宝石の瞳を持つ地の精霊・ノーム達が、世界の富の流通量や作物の価値を緻密に査定し続けている。彼らは誠実な商人の倉庫を守り、不正を働く者の富を一晩で持ち去るシビアな監査官でもあった。筒姫が齎した公正な市場と貨幣経済の循環は、佐保姫が撒いた生命の種を確かな物質的繁栄へと昇華させていく。
そして其の豊かな夏が過ぎ去り、世界が深い茜色と群青色に染まる秋の夕暮れ。傷ついた人々の心を癒やす聖堂の片隅に、一人の修道女が静かに佇んでいた。深くフードを被った彼女の名はタツ――秋の女神・竜田姫の仮の姿である。
タツは戦いや労働で心身を擦り減らした旅人にそっと近づき、聖杯の雫を混ぜた水配りを行った。説教をすることもなく、ただ黙って人々の苦悩や悲しみに耳を傾け、優しく背中を擦る。彼女の周りでは、従者である水の精霊・ウンディーネ達が秋の物悲しい長雨や朝露に紛れ、人々の疲れや過ぎ去った季節への名残惜しさを綺麗な水に浄化して大地へと還していた。
「過ぎ去った日々に感謝し、痛みを癒やすこと。それもまた、巡る季節の尊い営みなのです」
タツの静かな呟きは、荒んだ人々の心を優しく包み込み、次の冬を迎えるための穏やかな強さへと変えていった。
雪解けの静けさから始まった季節の輪は、再び冬の冷気へと帰ろうとしていた。然し其の巡りゆく理の裏側で、四柱の女神達が織りなす世界は、ただ機械的に時間を刻んでいる訳ではない。其々の季節を生きる人間達の小さな選択が、神々の司る概念に新たな波紋を投げかけていた。
ある日の事、佐保姫の仮の姿であるサホは、嘗て自分が温かな火加減の知恵を授けた畑をこっそり訪れていた。そこでは、サラマンダー達の吐息を密かに纏った炉で鍛えられた農具を使い、若い農夫が懸命に土を耕している。
「うん、今年は一段と力強い芽が出ているね。人間ってやつは、本当に教えられた以上のものを勝手に工夫しちまうから面白い」
サホは嬉しそうに目を細め、胸の内で小さく微笑んだ。知的好奇心と、情熱を司る彼女にとって人間が知恵を絞り、自らの手で未来を切り拓く姿は何よりも愛おしいものだ。冷め切った冬の土壌を温めるのはサラマンダーの仕事だが、其の熱を受けた人間がどう燃え上がるかは、彼ら自身の意志に委ねられている。その一途な熱量に触れる度、佐保姫の胸の奥にも熱いものが込み上げてくる。
だが、全ての営みが順風満帆に進む訳ではない。季節が夏から秋へと移ろう頃、筒姫の仮の姿である商人のツツジは、ある大きな問題に直面していた。都市の活気ある市場の裏で、ノームたちが地底の鉱脈ネットワークを伝えて奇妙な報告をもたらしたのだ。ある新進気鋭の商人が、目先の利益欲しさに不正な契約を結び、粗悪品を大量に流通させようとしている。
「ふん、愚かな事ですね。安かろう悪かろうの品で目先の金貨をかき集めても、そんなものは直ぐに信用という名の地盤ごと崩れ去るのに」
ツツジは鋭い眼鏡の奥の目を光らせ、帳面をパタンと厳しく閉じると、直ぐ様その商人の下へと向かった。彼女が放つ圧倒的な合理性と正当な対価への拘りは、不正を企む人間にとって恐怖其の物だ。しかし、ツツジがその商人の倉庫の扉を叩いたのは、ただ罰する為だけではない。
「あなたのその才覚と若さの情熱を、どうして目先の欲に溺れさせてしまうのです。本当の富とは、市場の信頼という土台の上にしか築かれない」
冷徹でありも乍ら筋の通ったツツジの言葉に、不正に手を染めかけていた商人は、冷や汗を流し其の場に崩れ落ちた。地下の暗がりでは、ノーム達が無言でその商人の倉庫を点検し、不正の証拠を次々と暴き出す。筒姫は只お金を回すだけの冷たい機械ではない。公正な市場という秩序を守る事で、人間の経済活動を正しい繁栄へと導く慈悲が其処にはあった。
そして、其の様に人間の欲望がぶつかり合い、労働で心がすり減っていく場所には、必ず竜田姫の仮の姿である修道女・タツの気配があった。戦いや日々の生活の重圧に押しつぶされそうな人々が教会や宿場の井戸端に集まると、ウンディーネ達がそっと聖杯の雫を混ぜた水をもたらす。タツは何も言わず、ただ静かに傷ついた人々の側に座り、その背中を優しくさすった。
「どんなに深く傷つき、季節が移り変わっても、あなたが流した涙や重ねた日々が消えることはありません。それを清らかな水に還し、また明日へ歩き出す力を持ちましょう」
タツの言葉と、ウンディーネ達が運ぶ清らかな水に触れた人々は、不思議と心の蟠りを解いていく。物事の終わりを受け入れ、哀愁を感謝へと変えるその深い愛の営みは、人間たちの荒んだ心を癒やし、再び立ち上がる為の静かな勇気を与えていた。
然し、そうして育まれた営みや、人間達が積み上げてきた秩序もやがて限界を迎える。古いものは朽ち、腐敗した構造は新たな芽吹きの邪魔になる。その全ての終わりと清算を告げる為に、ついに冬の女神・宇津姫の仮の姿である検察官・ウヅキが動き出す時が来た。
戦乱と政治の腐敗に揺れる都市の広場に、冷徹な風が吹き抜ける。ウヅキの従者であるシルフたちが無機質な仮面を揺らしながら空を舞い、不正な権力者達が隠し続けてきた嘘や裏切りの契約を次々と凍りつかせて暴き出していく。
「言い訳は不要です。腐りきった秩序の儘では、次の春は訪れない」
ウヅキが手にする氷の剣が冷たく光り、一切の情けを排した厳格な試練が都市全体を包み込む。それは破壊のための死ではなく、新しい命を迎えるための絶対不可欠なリセットだった。圧倒的な恐怖と試練を前に、ある者は絶望し、ある者は自らの甘えを断ち切るために立ち上がる。
佐保姫の灯す熱い火が始まりを告げ、筒姫の硬貨が富を巡らせ、竜田姫の聖杯が心を癒やし、宇津姫の剣が全てを終わらせる。四つの季節の理は、今日も人間の営みと共に回り続け、世界は無限の輪の中で新たな明日へと歩み出していく。
冷徹な冬の風が都市の隅々まで吹き抜け、古い時代の澱みを完璧に凍りつかせたその日、世界はひとつの大きな節目を越えようとしていた。宇津姫の仮の姿であるウヅキが齎した容赦ない試練は、権力者達の不正や私利私欲にまみれた腐敗の構造を根底から打ち砕いた。広場に響き渡る氷の剣の鋭い残響は、人間社会に終わりの絶対的な重みを突きつける。然し其れは決して絶望の終わりではない。
全てが白銀の沈黙に包まれた其の瞬間こそが、古い秩序という名の不要な殻を脱ぎ捨て、新たな循環へと踏み出す為の不可欠な清算の時だ。シルフの群れが冷たい風に乗って空の彼方へ溶けていくと、凍てついた大地の奥底で、次なる動きがひそやかに始まっていた。
地中深くの暗がりに潜んでいたサラマンダー達が、プラチナブロンドの残滓を溶かす様に一斉に身じろぎをする。朱色の体表に走る新緑の光のラインが激しく明滅し、凍りついた土壌の深部からじわりと熱を帯びた息吹を送り込み始めた。冬の厳格な管理により磨き上げられた土壌は、今や新しい生命を受け入れる為の最高のキャンバスへと変貌を遂げていたのだ。其の変化を誰よりも早く察知したのは、春の女神・佐保姫その人であった。
「ふう、ウヅキってば、相変わらずやりすぎる過ぎる位綺麗に片付けるんだから。でも、これで十分だね。土の準備は万端だよ」
サホは愛用の木製の杖の先端に小さな赤い炎を灯すと、畑の端でぱっと明るく微笑んだ。彼女の周りには、何時も通り植物の種子や古文書を模した閃きの子細な光が楽しげに舞う。佐保姫の胸中にあるのは、冬の終わりに対する安堵と、これから始まる新しいもの事への強烈な知的好奇心と情熱だ。冷め切った状況を何よりも嫌い、人々にやる気を灯す彼女は、手始めに村の若者たちの夢を応援しようと動き出した。
前回の冬の試練でウヅキから厳格な指導を受け、自らの甘えを断ち切った一人の若い農夫がいた。彼は嘗て目先の利益に目が眩みかけていたが、試練を経て本当の意味で地に足をつけて生きる覚悟を決めていた。サホは其の青年の肩をぽんと叩き、こっそりと耳打ちする。
「ねえ、若いお兄さん。ただ種を蒔くだけじゃなくてさ、あの鍛冶場の炉の熱を少しだけ分けて貰った農具を使ってみなよ。驚くほど土深くまで光が行き渡って、最高の芽が出るからさ」
「あんたは……いつも大事な時に現れて、妙に的確な知恵を授けてくれる旅の娘だな。よし、やってみるよ!」
青年の瞳には、かつての迷いは微塵もなく、新しい季節にかける確かな情熱の火が灯っていた。サホは満足そうに頷くと、鮮やかなライトグリーンと陽炎のオレンジが混ざる髪を揺らしながら、風のようにその場を去っていった。彼女が歩いた足元からは、まだ早春の冷気が残る土の中から、力強い若葉の芽が次々と顔を出し始める。
こうして佐保姫が蒔いた情熱の種と授けた知恵の火は、やがて万物を鮮やかな緑の季節へと押し上げていく。そして、その生命の息吹が最大限に膨れ上がった時、世界は次なる豊穣のステージへと移行する。
巨大都市のきらびやかな市場では、夏の女神・筒姫の仮の姿であるやり手の女性商人・ツツジが、黄金色の麦穂を思わせる誇り高いドレスの裾を翻しながら、新たな経済の仕組みを構築していた。
「佐保姫が齎した若葉の勢いを、只の勢いだけで終わらせてはなりません。それを公正な流通に乗り換えてこそ、都市全体の物質的な繁栄に繋がるのです」
ツツジの鋭い眼差しのもと、地下のネットワークを駆使する無数のノーム達が、街道の裏や市場の金庫の床下で驚異的な手際で富の流通量を記録し査定していく。嘗て不正を働いてツツジに厳しく咎められた商人は、今や彼女の教えを胸に刻み、正当な対価と誠実な取引を重んじる信頼の厚い商人へと成長していた。筒姫が齎す合理的かつ慈悲深い富の循環は、人々の生活を底支えし、社会に豊かな潤いを与え続けている。
然しどれほど経済が栄え、物質的に満たされたとしても、人間の営みには必ず疲弊や心の摩擦が伴うものだ。商いのプレッシャーに押しつぶされそうな者、労働の重みに耐えかねて涙を流す者たちが続出する秋の夕暮れ、世界は再び茜色と群青色のグラデーションに包まれる。
傷ついた人々がひっそりと集まる古い聖堂の奥で、深くフードを被った修道女・タツ――秋の女神・竜田姫が、静かに聖杯の雫を混ぜた水を用意していた。タツは言葉を発する事なく、只トパーズの瞳に哀愁と深い慈愛を宿し、苦悩を抱える人々の傍らにそっと寄り添う。彼女が従えるウンディーネ達が秋の長雨や朝露に紛れて集めた人々の疲れや切なさを、清らかな水に浄化して大地へと還していく。
「どんなに激しく働き、富を求め、そして傷ついたとしても、私達が流した涙の数だけ、季節は優しくあなたを包み込んでくれます。焦る必要はありません。今はただ、過ぎ去った日々への感謝を胸に、心を休めましょう」
タツの静かで包み込むような声を聞いた人々は、心の底から澱んでいた不安や痛みがスーッと洗い流されていくのを感じた。物事の終わりを受け入れ、切なさを尊い感謝へと昇華させるその聖母の如き愛の営みは、荒んだ人間達の心を再び結びつけ、生きる為の穏やかな光を与えていく。
幾度もの季節の巡りが重なり、四季の理が完璧な歯車となって回り続ける中で、世界は一つの新たな領域へと差し掛かっていた。神々と人間が織りなす生存のシステムは単なる反復ではなく、互いの選択と想いを受けて、少しずつ然し確実に深みを増していたのである。
春の女神・佐保姫の気紛れと慈悲によって温められた大地は、毎年の様に豊かな実りを約束し、人間たちの文化を急速に発展させていた。然し物事が急激に拡大し、複雑さを増すにつれて、此れ迄の単純な知恵や技術だけでは対応しきれない課題も生まれ始めていた。
ある穏やかな春の日の午後、人間の村から少し離れた山あいの鍛冶場で、嘗てサホから的確な助言を受け、今や熟練の職人となった男が頭を抱えていた。彼の前には、新しい時代を見据えた巨大な農耕用の機械と、より精密な道具の設計図が広げられている。
サラマンダーの吐息を纏わせた炉の火加減は完璧だったが、それを動かす為の動力や、村全体を効率的に潤すためのシステム構築に行き詰まっていた。其の様子を、物陰から鮮やかなライトグリーンと陽炎のオレンジが溶け合う髪を揺らし乍ら見つめているサホという少女、佐保姫その人である。
「ふふ、人間ってやつは面白いね。一つの知恵を手に入れたら、直ぐに其の先をもっと知ろうとする。その未知への探究心こそ、私が一番愛おしくて燃え上がってしまう所なんだけどさ」
サホは愛用の木製の杖を軽く突くと、手元で楽しげに舞う閃きの子細な光を、男の足元へとそっと飛ばした。其れは古文書の欠片や、大地に眠る植物の種子が持つ神秘の記号を模した光の粒だった。光が男の設計図に触れた瞬間、男の脳裏に稲妻のようなひらめきが走り、止まっていた思考が一気に加速する。
「おや……?此の水路の引き方と、サラマンダーの熱を循環させる管の角度をこう変えれば、全体の効率が何倍にも跳ね上がるぞ……!」
男が歓声を上げ、夢中になってペンを走らせる姿を見届けると、サホは満足そうに微笑み、風の様にその場を去っていった。佐保姫の胸にあるのは、只おっとりとした春の訪れを告げるだけの女神ではない。冷め切った停滞を嫌い、人々の心に尽きせぬやる気と新しい始まりの火を灯し続ける、情熱的な創造主としての確かな矜持だ。
然し佐保姫が齎した技術の飛躍と新しい道具の数々は、当然乍ら人間の経済活動其の物にも大きな変革を齎す事になった。生産力が向上し、交易の規模が拡大するにつれて、社会には莫大な富が流れ込み始める。
其の動きを、都市の巨大な商工ギルドの最上階から鋭い眼差しで見つめる人物がいた。きっちりと着こなした旅の商人風の衣装に身を包み、知的な眼鏡をかけたやり手の女性商人――ツツジの仮の姿をまとった夏の女神・筒姫である。
「生産力の向上は結構ですが、それが野放図な投機や、根拠のない虚栄の富に変わっては意味がありません。公正な市場のルールと、確かな価値の裏付けがあってこそ、物質的な繁栄は本物となるのです」
ツツジが手元の分厚い帳面に厳しい文字を走らせると、都市の地下道や街道の裏手では、無数のノーム達が地底の鉱脈ネットワークを伝わって一斉に動き出した。宝石の原石の様な瞳を輝かせた彼らは、新しく生み出された道具の価値をミリ単位で査定し、富の流通量が適正に保たれているかを厳しく監査していく。嘗てツツジに其の厳格さを叩き込まれた若手商人の一人格は、今や都市全体の経済を支える重鎮へと成長していた。彼はツツジの元を訪れ、緊張した面持ちでこう告げた。
「ツツジ様、新しい技術による生産物は各地で飛躍的な売上を記録しています。ですが、此の儘では一部の裕福な者達だけに富が偏りかねません。どうするべきでしょうか」
ツツジは眼鏡のブリッジを押し上げ、冷徹でありながらも確かな慈愛を湛えた瞳でその青年を見据えた。
「よく気づいたね。富とは一箇所に留まる水の様なものではなく、市場という名の水路を巡る事で初めて意味を持つよ。筋の通った夢を持ち、正当な努力をする若者達へ、適切な条件で資金とチャンスを融通しなさい。其れこそが、次の夏を真に豊かにする投資というものさ」
筒姫の導きによって富が正しく再分配される仕組みが整うと、都市の活気は更に強固なものとなり、人間たちは物質的な繁栄を謳歌していった。だが、どれほど経済が栄え、技術が発展し、人々の生活が豊かになろうとも、その光が強くなる影では、必ず拭えない疲弊や心の摩擦が生まれるものだ。富を巡る激しい競争にすり減り、労働の重圧に耐えかねて孤独に涙を流す者達が続出する秋の夕暮れ、世界は茜色と群青色の深いグラデーションへと移り変わる。
傷ついた人々がひっそりと集まる古い聖堂の隅で、深くフードを被った物静かな修道女――タツの仮の姿を纏った秋の女神・竜田姫が、聖杯の雫を混ぜた静かな水を用意していた。
タツは言葉を多く持たない。只、トパーズの瞳に深い哀愁と無限の慈愛を宿し、過酷な競争の中で心身を病んだ者たちの傍らにそっと寄り添う。彼女が従えるウンディーネ達が、秋の物悲しい長雨や朝露に紛れて集めてきた人々の疲れや、過ぎ去った夏への名残惜しさを、清らかな水へと溶かして綺麗に浄化していく。
「どんなに激しく働き、富を求め、そして其の過程で傷ついたとしても、皆様が流した涙や、此処迄歩んできた日々の重みが消えるわけではありません。痛みを知るからこそ、私達は他者の優しさに感謝できるのです」
タツの静かで包み込むような声を聞いた人々は、胸の奥底で凝り固まっていた不安や猜疑心がスーッと洗い流されていくのを感じた。物事の終わりを受け入れ、切なさを尊い感謝へと昇華させるその聖母の如き愛の営みは、荒んだ人間達の心を再び結びつけ、明日を生きる為の静かな力を与えていく。
そして、そうして人間達が一年間の歩みを振り返り、全ての感情を昇華させ終えた時、世界は再び一切の妥協を許さない厳格な冬の領域へと滑り込む。
全てをリセットし、次の春へと繋ぐ為の冷徹で気高い剣を持つ宇津姫が、その仮の姿である検察官・ウヅキとして再び世界の裏側でその瞳を鋭く光らせる。戦乱や政治の腐敗、或いは人間社会が築き上げた歪な構造の全てに対して、ウヅキは一切の情けを排した容赦ない試練を突きつける。広場に吹き抜けるシルフたちの冷たい風が、腐りかけた秩序や嘘の契約を次々と凍りつかせて暴き出していく。
「どれほど華やかな繁栄を築き上げようとも、其処に慢心と腐敗が生じたのなら、一度す全てを断ち切らなければならない。新しい芽吹きは、古い殻の完全な清算の先にあるのです」
ウヅキが手にする氷の剣が冷たく光り、都市全体が白銀の緊張感に包まれる。それは破壊のための死ではなく、来るべき新しい春を最も鮮やかに迎えるための、世界共通の不可避の儀式であった。
佐保姫が灯した情熱の火は、筒姫の金貨によって富に変わり、竜田姫の聖杯によって癒やされ、そして宇津姫の剣によって清算される。四季の女神が織りなす此の巨大な生存のシステムは、神々と人間達の交錯する営みの中で、決して止まる事なく、永遠の命の螺旋を描き乍ら今日も静かに、そして力強く回り続けているのだ。
幾重もの季節の巡りが重なり、四季の理が完璧な歯車となって回り続けた結果、人間界はかつてないほどの成熟と調和の境地に達しようとしていた。
春の女神・佐保姫が灯した知恵の火は、最早一時の閃きに留まらず、人間達の手により自立した技術と文化へと昇華されていた。サラマンダーの熱を借りた炉は全国の鍛冶場や工房で安定した奇跡の火加減を保ち、農民達は効率的な耕作と豊かな実りを享受している。夏の女神・筒姫が齎した公正な市場と貨幣経済のネットワークは、ノーム達の厳格な監査と適切な再分配により、一部の富豪だけでなく社会全体に確かな物質的繁栄と安定を齎していた。
更に其の経済活動の中で生じる競争の歪みや心の摩擦は、秋の女神・竜田姫とウンディーネ達が齎す深い慈愛と聖杯の水により丁寧に癒やされ、人々は互いを思いやる絆を取り戻していた。そして、冬の女神・宇津姫とシルフ達が齎す厳格な試練と清算は、社会に巣食う慢心や腐敗の芽を定期的に刈り取り、常に刷新された公正な秩序を保ち続けていた。
女神が司る季節のシステムは、最早神々が一方的に人間を管理する達の仕組みではない。神々と人間が互いの意志を尊重し、手を取り合って未来を紡ぐ為の永遠の共生回路へと昇華されていたのだ。
その完全な調和が訪れた、ある特別な季節の変わり目――冬の冷気が名残惜しそうに遠ざかり、世界が若葉の緑と暖かな陽炎に包まれる最高潮の春の日に、一つの奇跡が起きた。人間の村里で、仮の姿で畑を手伝っていた佐保姫の前に、見覚えのある三人の女神が姿を現した。彼女達は其々の仮の姿を纏っていたが、その瞳の奥には神としての圧倒的な威厳と、長い旅路を共にした者同士の深い信頼の光が宿っていた。
「やれやれ……宇津姫の厳し過ぎる冬のせいで、今年の寒さは堪えたけれど、こうして見事に土が温まってくれたね。」
佐保姫がふふっと茶目っ気たっぷりに笑い乍ら木製の杖を軽く突くと、彼女の周りで舞っていた植物の種子や古文書を模した閃きの子細な光が、一斉に華やかに弾けた。ツツジは手元の分厚い帳面をパタンと閉じ、何時もの鋭い眼差しを和らげ乍ら頷いた。
「ええ、驚きましたね。今の人間界には、もはや無駄な搾取も、救いのない絶望も存在しません。彼らは自分達の手で、この世界の理を美しい繁栄へと変えてみせました」
タツは静かに微笑み、聖杯の小瓶から零れた朝露のような雫を優しく指先で受け止め乍ら言った。
「人間達の流してきた涙や、私達が寄り添ってきた数々の物語が、全て尊い感謝と愛に変わりました。終わりを恐れず、次の始まりを信じる強さを、彼らは自らの足で掴み取ったのです」
最後に、白銀のコートドレスの裾を揺らし乍ら、ウヅキが静かに腕を組んだ。
「私の剣が示した試練を、彼らは逃げる事なく乗り越えました。古い秩序の清算は終わり、此処からは私達が無理に管理しなくても、人間達が自律して進む新しい黄金の時代が始まります……悪くない結末ですね。」
四季の女神達が人間界の片隅で静かに微笑み合ったその瞬間、世界の空に四季が一つの鮮やかな光の輪となって美しく溶け合った。神々と人間という垣根を超え、知恵と富と愛と秩序が完全に調和したその世界に、最早冷め切った絶望や終わりを迎える事への恐怖は存在しなかった。冬は次の春の為の温かな準備期間となり、春は無限の可能性を燃え上がらせ、夏は豊かな実りを齎し、秋は優しく心を包み込む。
四季の女神は、再び活気に溢れ始めた人間達の村や市場、聖堂へと其々の足取りで戻っていく。彼らの背後では、サラマンダーたちが楽しげに跳ね回り、ノーム達が富の安全を祝し、ウンディーネ達が清らかな水を讃え、シルフ達が心地よい祝福の風を世界中へ送り届けていた。世界は永遠の命と愛の螺旋の中で、最高に温かく輝かしい、誰もが笑顔で迎える事のできる永遠の幸福と踏み出していくのだった。




