第19話 人しれない偉業
⑲
「終わった、のか……?」
おそるおそる声をかけながら、ユーゲンは魔法陣の中央にいる神獣へ視線を移す。離れた位置から分かる限りではあるが、苦しげに歪んでいたはずの表情は、いくぶん穏やかになっているように見える。
「……うん、落ち着いてる。上手くいったみたい」
ラツェルは改めて大きく息を吐いた。彼女自身が術者となるのは初めてだったから、上手くできるか確信が持てていなかったのだ。
しかし見る限り、魔法は思った通り動作しているし、周囲に満ちる魔力も安定している。全身の力が抜けてへたり込みたくなるのを、彼女はどうにか我慢した。
荒ぶるような、張り詰めた空気感が無くなったのは、ユーゲンも感じ取れた。魔力についてはまったく分からない彼でも、戦場独特の緊張感にも似た異常な空気は分かる。ラツェルの言葉もあって、そこに疑いはない。
ユーゲンはラツェルに駆け寄って、やったな、と快活な笑みを浮かべる。
「で、今のってどういう魔法だったんだ?」
「えっとね、魔力の制御を魔法陣で補助する魔法で、私も小さい頃にお母様にやってもらったの」
「練習用的なやつか。神様の魔力が暴走したら大変そうだもんなぁ」
何せ、一つの世界を作ってしまったほどの力なのだから。
神獣の力がいかに強大とはいえ、神族には及ばない。実際、ラツェルの保有する魔力は今回スタンピードの原因となった量よりずっと膨大だ。
しかしまだ幼い彼女には、自分自身の魔力以外の、それも広い範囲に満ちるようなものを制御しきるだけの技術は無い。その部分については、長年役割をまっとうしてきた神獣たちに一日の長があった。
――私が皆みたいに魔力の制御をできてたら、もっと簡単に解決できたんだろうなぁ……。
徐に、そして多少フラつきながら立ち上がった白い狼の神獣を見ながら、ラツェルは僅かに顔を曇らせる。ユーゲンは神獣に気を取られていたせいで、その表情に気がつけない。
「あ、おい、大丈夫か? えっと……」
「ウェルテアです。ラツェル様、助かりました。少年も、ありがとう」
思っていたよりも柔らかで女性的な声に、ユーゲンは目をぱちくりとさせる。ラツェルに答えたときの声は聞こえていなかったのだ。
その声には明らかに疲れが滲んでいるものの、青い瞳は穏やかな色を湛えている。
「いいってことよ! まあ、大した手伝いはできてないけどな」
「そんなことないよ。ユーゲンがいないと、たぶんここまで辿り着けてなかっただろうから」
「そうか? じゃあ、そうだな!」
笑みを交わす二人に、ウェルテアが口の端を上げた。
「でも、どうしてあなたのような古い神獣が抑えきれないほどの魔力が溢れてきたの?」
首を傾げるラツェル。尤もな疑問だと、ユーゲンもウェルテアへ視線を向ける。
しかしウェルテアは分かりませんと言って、かぶりを振るばかりだ。
「突然のことでした。初めはどうにか抑え込めていましたが、内側から溢れ出す力の収まることはなく、終には私の制御できる限界を超えてしまったのです。どうにか天災とならぬようには努めましたが、魔獣の大発生までは防げず……。面目ありません」
「いいえ。あなたはよくやっていたと思うわ。お母様だって労ってくださるはずよ」
それほどに、大きな力がこの地には渦巻いていた。もしウェルテアの力がもっと弱かったのなら、早々に諦めてしまっていたなら、ウェルティアンの森周辺は地図から消えて無くなっていたかもしれない。
ウェルテアは感謝を示すように頭を垂れると、少し上へ目を向ける。その先にあるのは、茜色に染まった空だ。まだ反対側の空にも紫はほとんど見えないが、旅の最中なら少なくとも野営の準備を始めていなければいけない時間になっていた。
「この後は、どうされるので?」
ウェルテアから向けられた視線をラツェルは、そのままユーゲンへ送る。
「んー、そうだな、いったん町に戻るかな。戦いが終わってても後片付けとか色々あるだろうし、荷物もいくらか宿に置いたままだ」
「なら、今夜はここで休んでいくと良いでしょう。間もなく日が暮れますから、すぐに発つのは危険です」
森の中はもうユーゲンの視界がまったく利かないくらいには暗くなっているはずだ。またラツェルに頼る手もあるが、タイムリミットが近いわけでもないのにわざわざ危ない橋を渡る必要は無い。
神獣の領域には例えAランクの魔獣であろうと近づかないはずだし、彼女の提案は妙案だと二人とも思える。
「そう、だな。それが良さそうだ」
「じゃあお願いするね」
「ええ。焚き火などは自由にして構いません。必要なら、私の毛で暖を取るのも良いでしょう」
狼の姿をしているのに、その白い毛は柔らかそうだ。あの中に埋もれたらきっと寝心地が良い。
寝るときを楽しみにしつつ、ユーゲンは食事の用意を始める。気が緩んだからなのか、先程から腹が煩いくらいに鳴っていた。
干し肉を鍋に入れた水の中に放り込んでから、二人で森の入り口まで戻って枝をいくらか拾う。ついでに果実でもあればと考えてはいたが、残念ながら見つからなかった。
「ほう、それが人間の食料ですか。不思議な匂いですね」
「肉を干すときに色々入れるらしいからな。香辛料、だったか? まあ、長持ちするように作ったもんだから普通の飯とは違うけどよ」
興味深げな視線に、ユーゲンは干し肉を追加する。どうせ今回のスタンピードでたんまり報酬が貰えるはずだから、ケチケチとする理由はない。
鍋を火にかけてしばらくすると、水を吸った干し肉はすっかりふやけて、人間であるユーゲンでも分かるほどにはっきり、何とも言えない匂いを漂わせるようになった。
「ほら、ラツェル。んで、こっちはウェルテアの分」
「いいのですか?」
「もちろん! 美味くはねぇから、文句は言わないでくれよ?」
「ありがとう」
にかっと笑って、彼は自分の分に口をつける。やはり美味しいとはお世辞にも言えない味だが、一仕事を終えた後だからか、不思議と満足感は十分だ。
ふと見ればラツェルもウェルテアも微妙な表情をしているものだから、つい噴き出してしまった。
「な、美味くないだろ?」
「えっと、……うん」
「不味いというわけではないのですがね……」
もし美味しい干し肉を作れたら、それだけでいくらか儲けられるかもしれない、なんてことは少なくない人間が夢想することだ。大抵の場合はそこまで調理技術がなくて諦めるのだが。
「そういえば、ユーゲンは英雄になりたいんだったよね」
「ん? まあ、そうだな」
正確には英雄と呼ばれるような冒険者だが。彼にとっては、父と同じ冒険者であることも重要だ。
「じゃあ、今日のことで夢、叶っちゃうかもしれないね」
「あー。いや、無理じゃねぇかな? 冒険者になりたての二人だけで禁足地の一番奥まで行って、神獣を助けてスタンピードを止めたなんて話、たぶん、ほとんどのヤツが信じねぇぞ? 誰にも何も言ってないし、見られてもないからな」
「そっかぁ……」
もしそうなれば嬉しかったのに、とラツェルは天を仰ぐ。思っていたよりずっと、箱庭の外の世界は難しいらしい。
知らないことだらけで楽しいが、友人の功績が認められないのは、少しだけ、もやもやする。
「まあでも、町が無事ならそれでいいんだ。まだまだ先は長いしな」
ラツェルには、ユーゲンがどこか遠くを見ているように見えた。知らない一面だ。まだ出会って数日だから当然だが、彼はときどき、まったく覚えのない顔を見せる。それはどこか大人の見せるものに似ていて、ラツェルとしては少し寂しい。
もし、過去に何かあったのなら、いつかそれについても聞けたらいいなと思う。もちろん無理強いする気はないのだが、ユーゲンへの興味は尽きない。
今回の事件もあってそれなりの数の人間と接した彼女だったが、彼に対する以上の興味を持つ相手にはまだ出会えていなかった。
「さてと、っと。もう今日は寝るか。明日は明るいうちに町に戻らないとだしな」
「……うん、そうだね」
二人で包まれたウェルテアの毛は、見た目の通りにフワフワとしており、宿のベッドの何倍も心地よかった。
翌朝、日の出の少し前に二人は目を覚ました。陽はまだ顔を出していないが、空は十分に明るい。
身支度を調えて、山頂の広場を後にする。Aランクの縄張りを出るまではウェルテアがついてきてくれたから、散歩のような心持ちで下山できた。
彼女に別れを告げた後も匂いが残っているからなのか、魔力の暴走が収まって数が減っているからなのか、魔獣たちの近づいてくる気配はない。
違和感に気がついたのは、山裾のあたりまで下りた頃だった。
「……なあ、なんか、魔獣の気配多い気がするんだけど、気のせいか?」
「私も、そんな気がしてた」
ウェルテアの匂いもあるし、できる限りの警戒もしているから、まだ剣を抜くことにはなっていない。それでも魔獣の出した物音は聞くし、場合によっては視認もした。その数が、思っていたよりずっと多いのだ。
森の奥の方だからかとも考えたが、スタンピードの起きていた頃に比べても遜色がないのはおかしい。二人の胸の内で、何かがざわざわと蠢いた。
「……急ぐか」
「うん、そうだね」
そのざわめきをかき消すように、二人は進む足を速めた。
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