8:アルベリオ(3)
年月は流れ、アルベリオは十五歳になった。
相変わらず勉強はあまり好きではなかったが、それなりに努力はしていた。
父王に認められるような立派な跡継ぎとなって、シャルシャを早く自由の身にしてあげるためだ。
アルベリオは幼い頃から、父王の治世を見てきた。
だからこそ、シャルシャを解放するためには「正しい時」を選ばねばならないと理解していた。
シャルシャの母国は、身分制のない共和国だ。
共和国では、個人が国家の不当な干渉や拘束を受けずに、自らの自由意思に基づき行動できる権利を謳っていた。
この『自由』という概念が、王国には致命的だと考えられていた。
共和国の法整備を研究した学者たちは口を揃えて、身分制の崩壊を予見した。王国の民が『自由』についての知識を得て、自分にも自由に行動できる権利があると思い始めた時、身分制による支配は力を失う。
その結果、王国は終焉を迎える。
共和国との貿易は続いていたが、この『自由』の概念をできるだけ国民から遠ざけるために、王国は許可の無い人物の往来を禁じ、情報にも規制をかけている。
だが、不用意にシャルシャを表舞台に出して、エルフの実在が庶民に広く知られるようなことになれば、彼らの好奇心を突破口に、共和国からの情報流入には歯止めがきかなくなるに違いない。
対外的な問題もある。
エルフの少女が長年王城の地下に囚われてきたという事実を、共和国側はどう受け取るだろうか。最悪の場合、国家間の戦争の引き金になるかもしれない。
それでもアルベリオは、シャルシャをいつか、ふるさとの国に帰すつもりでいた。
シャルシャはこの数年で、類い稀な美少女に成長していた。
椅子に座った彼女の、綺麗に伸びた背に向かってアルベリオは呼びかけた。
「墓守の住んでいた小屋を改築して、北の離宮と改名したよ」
ついにこの情報を、シャルシャに伝える時が来て、アルベリオは感慨深かった。
この日は彼にとって、一つの区切りだ。
墓守は昨年引退して、与えられた領地に移り住んだ。
以来、小屋に住んでいる者はおらず、シャルシャの世話は全てアルベリオが引き受けていた。
「君は、そこに移り住むんだ」
シャルシャはアルベリオを振り返った。
すぐには飲み込めず、不思議そうにしている。
やがて金の瞳を持つシャルシャの目が、大きく見開かれた。
「嘘」
彼女は、半ば期待しつつも、すぐに信じようとはしなかった。
「僕は、そんな嘘は言わないよ。君も知ってるはずだ」
アルベリオは微笑んだ。
大丈夫。信じていい。
心の底から喜んでいいんだ、シャルシャ──
「本当に?」
なかなか信じられないのも、無理はない。
アルベリオの祖父が彼女をここに閉じ込めてから、何年も経っていた。
この数年、アルベリオは父王に何度も直談判を重ねてきた。
解放はできなくても、せめて牢から出すように、シャルシャの待遇改善を求め続けたのだ。
だが父王は、なかなか牢の鍵を手放そうとはしなかった。
一方でアルベリオは、自身の婚約を拒み続けていた。
どうしても諦められない恋をしていたから。
でも彼女はいずれ、自分の国に帰ることになる。──アルベリオの元を離れて。
何度も話し合いを行った末にアルベリオは、国王に一つの提案をした。
宰相の娘との婚約を受け入れる代わり、シャルシャを地下牢から墓守の小屋へ移すという交換条件だ。
「王城の敷地内ですから、先王陛下の遺言にも触れないはずです」
そう言って、アルベリオは父王に説得を試みた。
唯一の王子であるアルベリオに早く後継者を、と望んだ父王は、絶対にエルフの少女を城からは出さないという条件を付けた上で、ようやくその提案をのんでくれたのだった。
「見た方が早いね」
アルベリオは、ポケットから鍵を取り出した。
それが鉄の扉に付いている鍵穴に差し込まれ、回されるのを、シャルシャは見つめていた。
「ほら」
アルベリオは鉄の扉を開き、手を差し出す。
「行こう」
シャルシャは頷いた。
その目に、涙が溢れた。
顔を伏せながら彼女は、アルベリオに手を引かれて、牢を出る。
そのまま廊下を進み、突き当たりの扉をくぐって、階段を上った。
その先に、地上が広がっていた。
明るい光に包まれた世界だ。
地面を踏みしめ、信じられないかのように、しばらくシャルシャは固まっていた。
何度もブーツで、地面を引っ掻く。
それから、見上げた。
「空だ」
その呟きは、そこにあるのが不思議だと言いたげだ。
青い空間に片手をかざし、太陽を遮る仕草をする。
「木がある」
アルベリオの手を離れ、一本ずつ、手を触れてシャルシャは確かめる。
北の離宮は小さな森に囲まれていた。
小屋を少し増築した程度の建物だけれど、独りで住むには十分過ぎる広さだ。
南に王城が見える。
王族の墓所に近いため、関係者以外の出入りが禁じられていて、他に人はいない。
「ああ、ルファンジア!」
シャルシャが空に向かって呼びかけた。
「風が吹いてる!」
一陣の風が、彼女の黒髪を揺らした。
シャルシャは風で踊る葉を、追いかけ始めた。
楽しそうに、彼女は遠ざかる葉に翻弄されている。
見守るアルベリオの胸の奥が痛んだ。
彼女を諦めたくない。
ここで、二人で過ごしたい。
それはいけないことだろうか?
「アルベリオ!」
シャルシャが戻ってきて、彼を抱き締めた。
「鉄格子がない!」
今までずっと、冷たい鉄の格子が、二人の接触を阻んできた。
こんな風に触れあうのはこれが初めてだ。
「そうだね」
アルベリオは抱き返す。それが自然なことのように感じたのだ。
初めて触れた、彼女の体温。
「ありがとう、アルベリオ!」
狂おしいほどに溢れたアルベリオの気持ちを、シャルシャは知らない。彼女は無邪気に笑った。
「これから毎日、空を見上げられるのね」
こんな日を夢見ていた。
子どもの頃の自分なら、凄く喜んだはずだ。
(君の喜びが、僕の喜びだった──)
シャルシャが再び、樹の一つ一つに手をやり、挨拶をしている。
エルフは、自然との共存を喜ぶ種族だから。
(自由にしてあげるのが、僕の夢でもあった。なのに……僕は怖い。君が遠くへ行ってしまうことが)
矛盾した願いが胸を焼く。
苦しくてアルベリオは目を閉じた。
暗い影が、自分の中にゆっくりと広がっていくような感覚があった。
「アルベリオ!」
軽い足音が駆けてくる。
目を開けると、間近にシャルシャの心配そうな表情が見えた。
「……大丈夫?」
アルベリオは頷くと、自分の中にある闇を捻じ伏せた。
揺れる梢が、シャルシャに光と影を落としている。
彼女の手が伸びてきて、アルベリオの涙を拭った。
「アルベリオって、よく泣くよね」
シャルシャが柔らかく笑う。
彼女がそんな風に笑うところを、初めて見た。
今日の日を、アルベリオは生涯に亘って鮮やかに覚えているだろう。
「おいで。離宮の中を見せてあげる」
穏やかな笑みを浮かべて彼は、シャルシャに手を差し伸べた。
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