まずは掃除から始めましょう!
翌朝。新品のゴム手袋をキュッとつけて、私はエプロンとマスクの完全装備でアゼルの執務室へ足を運んだ。
あの後、アゼルはその場で買い物に行ってくれて、頼んだものを全部買ってきてくれた。業務用の掃除機、雑巾、消臭剤、その他もろもろ。
「……仕事が早い! やればできるじゃない、アゼル!」
私はそう言って、アゼルの背中をバシバシ叩いた。
アゼルは顔を赤らめながら、
「俺の部署のことだし……まあ、必要最低限として……」
と、頬をぽりぽり掻きながら、なぜか恥ずかしそうに答えた。
アゼルのオフィスに再び足を踏み入れる。
昨日よりも部屋の空気が軽い。窓を開けた効果か、少しだけ風が通っている。
「よし、まずは書類の仕分けからね。アゼルさん、この“未処理”って書かれた山、何年分?」
「……たぶん、五年くらい?」
「地獄って、時間止まってるの?」
私は呆れてため息をついた。
セロスはあれから『白の世界』へ戻っていったが、なんとなくまた来そうな気がする。
私は書類に付箋を貼りながら、ジャンル別に分け始めた。
その様子をアゼルは黙って見ていた。
そして何かを思いついたのか、おもむろに傾いていた棚へ向かい、黙々と修理を始めた。
私が黙々と書類整理に勤しんでいると、
「一息つこう。お茶でも入れてくるよ」
と、アゼルが給湯室へ消えていった。
しばらくして、湯呑みを持って戻ってきたアゼルだったが、足元のコードに引っかかり、バランスを崩す。
「わっ!」
手から湯呑みが飛び、熱いお茶が私の足元にこぼれた。
「熱っ!」
『仮死者でも、痛みはあるんだ……』
そんなことを思いながら、私は反射的に後ろへ下がった。
だが、掃除機のコードに足を取られて転び、真ん前に立っていたアゼルの胸元に倒れ込んだ。
ドンッ。
顔が、近い。
赤い瞳が驚で見開かれる。
私は一瞬固まり、アゼルの胸板の硬さと体温に気づいて、慌てて跳ね起きた。
「ご、ごめん! コードが……!」
アゼルは無言で立ち上がり、乱れたネクタイを直す。
その仕草が妙に色っぽくて、私は思わず目を逸らした。
廊下の向こうからセロスの声が響く。
「なんでや! なんで掃除でラブコメみたいな展開になっとんねん! ワイの白の世界ではそんなイベント起きへんぞ!」
「ラブコメって、そんなんじゃないわよ! 事故よ! ハプニング!!
てか、あんたまた来たの!? 『白の世界』でラベンダーアロマに癒されてなさいよ!」
私は顔を赤くしながら、再び書類の山に向き直った。
アゼルは、
「……茶、入れ直してくる」
とだけ言い、盆を抱えて給湯室へ消えていった。
気のせいか、給湯室へ向かう彼の耳が赤かった気がした。
給湯室から戻ったアゼルは、人数分のお茶の入った盆を片手に、器用に何かを一緒に持ってきた。
「……これ、使え」
アゼルがお茶と一緒に差し出したのは、救急箱だった。
「ありがと。少し、休憩入れましょうか。わたし、足の様子確認したいし」
今度は私が給湯室へ向かった。
濡れた靴と靴下を脱ぎ、つま先を確認する。
「あちゃー、少し赤くなってる。まあ、熱湯がかかったんだから当然か」
私は不格好ながら、足を給湯室のシンクに突き出して、しばらく流水で冷やした。
「大丈夫か?」
不意に給湯室に現れたアゼル。
私は足を冷やすためにマキシワンピースを太ももまでたくし上げていた。
私の足と太ももに、自然とアゼルの視線が走る。
やがて彼は慌てて後ろを向き、顔を真っ赤にして、無言で給湯室を去っていった。
「何、あんなに慌ててるんだろ?」
程よく足先が冷えたところで、近くにあったタオルで足を拭き、救急箱から『冷えピタ』を取り出す。
応急処置としてつま先に貼り、ズレないように包帯で固定。
まだ湿っている靴下を履き直し、靴を履いた。
そして給湯室を見回してみた。
「ここも掃除しなきゃ……」
水垢が溜まり、タオルや雑巾もいつ洗濯されたのか分からない。
漂白剤の気配もない。
「なんか、排水溝からヤバげな匂いもするし……」
汚ければ汚いほど、俄然燃えてくる。
『徹底的に綺麗にしてやろう』
という思いが込み上がる!
「よーし! 続き、頑張るぞー!」
手当を終えた私は、見えない強敵——
“混沌とした黒の世界庁舎”の汚れと雑然とした書類の山を今日中に片付ける決意を胸に、給湯室を出て、“戦場”となるアゼルの執務室へ再び向かった。




