22.触れる、重ねる
幽閉から解放され、二週間が経ったある日の夜。
エリンに体をピカピカに磨き上げられたリゼは、自室でひとり、そわそわとしながらルーファウスを待っていた。
二度目のお通りがあると聞かされたのは、今日の夕刻。前回はルーファウスに、「お前はウィンター王家が送り込んだ刺客か間者ではないか」と問い詰められた。その記憶があるので、今回の訪問もあまりいい理由ではないかもしれないと、リゼは終始落ち着かなかった。
程なくして、ルーファウスが部屋を訪れた。リゼが扉を開けて出迎えると、彼はフッと微笑んだ。”血濡れの皇帝”の異名とは程遠い、優しい笑みだ。
「塔で会った以来だな」
「は、はい。お怪我はもう大丈夫なのですか?」
怪我を負っていた腹部に自然と目が行く。
ルーファウスは今日も、シャツにスラックスという姿だ。前回の訪問の時に見えた、鍛え上げられた彼の腹筋がふと脳裏に蘇る。リゼは途端に恥ずかしくなり、すぐに視線を彼の顔へと戻した。
すると、ルーファウスはその大きな手でリゼの頭を撫でた。
「ああ、お前のおかげで、すっかり治っている」
「……私は何もしておりません」
ルーファウスはやはり、自分の怪我を治したのがリゼだと信じて疑わないようだ。これ以上何を言っても墓穴を掘るだけだと思い、リゼは黙り込む。
するとルーファウスはリゼの頭から手を離し、スタスタと寝台に向かっていく。
彼の後ろ姿を目で追いながら、リゼはそっと、自分の頭に触れた。
(誰かに頭を撫でてもらうなんて、いつ以来かな……)
彼に触れられるのを心地いいと思った。その気持ちを自覚して、また恥ずかしくなる。
寝台に座ったルーファウスが「来い」と手招きしている。リゼは大人しく指示に従い、彼の隣に腰かけた。
(今日の用件は、一体なんだろう……)
リゼがルーファウスの言葉を待って黙り込んでいると、彼は徐に口を開いた。
「お前の過去を知った。お前が恐らくは愛し子だろうということも」
「え……」
リゼの顔から一瞬で血の気が引いた。ルーファウスが訪ねてきた目的は、間違いなくこの話をするためだ。
過去を知っているということは、森で暮らしていたこともバレているはずだ。よくも偽りの姫を寄越したなと、怒っているかもしれない。いや、精霊の愛し子を手中に収めたと気づいた今、その力をどう利用してやろうかと企んでいるのかもしれない。
リゼはルーファウスと過ごしたわずかな時間の中で、彼は噂のような非情な人間ではないと、きっとそんなことをする人ではないと思っている。しかし一方で、こちらの正体を知らなかったから優しくしてくれただけではないかと、最悪を想像してしまう。
それに、この話はどこまで知れ渡っているのだろうか。エリンやサイラスは? アンジェリカは? 他の妃は? もしかしたら、もう城中に広まっているのでは――。
そう考えると、リゼは恐怖で震えた。
青ざめるリゼの頭を、ルーファウスが再び撫でる。
「怯えなくていい。俺はお前の力を利用する気は一切ない。このことを知るのも、俺とエリン、サイラスだけだ」
落ち着かせるような、静かで温かい声だった。
「ウィンター王城での一年、さぞつらかっただろう」
思いがけないことを聞かれ、リゼはルーファウスを見上げた。彼の労わるような優しい視線を浴び、心が大きく揺れる。
「……はい」
王城での光景がフラッシュバックした。
蔑みの眼差し、罵声、暴力。どれだけひどい扱いを受けても、リゼは耐えた。フェンリルやヴェンヌに心配をかけまいと、弱音を吐くこともしなかった。大丈夫だからと、二匹に、そして自分に言い聞かせてきた。
「よく耐えたな」
ルーファウスは何度も何度もリゼの頭を撫でる。
「は……い」
かけられた言葉がじわじわと心に広がり、リゼの目から熱いものが込み上げてくる。ルーファウスの手の温もりが、リゼの心に突き刺さったままの氷の楔を溶かしていく。
「俺が皇帝でいる限り、お前を守ると誓おう」
ルーファウスはリゼの背に腕を回し、そっと抱きしめた。まるでリゼの溢れる涙を隠すように、彼は胸の中にリゼを招き入れる。
彼のまとう、落ち着いた香油の香りが鼻先をくすぐり、リゼはどうしてかひどく心が安らいだ。
「聞かせてくれないか。リゼがこれまで、どういう人生を歩んできたのか」
ルーファウスの心音を聞きながら、リゼはこれまでのことをすべて話した。
物心ついた頃から森で暮らしていたこと。母や精霊王たちとの暮らしはとても幸せだったこと。
ウィンター王城に連れてこられてからは、毎日死んでしまいたいと思うほどにつらかったこと。人間のことが怖くなったこと。
この国に来てからは、少しずつ人と関われるようになったこと。屋敷ではとても自由に過ごせていて、毎日が楽しいこと。エリンの優しさに救われていること。アンジェリカという、初めての友人ができたこと。
すべて話し終えると、ルーファウスはそっとリゼを離した。
「この国での生活に不自由を感じていなくて安心した。楽しいなら何よりだ」
「すべてはルーファウス様やエリンのおかげです。色々と気にかけてくださり、本当にありがとうございます」
「ウンディーネは、この城には来ないのか?」
「清らかな水がないと会えないのです。皇城の庭園にあった池でなら会えるのですが」
結局、リゼは宮廷晩餐会の日以降、ウンディーネに会えていない。人目に付かない時間帯に池に行くのが難しいのだ。人に見られている中では、ウンディーネと会話ができない。
「ならばこの屋敷の庭に池を作ろう。そうすればいつでも会える」
ルーファウスの提案に、リゼは目を見開く。
「よいのですか? でも、私だけ、そこまでしていただくわけには……」
ウンディーネに毎日会えるのは嬉しい。しかし、自分だけわがままを聞いてもらうのは不平等ではないだろうか。他の三妃も、同じ待遇でなくては釣り合いが取れない。
リゼは、ずっと気にしていたことをルーファウスに尋ねる。
「他のお妃様の元へは、通われないのですか?」
ルーファウスがリゼの元へ初めて訪れたあの日以降、他の妃の元にお通りがあったという話は一度も聞いていない。
なぜ自分の元へばかり、という疑問がリゼにはあった。
「私は、四妃の中で一番幼く、女性としての魅力もありません」
「それはない」
即答したルーファウスの手が、リゼの頬に触れる。
「俺を……俺自身を見てくれているのは、リゼ、お前だけだ」
まぶしく輝く金色の瞳に、吸い込まれそうになる。その視線は熱を帯びていて、リゼは思わず息をのんだ。心臓がバクバクとうるさく鳴ってかなわない。頬に触れるルーファウスの手の温もりが、彼との距離の近さを嫌でも自覚させる。
「リゼ。どうか俺の子を身ごもってほしい」
どうしよう、とリゼは顔を曇らせた。
他の三妃の誰かがルーファウスの子を産み正妃になれば、リゼはこの城から出て自由になれる。最初はそう思っていた。
だが彼は、リゼの元にしか通わない。一方、リゼは自分自身に避妊魔法をかけているので、彼の子を身ごもることはない。これではずっと平行線で、リゼがこの城から出ることは叶わなくなる。
(私、なんで自由になりたいんだっけ……)
この城に来る前は、血濡れの皇帝の噂が先行し、早く自由になりたいと、何者にも縛られず生きたいと、そう願っていた。
しかし、いざ城に来てみれば、一人にはもったいないくらいの立派な屋敷が与えられ、何不自由ない暮らしが送れている。今でも十分に自由なのだ。
その時、ふっ、と、彼の唇が自分の唇に触れた。生まれて初めての口づけだった。
「リゼ」
息がかかるほど近くでささやかれ、リゼは途端に何も考えられなくなる。
「へ…いか……」
リゼのつぶやきに、ルーファウスはなぜか一瞬、深く傷ついたような顔をした。彼はそのまま目を伏せ俯く。
「……俺なんかが皇帝という立場にいてはいけないんだ」
この至近距離でも聞こえないほどの、小さな声だった。
「え?」
リゼが思わず聞き返すと、ルーファウスは微笑んだ。しかしそれは、今にも泣きそうな笑顔に見えた。
「リゼ、俺のことは皇帝ではなく、ルーファウスと」
「ルーファウス、さま」
「いい子だ」
リゼの頬に触れていた彼の手が、するりと頭の後ろに回る。ルーファウスは何度も何度も、触れるだけの口づけを落とした。初めは唇に、やがて、耳、首筋、胸元へと下りていく。
リゼは気づけば寝台の上で横たわっていた。彼が触れる箇所すべてが敏感になる。
「んん……は……んっ」
聞いたこともない自分の声に恥ずかしくなり、ぎゅっと目を瞑る。
ルーファウスは何度も「リゼ」と優しく名を呼んだ。彼の声と体温に包み込まれ、そのまま溶けてしまいそうな感覚を覚える。生まれて初めて体験する強烈な快楽に、どうにかなってしまいそうだった。
(ルーファウス、さま……)
体を重ねた後、リゼはそのまま気絶するように眠った。母や精霊王以外と眠る、初めての夜だった。
――リゼが寝入った後、ルーファウスはその愛らしい寝顔を見ながら、ひとり呟く。
「巻き込んですまない、リゼ。必ず守る」




