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現世に帰ることになりました

 仁菜の意識が回復に向かっているせいか、頭の魂と肉体を繋ぐ糸が、目に見えて太くなっていた。地獄の管理タブレットに表示された『復活者』の欄に、仁菜の名前が移動した瞬間、見学者としての滞在は終わりを告げた。


 現世に生き返ることが決まった仁菜は、地獄の空気を名残惜しそうに吸い込んだ。洗濯地獄、アイロン地獄、料理地獄、収納地獄——彼女が手を入れた場所は、どこも少しずつ人間らしさを取り戻していた。


 アゼルは、仁菜の前に立ち、何か言いたげに口を開いたが、すぐに閉じた。彼の表情には、複雑な心境が滲んでいた。


「……次に会う時は、ちゃんと迎えに行く」


 不器用な言葉だった。けれど、その言葉には、確かな約束の温度があった。


 仁菜は微笑みながら頷いた。


「うん。その時は、ちゃんとアイロンかけた服で来てね」


 光の粒が彼女の周囲を包み、魂の糸が現世へと引き戻されていく。アゼルはその光の中に、仁菜の姿が溶けていくのを、ただ黙って見送った。


 ——そして、病院。


 白い天井の下、仁菜はゆっくりと瞼を開けた。機械の音、消毒液の匂い、窓の外の風。事故の記憶は曖昧だったが、彼の存在だけは鮮明に残っていた。


 黒い制服、赤い瞳、そして、あの不器用な言葉。


「……アゼル」


 彼女は呟きながら、ベッドの脇に置かれた吸い飲みから、ゆっくりと水を飲んだ。現世の感触が、少しずつ指先に戻ってくる。


「……生きてる……」


 アゼルのことを考えると複雑な、心境だった。


 所々仁菜の体は複雑骨折をしており、起き上がるのも難儀な状態だった。

 事故の状況はよくなく、右直事故だったため、過失割合が、仁菜の方が重く、保険金はあまり期待出来ない状況で、その事で母親は嫌悪の表情を隠さなかった。

 母と、弟妹のお見舞いは気が重く、仁菜は早く退院して、家に戻りたかった。

 3ヶ月ほど、入院をしながらリハビリをすると、杖は手放せないが、退院の目処がついて、ホッとした。


 時々思い出す、黒い髪と赤い瞳の不器用な人……アゼル。


 仁菜はアゼルを、想いながら、退院までの日々を過ごしていた。


 退院の日、仁菜は持ってきて貰った服に袖を通し、街の風を感じながら歩き出した。日常は変わらず流れていたが、彼女の中には確かな予感があった。


「いつかまた会える。きっと、あの人が迎えに来てくれる」


 その夜、仁菜はベランダに立ち、夜空を見上げた。星の瞬きの中、風がふわりと吹き抜ける。


 そして——一枚の黒い羽が、風に乗って舞い降りた。


 仁菜はそれをそっと手に取り、胸元に抱きしめる。


 それは、遠い世界からの静かな合図。

 再会の予感を秘めた、ひとひらの羽。


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