第8話 いるはずのない存在
⑧
飛び出してきたのは、白い子犬だ。酷く慌てた様子で走り去ろうとするが、足を怪我しているようで今にも転びそうになっている。
「魔獣の子供か……?」
「かな? でも、なんだか――」
ラツェルが続けるよりも早く、もう一つの影が低木をなぎ倒しながら現れた。
少し見上げなければいけないそれは、猪のような姿をしていた。
黒い体毛に、巨大な牙。筋骨隆々とした体躯は見るからに強靱で、赤い瞳に欲望を漲らせている。
その食欲で捉えるのは、一瞬前に飛び出してきた子犬だ。明らかにより食いでのあるユーゲンたちを無視して、巨大猪は鼻を荒く鳴らし、小さな白い犬を睨み付ける。
「なんでっ、デビルボアがこんなとこにっ……!」
居ることは知っていた。ラツェルと読んだ資料にも名を連ねられていた。
しかし、もっとずっと魔力の濃い、森の奥地にいるべき魔獣だ。Cランク以上に討伐を依頼されるような魔獣で、こんな浅いあたりにいて良い存在じゃない。
「逃げるぞ、ラツェル」
「でも……」
ラツェルの視線の先にいるのは、とうとう転んでしまった子犬だ。
傷をつけたのもデビルボアだろう。もうすっかり弱っているようで、立ち上がるにも苦労している。
子犬とラツェルを見て、ユーゲンは一瞬迷う。
今なら逃げ切れる。しかし、ラツェルは子犬を助けたそうだ。
一瞬表情を歪めた彼は、よし、と呟くと自分の両方を叩く。
「冒険者は、自由だ。逃げるのも、立ち向かうのもな!」
背負った剣を構えるユーゲン。彼の背中にラツェルは表情を明るくした。
ラツェルも子犬を庇う位置に立って、いつでも魔法を撃てるように準備する。
「ラツェル! 突進に気を付けろ! 普通の小さい猪の突進でも余裕で死ねるからな!」
「うん!」
デビルボアは獲物の前に立ちはだかる二人を敵と認めたらしい。
蹄で地面を二度三度と蹴り、威嚇の仕草をする。
対するユーゲンは体に見合わない大きさのバスタードソードを両手で構える。
突進でも、牙でも、受けたらまず死ぬ相手。緊張でこめかみを汗が伝った。
デビルボアが加速した。狙いはユーゲンだ。
横へ飛んでどうにか躱すが、巨体の生み出す風圧に背筋が寒くなる。
急いで体勢を立て直すと、デビルボアは既に弧を描き終えて再び彼を視界に捉えていた。
「ユーゲン!」
ラツェルの突き出した手から雷が奔り、ボアの黒い横っ面を叩く。
これはさすがに効いたらしい。スピードを緩め、フラつく様子を見せた。
「ハァっ!」
その隙に、ユーゲンが剣を叩き込む。
狙い違わず眉間を切りつけた刃だが、しかし力不足。
毛と皮を薄く裂いただけで、ダメージにはなっていない。
「くそっ!」
巨体に巻き込まれる前に跳びすさり、やけくそ気味に足を切りつける。
今度は刃が通った。
偶然関節に当たったようで、ボアの動きが若干悪くなる。
そこへ追撃の雷が一発、二発。
閃光がボアを貫き、肉の焼ける匂いが漂い始めた。
「いいぞっ!」
ユーゲンの前にはデビルボアの黒く巨大な尻。もう一度足を切りつけるのに絶交の位置だ。
バスタードソードを肩に担ぐようにして持ち、振りかぶって、切りつける。
しかし予期した感覚は来ない。
代わりにキンと金属の弾かれる音がして、彼の軽い体が吹き飛んだ。
「カハッ……!」
背を木の幹に強く打ち、肺の中の空気が無理矢理吐き出される。
幸い剣が盾になってくれたようで、骨は折れていない。だが胸と背に強い痛みが走る。
――っテェ……。ヒビでも入ったか……!?
脂汗の流れるのを無視して立ち上がると、再びボアの突進をしようとしているのが見えた。
ユーゲンは慌てて横へ跳び、地面を転がる。
その背後で、ミシミシと大木の折れる音がして、地響きが響いた。
「ユーゲンから、離れて!」
ラツェルは中空に大岩が生み出し、ボアへ高速で撃ち出す。
さすがのデビルボアも、自身の体躯と同じくらいある岩を受けてはひとたまりもない。
大きく吹き飛んで、森の木々をなぎ倒しながら転がっていく。
「ラツェル、そのまま捕まえてくれ!」
「分かった!」
ラツェルが腕を振るうとデビルボアの周囲の土が盛り上がり、無数の蔓草が生えてきた。
彼女の腕よりも太いそれは、ボアの四肢に何重にも巻き付いて繋ぎ止める。
暴れて引きちぎろうとしても、ラツェルに操作された蔓はいっそう強く絡みつくばかりだ。
横倒しになったまま身動きの取れない黒い巨体。千載一遇のチャンス。
これを逃すようでは、冒険者は名乗れない。
「うぉぉぉおおおおおお!」
烈火の気合いを叫びながらユーゲンは走る。
そして跳び、上段から、ボアの喉元めがけて剣を突き刺した。
体重も乗せたその一撃は、比較的柔らかな喉を突き破り、そして脳へと届く。
脳幹を砕かれたボアは、白目を剥いてビクりと震えた後、そのまま動かなくなった。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
ユーゲンは乱れた行きを整えながら、本当にもう動かないのか、じっと観察する。
魔獣によってはこの状態から息を吹き返すこともあるのだから、油断はできない。
しかしいくら待っても再び動き出すことはなく、ようやく、ユーゲンは自分たちが勝ったのだと実感した。
「やった……。俺たち、やっちまった! デビルボアを倒したぞ!」
ラツェルに駆け寄り、ユーゲンは彼女を揺さぶる。ラツェルも、頬を上気させて興奮を顕わにする彼に、とびきりの笑みを返した。
「あ、そうだ。さっきの子犬って、イテテ……」
「今治すから、じっとしててね」
「治癒魔法も使えるのか。すげぇな。助かる! って、テテ……」
ラツェルの瞳のような鮮やかな緑の光に包まれながら、ユーゲンは子犬を探す。
子犬は、後ろ足から血を流しながらどうにか歩こうとしていた。
「おっ、全然痛くねぇ!」
「良かった……。子犬さん、あなたも、治してあげるね」
二人の見つめる中、同じ光に包まれた子犬の傷は見る見る塞がっていく。
十秒も経てば、もう血の跡以外子犬が怪我をしていたことが分かるものはない。
「アンッ!」
「きゃっ! ……ふふ」
「良かったな!」
白い子犬は尻尾を振り、ラツェルの周囲を跳ね回ってから彼女に飛びつく。助けてもらったことを理解しているらしい。
けっきょく子犬がなぜデビルボアに追われていたのかは分からないが、これで一安心だ。
二人にお辞儀をしてから森の奥に去って行く子犬に、二つの安堵の息が重なった。
「しかし、ラツェルがいて助かったぜ。最後の大岩の魔法、凄かったなぁ。あんなデカいデビルボアを吹き飛ばしちまうんだもんな」
「えっと、ありがとう?」
「あ、でも、あんな岩出せるなら、遺跡の入り口もあれで塞げば良かったんじゃね?」
ユーゲンの疑問に、ラツェルは同意するしかない。たしかに、その通りだ。
「あ、あの時は、焦ってて思いつかなかったの……」
「たしかにな。本気で怖かったからなぁ、あれ……」
怒り狂う女神を思い出して、ユーゲンは身震いをする。
あんな恐怖は、もう味わいたくない。
「さて、それじゃあ、あとはこいつをどうするかだなぁ……」
ユーゲンの視線の先には、巨大な黒い塊があった。




