18.立ち込める暗雲
宮廷晩餐会から二週間が経っても、リゼを池に突き落とした犯人は見つからなかった。目撃者が一人もおらず、手がかりが何一つとして残っていなかったからだ。
庭園から衛兵がこぞっていなくなっていたのは、別の場所で酔っ払った貴族同士の喧嘩が起き、その対応に追われていたかららしい。
皇城内では、「犯人はリゼ妃殿下が正妃になると都合が悪い人物ではないか」と推測されていたが、犯人が捕らえられなかった以上、なんの確証もない噂話に終わった。
エリンは犯人を見つけられないことに何度も謝罪していたが、自責の念に駆られる彼女を見るたび、リゼは池に落とされたことを黙っていた方がよかったかもしれないと思った。エリンにつらい思いをしてほしかったわけではないのだ。
あの日以来、リゼの警備は強化された。屋敷には結界が張られ、悪意のある者は決して立ち入れないようになった。なんと、ルーファウス自らが結界を張ったのだ。一流の魔術師である彼が施した結界なら、そう破られることはないだろう。
警備が強化されたおかげか、宮廷晩餐会の日以降、命を狙われるようなことは起きていない。屋敷ではフェンリルとヴェンヌがいてくれるので、暗殺に怯えるようなことは一切なかった。
ウンディーネにも会いたかったが、昼間に庭園の池まで行くわけにもいかず、かといって夜に屋敷を抜け出すのもエリンに心配をかけそうで、会えずじまいだった。
そんな、とある新月の夜。
リゼはそろそろ寝ようと明かりを消し、寝台に潜っていた。いつものようにフェンリルとヴェンヌを抱きしめながら眠ろうと思ったが、寝台にはフェンリルしかいない。
部屋を見回すと、ヴェンヌは窓際に立ち、鋭い視線を外に向けていた。彼がこうして目を細めるとき、決まって遠くにあるものを見定めようとしている。彼は何キロ先をも見通す眼を持つのだ。
「ヴェンヌ、どうかしたの?」
『皇帝が襲われてる』
「えっ……?」
『このままじゃ死ぬよ』
ここ数日、ルーファウスは領地視察として各地を巡っていた。今日の昼には視察を終えて、皇城に戻ってくるはずだったそうだ。しかし予定が押してしまい、城に到着するのは夜になるだろうと、エリンが言っていた。
ルーファウスが襲われたのは、恐らくその帰路でのことだ。
「ど、どうしよう……。助けないと」
『わざわざ助けてやる必要なんてないだろ? あいつが死ねば、リゼは自由の身だ。願ったり叶ったりじゃねえか』
フェンリルは寝台に横たわり、大きなあくびをしている。ルーファウスが死のうが、別にどうでもいいのだろう。
「それとこれとは別の話でしょう? それに、皇帝陛下が亡くなったとき、妃がどういう扱いになるかわからない」
リゼは急いで寝台から出ると、靴を履き、ローブを羽織った。誰かに顔を見られないよう、フードを深くかぶる。
「ヴェンヌ、お願い。私を陛下のところへ連れて行って」
『本当に行くのかい? 万が一誰かに見つかれば、どうなるかわからないよ』
「それでも、行かないと。お願い」
リゼは強い視線でヴェンヌに懇願した。彼は険しい顔で逡巡したあと、小さく頷く。
『……わかった』
『おいおい、ヴェンヌ。本当に行く気か?』
『リゼが望むなら、それを叶えるのが僕らの役目だ。違うかい?』
『…………』
ヴェンヌとフェンリルはしばし睨み合っていたが、先にフェンリルが折れた。彼は『さっさと片付けて戻ってこいよ』と言って、フッと息を吐く。
するとフェンリルはみるみるうちに姿を変え、リゼそっくりの見た目になった。精霊王ともなれば、これくらいのことは朝飯前なのである。
フェンリルはリゼの姿のまま、寝台に横たわった。これで万が一エリンが部屋を訪れても、不在をごまかせそうだ。
「ありがとう、フェンリル。行ってくるね」
リゼはバルコニーの扉を開け、ヴェンヌと共に外に出る。今日は新月なうえに曇り空だ。姿を隠すにはちょうどいい。
「ヴェンヌに乗るの、久しぶり」
『落ちないように、しっかりつかまっててね』
ヴェンヌはいつもの小鳥の姿から、一瞬にして元の姿に戻った。黄金色の大きな翼をもつ、空の精霊王の顕現だ。今日が満月の日だったなら、その羽は月光に照らされ眩しく輝き、誰もが「神が降臨した」と見まがうだろう。
リゼがヴェンヌの背に乗りつかまると、彼は翼を広げ、大空へ飛びあがった。
* * *
皇帝一行がいる場所まではほんの一瞬だった。そこは、皇都と隣街を結ぶ、森林街道の中だった。
リゼは今、小さくなったヴェンヌを胸に抱え、茂みの中に隠れている。数メートル先には、近衛兵たちと賊と思しき人物らが、激しく剣を交えていた。すでに負傷者も多く、数人が地面に倒れていて動かない。
「ヴェンヌ。敵を一掃する。力を貸して」
『もちろん。我らが愛し子』
リゼはそっとヴェンヌの羽に触れた。フェンリルとはまた違う、優しく、だが力強い魔力が流れ込んでくる。
『これくらいで足りる?』
「うん、十分」
準備が整ったところで、リゼは賊を視界に収めた。一人も取りこぼさないよう、敵だけに意識を集中させる。
「ひれ伏せ」
リゼが小さくつぶやくと、敵が一斉にその場に倒れこんだ。
直前まで切り合っていた相手が突然視界から消え、近衛兵たちは一瞬、強い警戒を見せた。しかし、すぐに賊が地面に倒れていることに気づいたようで、一体何が起きたのかと困惑している。
近衛兵たちは、戸惑いながらも賊を捕らえ始めた。
「癒やしの風よ、皆に安らぎを」
リゼが再びつぶやくと、柔らかな風が森を吹き抜け、木の葉を揺らした。風が近衛兵たちを撫でると、途端に傷が癒えていき、倒れて動かなくなっていた者たちもゆっくりと目を覚ます。
近衛兵たちは目の前で起きている出来事が信じられないようで、「神が我々を守ってくださったのだ」と口をそろえて言っていた。
賊は片付き、怪我人も治療した。これでもう大丈夫だとリゼがホッと息をついたところで、ヴェンヌが焦った声を出す。
『皇帝がいない……!?』




