7.四妃のお茶会(2)
「何があった?」
リゼに世界の音が戻ってきた。顔を上げると、そこにはルーファウスがいた。昨日は玉座に座っていたのでわからなかったが、想像以上に背が高くて驚く。
ルーファウスの後ろには、二十代後半くらいの茶髪の青年と、老齢の紳士が佇んでいる。確か青年の方は、サイラス・ゴールトンというルーファウスの側近だ。昨日の謁見のときにも、ルーファウスのそばに控えていた。ルーファウスと違い、穏やかそうな見た目の人である。
一方の老齢の紳士は、ブロンドの髪を丁寧にまとめあげ、その顔には薄っすらと微笑をたたえている。なんとも気品漂う人だ。彼も謁見の間にいたことは覚えているが、名はわからない。
「これはどういう状況だ? なぜリゼ妃の頭が濡れている?」
ルーファウスの登場に、アンジェリカとその侍女は揃って顔を青くしており、マリーナは怯えたように俯いている。そしてシャーロットは、無表情のままルーファウスを見つめていた。
説明を求めたルーファウスに、エリンが答える。
「陛下、僭越ながら申し上げます。アンジェリカ様が――」
「エリン」
リゼはエリンの袖を引っ張って止めた。目を丸くする彼女に、リゼは首を小さく横に振り、「大丈夫です」と伝える。
その時には、リゼの震えは収まっていた。ルーファウスの周りを飛んでいた小精霊たちを見て安心することができたからだ。精霊はいつだって、リゼの味方である。そばにいてくれるだけで、心が落ち着く。
冷静になったリゼは、すぐに思考を働かせ、自分がこの場でなすべきことを見定めた。
このままでは、アンジェリカが確実に悪者になってしまうだろう。それはリゼにとって、都合の悪いことだった。
頭の中で台詞を考えてから、小さく拳を握り、意を決して口を開く。
「私の頭に蜂が止まっていて、アンジェリカ様が水をかけて追い払ってくださったのです。お騒がせしてしまい、申し訳ございません」
リゼの発言に、エリンとアンジェリカは驚き、ルーファウスは怪訝そうに眉を顰めた。
他の三妃の印象を良くしておくことは、リゼにとっては非常に重要なことだった。
ルーファウスは、各属国から妃を集める制度は無駄な争いを生むとして、次の代で廃止すると宣言しているそうだ。リゼはそのことを、今朝エリンから聞かされた。今はすでに四妃が揃ってしまっているため、正妃になれなかった妃――つまり側妃については、この城に残るか、母国に帰るかを選択できるようにするらしい。
そういうことならと、リゼはルーファウスの子を身ごもらず、いずれこの城を去り自由になるつもりだった。もちろん母国には帰らず、気の向くままに旅をしようと考えている。
そのためには、自分以外の誰かに、ルーファウスの子を身ごもってもらう必要がある。だからこそ、他の妃の印象が大事になってくるのだ。
とはいえ一度くらいは抱かれる可能性もあるかもしれないと、リゼは自身に避妊魔法をかけていた。それほどまでに、リゼは子を産むまいと徹底していた。
「とてもそんな状況には見えないが? まさか、他の妃から洗礼を受けた、というようなことはあるまいな?」
ルーファウスはリゼの方を向きながらも、鋭い視線をアンジェリカに向けた。彼女は何も言えず、唇を噛みしめて顔を背けている。
「いいえ、陛下。皆様とてもよくしてくださって、優しい方ばかりです。陛下が勘ぐられるようなことは、何も」
リゼはルーファウスを見つめ、はっきりと断言した。ここで自分が怯えていては、他の三妃にいじめられていたと思われてしまう。リゼは気丈に振る舞った。
ルーファウスはしばらくリゼのことを見つめた後、小さく息をついた。
「エリン。早く屋敷に戻って着替えさせろ。このままでは風邪をひく」
「は」
エリンが返事をしたときには、ルーファウスは既に踵を返し、歩き出していた。嵐が過ぎ去り、妃たちの緊張が一気に解ける。
リゼはルーファウスの背中を目で追い、なんとかこの場を収められたことに安堵するのだった。
その後、お茶会はすぐに解散となり、リゼはエリンと共に自分の屋敷へと戻った。
浴室に直行して湯浴みをし、冷えた体を温める。そして、新しいドレスに着替えたリゼは今、自室でフェンリルとヴェンヌとともに休んでいた。
二匹は近くにいた野良精霊からアンジェリカの一件を聞いたらしく、リゼが帰ったときにはかなり腹を立てている状態だった。彼らに「大丈夫だから」と何度も言い聞かせ、今ようやく落ち着いたのだ。
ちなみに野良精霊とは、精霊術師と主従の契約を結んでいない、自然界に生きる精霊のことである。対して、精霊術師と契約を結んだ精霊は、契約精霊と呼ばれる。精霊術師の数が少ないので、当然ながら契約精霊も少ない。精霊の大半が野良精霊だ。
精霊は基本的に自然を好むので、緑豊かな場所に行けば、大抵野良精霊に会える。リゼは屋敷の裏庭や皇城の庭園で、何匹か野良精霊を見かけた。声をかけられてついうっかり返事をしてしまうと、周囲に不審がられるので注意が必要である。
自室でしばらく休んでいると、エリンがお茶を運んできてくれた。リゼのそばのテーブルにティーカップを置きながら、彼女は言う。
「リゼ様、どうしてアンジェリカ様をかばうようなことを?」
エリンからも精霊王たちと同じような苦言を受けてしまった。彼女は心底解せないという表情をしている。普通の人間なら、他人から水をかけられれば怒る。リゼの反応に理解できないのは当然だろう。
エリンに対して、「正妃になりたくないから」、「他の妃の印象をよくしておきたいから」、とは言えない。その本音は隠しつつ、リゼは自分の考えを口にする。
「あの時、かけようと思えば、熱々の紅茶をかけることだってできました。ですがアンジェリカ様は、火傷しないよう水を選んでくださいました。本当は、優しい方なんだと思います」
アンジェリカに水をかけられ睨まれたときは、なんて恐ろしい人だろうと思った。しかしあの時は、自分の不用意な発言に焦り、皆から責められ、冷静ではなくなっていた。
しかし、今振り返ってみると、アンジェリカのことをそれほど悪く思えなかった。
もしあの時、あの場にいたのがアンジェリカではなく異母姉だったら、間違いなく紅茶をかけられていただろう。実際に、異母姉に熱湯をかけられ火傷を負った経験が何度かある。だから、あえて水を選んだアンジェリカは、きっと悪い人ではないのだと、リゼはどこか確信していた。
一方で、リゼの発言に対するアンジェリカの怒りようは、少し異常とも思えた。気が立っていた事情が、何かあるのかもしれない。ルーファウスのお通りがないことに、焦っているのだろうか。
「水をかけること自体が、妃として相応しくない振る舞いです。もう、リゼ様ったら、私にもっと怒らせてくださいませ。リゼ様にそう言われては、何も言えなくなってしまいます」
頬を膨らませるエリンがかわいらしくて、リゼはフッと表情を緩めた。
フェンリルとヴェンヌから『エリンには気をつけろ』と言われ、昨夜こそ警戒していたリゼだったが、今は「彼女は裏表のない優しい人だ」と、そう判断している。お茶会の時間、エリンに背後に立たれていたが、全く嫌な気配はしなかったし、アンジェリカの行動に真っ先に怒ってくれた。もし敵意を持った人間なら、そうはいかない。
エリンの身のこなしからして、只者ではないというのは同意するが、敵でないならそれでいい。
「エリン、ありがとうございます。私のために、怒ってくれて」
リゼがはにかみながら礼を言うと、エリンは目尻を下げ、優しく笑った。そして彼女は、切り替えるように、パンとひとつ手を叩く。
「リゼ様、実は今日、とっておきを用意しているのです」
「とっておき?」
首を傾げるリゼに、エリンはムフフと意味深な笑みを浮かべる。早く言いたくてたまらないといった様子だ。視線で続きを促すと、彼女は得意げに胸を張った。
「リゼ様のために、種芋とトマトの苗木をご用意しました!」
「……え?」
一体なんのことかわからず、リゼはさらに首を傾げた。すると、エリンが満面の笑みで答える。
「昨日、裏庭の畑に植えたいと仰っていたので、すぐさまご用意したのです。リゼ様には、この屋敷の中では自由に過ごしていただきたいので」
そこまで聞いてハッと気づく。昨日、フェンリルとヴェンヌとともに、そんな話をしていたのだ。リゼは慌てた。
「ききき聞いてたんですか!?」
「はい。窓を開けておられたでしょう? リゼ様のお声が庭まで聞こえておりました。狩りにも行きたいと仰っていたので、近日中に予定を組もうかと……って、リゼ様? どうなさいました?」
リゼの頭からサーッと血の気が引いていく。
エリンに精霊の声は聞こえない。きっと、独り言をブツブツと言っていた、おかしな女に思われたに違いない。
どうしよう、と思わず足元のフェンリルとヴェンヌに視線を向けると、二匹は怪訝そうに眉を顰めていた。
『外に聞こえるほど、大きな声で喋ってたか?』
『特に聞かれてまずいようなことは言ってないから、大丈夫だと思うけど……。これからは用心しよう』
リゼはコクコクと頷いた。しかし、懲りずに二匹の声に反応してしまったことに再びハッとし、さらに慌ててしまう。
リゼの様子を不思議に思ったのか、エリンが尋ねてくる。
「リゼ様? どうかなさいましたか?」
「いえ……。以後気をつけます」
リゼは消え入るような声でそう言うと、これから精霊たちと話す時は、絶対に窓を閉めようと強く心に決めるのだった。




