第20話 突きつけられた現実
⑳
森の出口が見える頃には、昼食の欲しくなる時間になっていた。木々の隙間には市壁の端が見えるから、ほとんど町の正面に出られたらしい。
町の周りは、嫌な予感に反して静かだ。魔獣で溢れているということも、冒険者たちが武器を振るっていることもなく、ただ無数の死骸ばかりが転がっている。
「どういうことだ……?」
「何が?」
「戦いが終わってるなら死骸の処理を始めてるはずなんだ。病気の元になったり別の魔獣を呼び寄せたりするからな」
それなのに、誰の姿もない。もしかしたら見えない範囲にいるのかもしれないが、あれだけの数の冒険者がいて、一切の気配が感じ取れないのは不自然だった。
知らず知らずのうちに足を速めるユーゲン。ラツェルも合わせて少し歩幅を大きくする。
森を出た瞬間だった。壁の向こう側、町の中から火の玉が飛び出した。それは空へ向かい、そして見えなくなる。
「っ!」
二人は無言で地面を蹴った。全速力で走って町を目指す。
近づくほどに聞こえるのは、活気あふれる町の喧騒ではなく、悲鳴や怒号。風に乗って煤や鉄のような臭いもやってくる。
死の臭いだ。
ユーゲンは脳裏をよぎった言葉を振り払い、既に苦しい肺へ鞭を打つ。
門が見えた。脚に力を込め、加速する。
駆け抜けた門は物凄い力で殴りつけられたかのように砕けており、開け放たれていてもう用を成していない。
その先にあったのは、阿鼻叫喚、地獄のような光景だった。
つい数日前までは平和だった通りには魔獣や人の死体、建物の残骸が散乱しており、あちこちに火の手が上がっている。時おり肉を叩く鈍い音や悲鳴も聞こえ、少し先に視線を向ければ、冒険者の一人が背に女性を庇いながら戦っている姿もあった。
「なんだよ、これ……」
信じられない光景だった。瞼の裏に浮かべて眠ったものとは、正反対の光景だった。
少年の真っ赤な瞳にゆらゆらと炎の影が揺らめき、血糊が嗅覚に蓋をする。よろめきながら一歩踏み出すと、建物の影で何かの肉を食いちぎるゴブリンの姿が目に入った。
その肉塊が何かを想像してしまって、喉の奥から熱く苦いものが上がってくる。無理矢理飲み込んでも、一度触れた苦さは消えない。
「どうして……」
少女も翠の瞳を揺らし、ローブを固く握りしめた。楽園しか知らずにいるはずだった彼女に、現実は、凄惨という言葉を強く意識させる。
胸の奥深くで蠢くその感情は怒りなのか、困惑なのか、はたまたまったく別のものなのか。幼い女神には分からない。
「どうして、て、こっちのセリフだ! 大丈夫なんじゃなかったのかよ!?」
ユーゲンが向けてきた鬼の形相が、スタンピードの始まる直前にも見たその表情が、胸の内のそれをますます激しくする。
そして知った。この感情は、気持ちは、恐怖なのだと。鮮やかだったはずの赤をどす黒く染め暗い炎を灯した友人の瞳に、泣きそうなラツェルの顔が映る。
ラツェルだって、大丈夫だって思っていた。半ば確信していた。でもそうではなくて、ユーゲンを怒らせてしまった。
咄嗟に謝ろうとした彼女の喉は、その言葉を音にしてくれない。
「あっ、いや……、わりぃ……」
ユーゲンは視線を彷徨わせ、下に外す。ラツェルが悪いわけではないと、頭では分かっていた。それなのに怒りをぶつけてしまった。
取り返しの付かないことをしてしまったような心地さえして、今相棒がどういう表情をしているのか、確かめることができない。
「あっ、お前ら! 無事だったか!」
走ってくるのはデビルボアの突進を正面から受け止めていた男だ。どうにかカストルという名前を記憶の奥底から引っ張り出し、縋るように、逃げるように彼の方へ足を向ける。
「にーちゃん、今どうなってんだ!?」
「ああ、どうにか大物を倒したところだ。ただ、まだ小物が町中に散らばってるし、門は壊れたままだ。小物狩りと門の修復を急がなきゃなんねぇ。いつ次が来るかも分からんからな」
「次……」
それはつまり、冒険者はまだスタンピードは終わっていないと認識しているということだ。優秀な斥候職もいるはずだから、それ自体は間違いないのだろう。ラツェルの瞳が揺れ、ユーゲンの視線が落ちる。
「なんだ? なんかあったのか? 二人ともひでぇ顔だぞ?」
「あ、いや、なんでもない」
「……まあ、残りは小物っても、俺たちからしたらって話だ。お前ら新人は無理しなくていい。ギルドが避難所になってるから、そこで待機してろ」
気を遣われてしまった。ユーゲンも動揺している自覚はあったし、こんな精神状態で魔獣と戦うのが危険なのは分かっていた。分かってはいたが、気がつけば、でも、と返していた。
「でもじゃねぇ。待機してろ。いいな?」
半ば脅すような強い声音と威圧で、今度は反射的な返事はできない。喉の詰まるような感覚を覚えて、混乱した頭も多少は冷えた。そうなれば、ユーゲンも無茶はしない。
「分かっ――」
首肯し、了承の返事をしようとした瞬間だった。
「いやぁっ!」
悲鳴が聞こえた。幼い女の子のものらしき声だ。
気がつけばユーゲンは走り出していた。すぐにラツェルも追う。
「あっ、おい!」
後ろからカストルの声がしたが、応えている暇はない。できる限りの速度で瓦礫の隙間を縫い、声のした方へ向かう。二回ほど角を曲がると、建物三つ分ほど先に声の主はいた。
壁に追い詰められた女性と子供が二人。彼女らを庇うようにして細めの角材を持った男性が前方を睨んでいる。側頭部を濡らす血は、彼の睨み付ける先で獰猛そうなうなり声を上げる黒狼の魔獣につけられた傷から出たものだろう。
悲鳴を上げたのは子供の片割れで間違いない。彼女らの表情は恐怖に歪み、青く染まっている。立ち上がるのも難しそうだ。父親らしき男性も戦い慣れているようには見えない。
絶体絶命とは、彼らのためにある言葉ではないだろうかとすら思えるような状況だった。
「くそっ……!」
ユーゲンはスピードを落とすことなく、狼の背中へ向かって疾走する。そして剣を引き抜き、全力で振り下ろした。
「ユーゲン!」
しかし当たらない。俊敏な狼に掠らせることすらできず、空を切る。
「あんな思いは、させない! させちゃダメだ!」
叫びながら振るう両手剣はいつも以上に大ぶりで、ひらりひらりと躱される。家族から離れさせることには成功しているが、反撃を受けるのは時間の問題だ。
「ユーゲン、落ち着かないと!」
彼に怯えてしまったことも忘れ、ラツェルは雷の魔法を撃つ。速度重視のそれも狼にはなかなか当たらないが、反撃は防げている。
そこに、カストルが追いついた。
「くらいやがれ!」
大楯を構えての突進が狼を吹き飛ばす。バキっと響いたのは、その骨の折れた音だ。
吹き飛んだ先にラツェルの雷が落ちた。痺れ、俊敏に動いていたはずの獣は完全に硬直する。
「ハァっ!」
そうなれば、興奮状態のユーゲンでも問題はない。狙い違わず首に振り下ろされた剣が、硬い毛皮ごと狼の命を断ち切った。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「ユーゲン、落ちついた……?」
「……ああ、うん。ほんと、わりぃ……」
少し落ち込んだ様子を見せた友人に、ラツェルは笑顔で首を振る。
「んーん。大丈夫。それより、急にどうしちゃったの? あんなに取り乱して」
「……ちょっと、父さんが死んだ時に重なったんだ。あの時、父さんは俺のせいで……」
ユーゲンは言葉を切り、地面をじっと見つめる。




